託されたペン、広がる未来(一)
黒田彩菓茶房で働き始めて薫子の生活は一転した。
秩父の自宅から通うにはあまりも遠いため一人で暮らせる部屋を借りなくてはならなかったが、店の二階が空いているから住み込みで良いと言ってくれた。
誠一は別に自宅があるらしく、黒田彩菓茶房の清掃や建物管理も仕事になった。
男性一人でやってきた店のため女性用の制服は存在しない。
何か用意することになり、洋装の誠一に合わせた方が良いのかと思ったが無理のない服装で良いと言ってくれた。
ならば手持ちの着物を使おうと思ったが、あまりにも着潰していたのでこれを機に新調することにした。
黒田彩菓茶房はソファや内装が暖色でまとまっているため赤色にして、エプロンは勤めてくれるお礼にと言って真っ白でぱりっとした新品を用意してくれたのだった。
初めて実家以外の場所で働くことになり緊張もしたが、一か月も経つと黒田彩菓茶房がどんな経営をしているのかが見えてきた。
黒田彩菓茶房は人通りの多い大通りから少し外れた場所にある。
そのせいか客はまばらで、多いとは言えない。それでも店内はいつも賑やかだ。
その理由は誠一の経営方針にある。
「じゃあ仲直りできたんですね」
「うん! このクッキーすごく気に入ってくれたの!」
誠一はソファ席で女性客と歓談している。
決して彼女に気があるとか恋仲だとかいうことではない。これが誠一の接客だ。
「一重じゃなくて八重なのが素敵ねって。マスターの言うとおり八重桜にしてよかった!」
「そう言ってもらえれば僕も作ったかいがあります」
彼女は桜さんという友達と喧嘩して、仲直りのきっかけが見つからないと悩んでいたそうだ。
そこで誠一が考えたのは八重桜のクッキーだった。
たくさん言葉を交わせば一人ではできない成長をし、新しい自分へと変わっていけるだろう――という意味らしい。
彼女はそれを話題のきっかけにして桜さんと話すことができたそうだ。
誠一のアドバイスと想いがこもった八重桜のクッキーが彼女の心を打ったようだ。
「これはうちのお客さんにも好評なんですよ。お土産に使いやすいそうなんです」
「私も大好きですよ! 苺味だけど甘すぎないし、生クリームと一緒に食べるのも美味しかった!」
こうして誠一がお客様の話を聞いて、その物語をお菓子にするのが黒田彩菓茶房の醍醐味だ。
しかしここに問題があった。薫子はカウンターの中で整えたばかりの帳簿を開き睨んだ。
(八重桜クッキーを作ったのが先月。クッキーはどうしたって大量にできるからそれを販売――はせず試作品として無料配布。好評で気分よく追加した結果大赤字、と)
誠一の無料お悩み相談は一人当たりおよそ三十分だ。長い時は一時間以上もお喋りをし、最長で三時間ということもあったらしい。
(お喋りはマスターと店の魅力だからいいけど、座席占領しちゃうのがな……)
マスターはお客様とのお喋りを店の座席で行う。その間は他のお客様が座れなくなるため回転率が非常に悪くなるのだ。
しかも話しにくかったり重い話題の時は隅の座席を使うが、そこは大きなソファの十人席のため団体客が入れなくなる。
加えて特注で作ったお菓子は無料で渡してしまうので完全に赤字となってしまう。
(しかも話すきっかけがてら頼まれてないお菓子を出しちゃうからそれも赤字。お客様の心は救えても数字だけ見れば赤字しかないのよね。けどどうもマスターは……)
ちらりと誠一を見ると、またもショーケースからケーキを出して振る舞っている。
どういう経緯で追加プレゼントなのか分からないが、きっとあれも無料だろう。
(経理を求人するほど赤字気にしてる風でもないのよね。もしかして他に収入があって帳尻合わせはできてるのかも。ただ赤字の概算はしておきたいだけ、とか)
当初は帳簿を作って細かく報告していたが、誠一が気にするのは最終的に赤字がいくらなのかだけだった。
その埋め合わせをどうするか、黒字にするにはどうしたらいいかといったことはあまり考えない。できれば黒字にしたいんですよね~と笑っていたが、実家が倒産の危機にある薫子には考えられなかった。
だがこうなると何故雇ってもらっているか分からないので、ひとまず無駄の削減には手を尽くすことにした。
ではこの店における無駄とは一体何なのか。
飲食店でありがちなのが賞味期限切れの食材廃棄だ。廃棄というのはその作業にお金がかかるので何一つ良いことが無い。
だが黒田彩菓茶房は廃棄が皆無だ。これは言わずもがな、誠一がどんどん配ってしまうから廃棄が出ない。むしろ足りないくらいだ。
(無料配布は販促費に付けて固定費扱いよね。そう考えると原価に無駄が無いともいえる。持ち家だから家賃も無いし。となると後は……)
薫子はとんっと帳簿の項目をつついた。それは人件費だ。
(はっきり言って私が無駄なのよね。経理なんて必要じゃないんだもん。どっちかといえばマスターがお喋りに集中するための接客係よね。ならそこで役に立たなきゃ駄目ってことだ。そうよね。それが私の目標にも繋がるし。うん)
心の中で努力を決意すると、ふいに誠一が窓の外を見て駆けだした。外は雨が降りだしたようで、行き交う人々は小走りだ。
だが誠一が店の外に行く必要は無い。傘立てを出すような雑用は薫子の仕事だ。
それでも誠一は外へ飛び出し軒下にしゃがみ込んだ。気になり背伸びしてその様子を見ると、どうやら他にも一人男性がしゃがんでいるようだった。
「ああ、これは……」
働き初めて日が浅い薫子でもすぐ分かる。これは誠一のいつものパターンだ。
薫子は棚から浴巾手拭を取り出し、お悩み相談時専用の無料珈琲を準備し始めた。
誠一が戻る前に奥のソファ席へそれを置くと、言われた指示は予想通りだった。
「薫子さん。奥の」
「ソファ席準備できてます」
誠一は相談されなくても悩んでそうな人を拾ってくる。連れてこられた方は驚き目をぱちくりさせる――これが一か月で理解した黒田彩菓茶房の日常で、薫子が役に立てる貴重な場面でもある。
こうして今日も黒田彩菓茶房の物語が始まるのだ。
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