古の彩菓、紡がれる記憶(七)

 そして翌日、薫子の悶々とした重苦しい想像を吹き飛ばすように明るい調子の誠一によるカステラケーキの試作が始まった。

 黒田彩菓茶房は休業にして大研究会だ。薫子は誠一と並んで台所に立った。


「ではまずはカステラから作りましょう。うちのお土産商品の定番でもありますね」

「洋菓子に抵抗のある方が召し上がること多いですよね。蜂蜜の風味が良いって」

「蜂蜜が祖母のこだわりでしたからね。でも作り方はいたって普通です」


 誠一はずらりと材料を並べた。それはさして特殊な物ではない。

 卵に砂糖、薄力粉、強力粉、牛乳、蜂蜜だ。


「先にオーブンを温めておきましょう。祖母は炭火を使ってましたが時間がかかるし味が一定にならないのでオーブンにしました」


 さらりと誠一はオーブンと言ったが、よくよく考えればオーブンも珍しい機器だ。


(権力は必要なくてもお金は必要だ。華族じゃなくても資産家ではあるんだろうな)


 垣間見える黒田家の事情に気を散らしてしまう。

 けれど誠一はいつになく楽しそうで、その笑顔を見れば余計な想像はどこかへ飛んで行く。薫子は言われた通りにオーブンを温めた。


「では生地を作りましょう。卵と砂糖をもたっとするまで混ぜます」


 誠一が混ぜる道具として取り出したのは茶道で使う茶筅だ。

 オーブンなどという最新機器を使うわりには不釣り合いに感じる。


「マスター。混ぜるのは泡だて器じゃ駄目なんですか? 大きい竹のありますよね」

「祖母のこだわりだったんです。私も何でだろうと思ってましたが、生け花といい、日本の伝統にこだわったんでしょうね。和菓子も作る人でしたから」


 そう言われてしまうと、やはり誠一の祖母は高度な教養を施された人物に思える。

 茶道や華道は一般庶民が学ぶことはない。中には興味を持つ人もいるだろうが、それでも庶民の日常に馴染み深いものではない。学んでいるのは華族や富裕層だ。

 薫子の中で黒田家華族説が濃厚になり、けれど考えないようにすべく頭をぶんぶんと左右に振った。


「これに薄力粉と、牛乳もちょっとずつ入れましょう。全体が滑らかになるまで混ぜます。がちゃがちゃさせず優しくふわっと」

「お抹茶みたいにふわっとですね」

「そうですね。薫子さんは茶道の経験があるのですか?」

「いえ全く。そういうものだよな~っていう情報のみで発言しました。すみません」

「謝ることではありませんよ。普通は学ばない分野ですし。ではこれを型に入れます。とんとんと叩いて気泡を抜いたらオーブンへ」

「焼きあがったら出来上がりですね!」


「はい。ではその間に盛り付けの試作をしましょう。これは今日で賞味期限が切れる売れ残りを使います」


 誠一はショーケースからカステラを取り出した。

 村上の写真で見たほどの大きさは無いが、並べて練習台にする分には問題無い。

 カステラを並べると、誠一は戸棚から花を取り出した。いつもはバタークリームで花を作るが今回は食用花だ。

 赤に黄色に桃色に、色とりどりの花が竹串に巻き付いて咲いている。

 見慣れた桜の花びらと抹茶の葉もあり、小さな春が広がっていた。


「このお花、もう色が付いてますね。いつの間に作ったんです?」

「昨日の夜にちょこちょこっと。不慣れなので数をこなしておこうと思いまして」


 誠一は左手に祖母が遺した生け花の本を、右手には桃色の花を手に取った。形だけ見れば菊のようだったが花弁は桃色だ。


「作るのは春の訪れ。冬の終わりを告げる梅は力強く。迎えた春の陽光を浴びる桃は優雅で可憐に。太陽のように眩い菜の花を見守るのは儚い桜」


 誠一は桃色の菊をカステラにするりと刺した。長いため竹串が見えてしまっているが、その足元に花開いたように形作られた苺が添えられる。その周りには背の低い竹串の桃色の菊を並べていく。


(それぞれ濃さが違う。まるで自然そのものの。春の公園を歩いているようだわ)


