古の彩菓、紡がれる記憶(六)

「祖母と暮らし始めて、九条家に囚われずに生きていたつもりでした。だから椿緑櫻庭園にも行けました。もう過去のことだと吹っ切ったつもりだったんです」


 誠一は店内をじっくりと見まわした。

 隅々まで歩くと扉の前に立ち、ゆっくりと扉に手を添える。


「この店が一番大事だったのに」


 誠一は項垂れるようにして額を扉に付けた。右手は扉の取っ手を強く握っている。

 少しの間そうしていると、誠一は薫子を振り返りいつものように微笑んでくれた。


「有難うございます。薫子さんが来てくれて僕はとても幸せです」

「そんな。大したことはしてないですよ。華族の難しい事情が分からないだけで」

「分からなくても華族絡みというだけで引いてしまう人も多いんです。少なくともこの店を一緒に守ろうとしてくれる人はいなかった」


 誠一はぎゅっと強く薫子の手を握りしめた。


「黒田彩菓茶房を好きになってくれて有難う」


 誠一の手は暖かい。その手の優しさは採用してくれた時と同じようだった。

 薫子は気恥ずかしくなり目を泳がせ、誠一はふっと意味ありげな笑みを浮かべる。


「寝る時は部屋に鍵をかけてくださいね、一応」

「はい……」


 それからしまってあった布団を引っ張り出した。しかし洗って干さないと使うことは憚られ、旧自宅から持って来た枕と布団を使うことにした。

 今日のところは店の空いている隙間で寝ることになり、薫子は部屋に鍵をかけたことを確認して布団に入った。


(下にマスターがいると思うとそれだけで緊張するな……)


 黒田彩菓茶房に住み込みの従業員は薫子だけだ。

 薫子の家ではないが、誰もいなかった家に人がいるのは空気が違う気がした。

 薫子は改めて部屋を見回して店内の様子を思い返してみる。


(よく考えると凄い建物よね。二階建てで個室が三つで、うち一つは客間。一階は大きな広間。マスターはお店にしてるけど、入れ替えれば何でもできそう)


 働いて分かったのは、黒田彩菓茶房は店というよりも誠一の生活の一部であるということだった。

 赤字の補填は誠一の私財で行われるようだった。材料が足りないとなれば誠一がぽいっと持ってくる。それを「自宅に余っていた物」などと言って終わらせる。

 誠一が好きで作ったお菓子を分けているだけのようなことで、自宅に人を招いているだけのような状態だが、誠一の気持ちと法の判断は全くの別物だ。


(経営に私財を投じるって商法の取り決めあるわよね。無制限に好き勝手はできないはず。華族なら許されるのかもしれないけど……)


 だが地位と財産を持っているのは九条家本体であり、九条家を離れているうえ庶子の誠一が好きにできるとは思えない。できるとしたら黒田家の財産だろう。


(黒田家は元々資産家だったんだ。一階はお店ができるだけの設備が整ってるけど、お祖母様の時代から存在したなら結構な資産よね)


 今でこそ西洋文化が入ってきているが、誠一の祖母の時代ならば西洋文化など一般人は知る由もないだろう。知っていたとしたら政治の先頭に立つ人々か、経済を支える資産を持った上流階級しかない。


(経営難だった九条家がこの建物を乗っ取らないのは所有者が九条家じゃないから? 華族でも手を出せない程度には黒田家も発言権があったからかもしれな――……え? それはもう華族なのでは?)


 黒田彩菓茶房が急に遠い存在のように感じ、ふいに薫子は誠一の言葉を思い出す。

『分からなくても華族絡みというだけで引いてしまう人も多いんです。少なくともこの店を一緒に守ろうとしてくれる人はいなかった』

 あの言葉は九条家が絡んでくるという意味ではなく、誠一自身が家族という意味とも取ることができる。

 華族九条家ではなく庶民の中で生活をしていたい誠一が、庶民の誰かと一緒にいようとしたことがあるということではないのだろうか。


(……必要の無い求人はマスターと一緒にいてくれる人を探したかったのかな)


 従業員が必要無いというのは、誰も傍にいなくても良いという意味ではない。

 客の幸せを願い自ら駆け回る誠一が、孤独を好むとはとても思えなかった。


(どうしてお母様がご存命のうちに九条家を出なかったんだろう。というか、九条家は何でマスターを育てたのかな。壱流さんがいたんだから育てる必要ないじゃない。それに跡取りを断られたから諦めるってのも随分軽い話だわ)


 よくよく考えてみれば九条家が誠一に興味があるようには思えなかった。

 それは同じ『華族に関わった庶民』である菜穂子の話とあまりにも違うからだ。


(菜穂子さんは美墨家に追われたみたいな口ぶりだった。子供が連れていかれたのは跡取りにってことよね。やってることは最悪だけど華族の行動はそうなるわ。あっさりマスターを諦める方が違和感よ)


 華族と接触したことなど無かった薫子には、華族に対する正しい認識は無い。

 それでも九条家の行動はミスミ洋菓子が桐島駄菓子店を立ち退かせる強行よりもずっと甘いように思えた。


(マスターを九条家の屋敷に押し込めないのもそれを強いることはできない華族としての地位をマスターが持ってるから? 黒田家が華族ならマスターは跡取りだもの)


 想像ばかりが膨らんで、薫子は横になったまま腕組みをした。

 華族は庶民では分からない事情が多すぎて、東京に来たばかりの薫子ではあまりにも分からない。


「……いいや! マスターはマスターだもん。カステラケーキの再現頑張ろう!」


 気になることは幾つもある。それでも一番大切なのは、誠一が黒田彩菓茶房で幸せな生活を続けることだ。

 薫子は気合をいれて布団にもぐり、カステラケーキに思いを馳せて眠りについた。

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