 今度は生クリームを薄く塗り、その上に薄く小さく切った苺を乗せていく。

 時にはらりはらりと桜の花びらを舞わせるとカステラの大地が苺と朔良で桃色の絨毯へ姿を変える。花びらを振りまく誠一の指先は春風だ。

 人の手で作られていながら自然の舞台となった風景はまさに夢幻的だ。


「敷き詰めすぎると可食部が全て花になってしまうので、本番はこれを中央に置きます。中央に桜の大木があるような構図ですね」

「とっても綺麗。桃色もそれぞれ違うから桜と桃と梅が一斉に咲き誇ったようだわ」

「有難うございます。では次は菜の花ですね。これは柑橘類の皮を散らしているだけのようなので派手さはありません。彩が優先されています」

「味ごとにケーキは分かれてるんですよね」

「ええ。なので桃色の絨毯の端に菜の花をちらりと添えて、ぴったり二つを並べれば花畑が隣接しているように見えるでしょう」


 誠一はもう一つのカステラに蜂蜜をたっぷり塗ると、黄色や橙色の果物の皮を散らした。大小様々に切ってあるのでこれもまた自然をそのまま持って来たようだった。


「こちらはカステラの表面を多く残します。見目が悪くならないように粗目の砂糖を散らします。そして最後」


 誠一は抹茶の葉を菜の花の端に沿えた。


「春はここまで。この先は季節が夏に移るでしょう」

「素敵! じゃあこれは四季のケーキなんですね! きっと手前には冬の花があったんでしょうね。雪景色なら粉砂糖かしら」

「きっとそうでしょう。四季のカステラケーキを出すのは面白いかもしれません」

「お祖母様は風流な方だったんですね。博識だからこその発想だわ」


 素材はカステラとよくある花だが、やはりどこか上流階級の上品さが感じられた。

 眩しい黄色と橙色は春の陽光のようだった。黒田彩菓茶房に集まる人々は、庶民の日常では得られないようなこの美しい風景に心を奪われたのだろう。


「祖母を知るお客様は僕のお菓子を見るとがっかりする方が多いんです。祖母のお菓子に洋菓子のような煌びやかさはありませんが、今も愛されている」


 誠一はカステラの大地に乗り損ねた桃色の菊を手に取った。

 まだ何も装飾が施されていないカステラに差し込むと、竹串があらわになった足者にバタークリームの花を添える。


「僕の花を気に入ってくれる人は祖母のカステラケーキは好まないかもしれません」


 誠一は少し寂しそうに微笑んで、桃色の菊を引き抜いた。

 たしかに人工の宝石を思わせる誠一のケーキは自然み溢れる食用花を用いたケーキとは真逆だ。二つを一つのカステラの大地に並べるのは美しくない。

 それれでも薫子はどちらのケーキも美しいと感じた。誠一が引き抜いてしまった桃色の菊を手に取ってくるりと躍らせる。


「でも黒田彩菓茶房っていう全体で見れば良いことですよ。どんなお客様の気持ちにも応える選択肢が多いということだもの」

「選択肢、ですか……?」

「私の実家は卸て売るだけでした。でも子供がお団子を欲しいって言うから父は自分で作り始めて、ミスミ洋菓子が出来ても買いに来てくれた。そういうことです」


 薫子はもう一度桃色の菊を誠一のバタークリームの花の隣に差し込んだ。

 自然そのままと作り物の花は似ていない。


「マスターが代替わりしてお菓子も変わった。でも気持ちが変わらなければそれは全て黒田彩菓茶房のお菓子です。だってがっかりしてもまた来てくれたんだから」


 黒田彩菓茶房で見るお菓子はどれも美しい。それは艶やかで輝いているという意味もあるけれど、輝きの無い友情八重桜のクッキーも薫子は美しいと感じている。

 それは作り物の八重桜に込められた気持ちが美しいからだ。

 薫子はもう一本、桃色の菊を手に取ると誠一に持たせた。


「マスターにも似合いますよ。自然そのままの花」


 誠一は目を丸くして、しばらくそのまま動かずにいた。そしてほんの少しだけ俯き軽く唇を噛み、ゆっくりと顔を上げて薫子を見つめる。


「薫子さん。僕は」


 誠一はそっと薫子に手を伸ばした。春風を作り出した指先もやはり美しく、薫子はどきりと鼓動が高く鳴った。

 もう少しで誠一の指が触れる――触れると思われたその時、店の扉が開かれた。


「来たぞ! カステラケーキできたか!」

「っと、寅助さん!」


 飛び込んで来たのは、午後になったら来てくれと頼んでいた寅助だ。

 だが時計を見れば示す時刻はまだ十一時前。再現ケーキに最も重要な人物の早すぎる登場に、誠一はぱっと手を引っ込めて寅助に駆け寄った。


「さすが寅助さん。時間よりも随分早いね」

「おうよ! 婆さんのケーキがまた食えるんだ。待ちきれねえよ!」

「期待に応えられると良いのだけれどね。薫子さん、お出ししてくれますか。僕は珈琲を淹れて持って行きます」

「はい!」


 寅助はソファ席に勢いよく座り、目をきらきらと輝かせる姿は子供のようだ。


(寅助さんがこうして来てくれるのもマスターがお祖母様の志を受け継いでいるからだわ。それが今の黒田彩菓茶房なのよ。私もこんな風に長く続く店を――……)


 ふいに薫子は実家の桐島駄菓子店と、立ち退きを迫ったミスミ洋菓子の男たちを思い出した。


(新銘柄に桐島の名を付けて良いって言ってた。嫌味にしか聞こえないし許せないと思ったけど、お父さんは新時代へ再出発は悪くないって言ってた)


 薫子は勢いだけでここまで来た。

 誠一のお菓子と気持ちに惹かれて黒田彩菓茶房で働き始めたが、それはつまり、頼る相手がミスミ洋菓子店か黒田彩菓茶房かの違いしかない。


(マスターは九条じゃなく黒田を名乗った。私にとってマスターは黒田誠一だ)


 名乗る名前は戸籍とは違っている。それでも誠一が黒田誠一であると誰もが認識している。それは誠一が黒田彩菓茶房のマスターであり続けているからだ。


(こだわるのは名前じゃない。本質なんだ。だから黒田彩菓茶房は愛される。なら桐島駄菓子店の本質は?)


 父は何も言わず送り出してくれた。薫子は父が口に出せない思いを代わりに実行しようと思っていたし、今その最中だと思っていた。


(……私がやるべきことは何だろう。今何をしてるんだろう)


 寅助は誠一が作った二つのカステラケーキを楽しみにしている。店に並べばもっと多くの人が喜ぶだろう。

 桐島駄菓子店の団子を好いてくれたあの子供は今も通ってくれているだろうか。

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