守る刻、辿る足音(八)
壱流を先頭に、薫子は誠一と並んで菜穂子の元へ向かった。
菜穂子は長い黒髪を顔の横で一つに括っている。髪には全く艶が無くばさばさで、着物も着倒したのかよれよれだ。
元から薄黄色なのだろうが、あまりにも草臥れていて黄ばんだだけにも見える。
食事が満足に取れていないのか、身体は痩せ細り疲れきった顔をしている。
見るからに貧しい生活を強いられているであろう菜穂子は背を丸めてゆるゆると掃き掃除をしていた。
しかし壱流に気付くと慌てて背筋を伸ばし、着物を叩いて深々と頭を下げる。
「お珍しいですね。壱流先生が日中においでになられるなんて。急な御用ですか」
「どうしてもやらなきゃいけないことがあってね。誠一、懐中時計を」
壱流はぴくりとも動かず目線だけを誠一に移して指示をした。その振る舞いだけで腹立たしく、薫子は誠一が握っていた懐中時計を手に取り壱流へ渡した。
壱流は目を細めてうっすらと微笑んだが、ぷいと誠一から顔を背けて懐中時計を菜穂子に差し出す。
「どうして手放したのかな。僕は売って生活費にしろと言ったはずだよ」
え、と薫子は胸の中で驚きの声を漏らした。
(何その言い方。まるで壱流さんがあげたみたいに聞こえるんだけど)
薫子は不思議に思い首を傾げたが、壱流は何も不思議ではないように微笑み懐中時計をころりと掌で転がした。
「これは僕が栄一さんにあげたんだよ。何の力も無い僕ができた唯一の支援さ」
懐中時計はどこからどう見ても高級品で、実際高額な品だった。
栄一がいなくなり、厳しい生活を強いられている菜穂子には有難い品のはずだ。
けれど菜穂子はぶるぶると震え、持っていた箒を地面に叩きつけた。
「いい加減にして! いつまで私を美墨家に縛るんですか! もうたくさん!」
菜穂子は目に涙を浮かべ、悔しそうに拳を震わせている。言葉だけでなく全身で嫌悪感を訴えていた。
懐中時計を有難がるどころか、栄一との繋がりを拒絶しているようにすら見える。
薫子は菜穂子の怒りに言葉を失ったが、誠一は一歩菜穂子に歩み寄った。
「あなたは栄一さんを好きで一緒にいることを選んだのではないのですか」
「美墨家の方だなんて知らなかったのよ! 仕事が安定してるから生活は困らないって言ってたのに全部嘘! 婚約破棄で家を追われて一文無しよ! 騙されたの!」
「それでも一緒にいたのでしょう。それは愛情があったからではないんですか」
「子供がいたんだから仕方ないじゃない! 後には引けなかったのよ!」
「じゃあお子さんもここにいらっしゃるんですか?」
「美墨家が連れて行ったわ。手切れ金をぽんとくれてね。金で子供を買ったのよ!」
菜穂子は苛ついて着物を握りしめ、がつがつと草履で砂利を削っている。
子供を奪われたことへの口惜しさなのか栄一への怒りなのか、菜穂子の激情は収まらず燃え盛る一方だ。
「家を別にしても美墨家が押しかけて来る恐怖が分かる⁉ 美墨家が途絶えるのがどうして私のせいなのよ! あんたらの息子が馬鹿だからの間違いでしょう!」
「だから生活費にしろと言ったんだよ。どうしたって金は必要だろう」
壱流には親切心から出た言葉なのだろう。だが壱流も華族だ。
九条家を離れたといっても、こんな高級品を与える行為はまさしく下賜だ。
(華族に人生を壊された菜穂子さんには嫌味だわ。どういう頭してるのよこの人)
こういう性格なのだと壱流は言っていたが、天然にしろわざとにしろ悪質だ。
「今度結婚することになったんです。庶民の男性ですけど、過去を全て受け入れてくれてくれたわ。生活も安定してるから藤夲さんにご迷惑かけることもなくなる」
菜穂子は懐中時計を持っている誠一を睨んだ。
薫子としては誠一は無関係な人間で、怒りを向けられる覚えなど無い。けれど、何よりも人の気持ちを大切にする誠一はそんなくだらない主張はしないだろう。
誠一は菜穂子の怒りを一心に受け止め、菜穂子は誠一に怒りをぶつけた。
「華族から一方的に与えられるお金なんて欲しくないわ! 美墨家の苦労ばっかりを美談にしないで。いい迷惑よ!」
「分かりました。ではこの懐中時計は僕が処分しても良いでしょうか」
「お好きになさってください。ああ、売って生活費になさったらいかがです? 華族の善行に貢献できますよ!」
ふんっと菜穂子は鼻で笑った。地面に転がる箒を拾いこちらに背を向ける。
「栄一さんを引き取ってくれた壱流先生には感謝してます。でも華族であることを掲げるのなら二度と私に関わらないでください」
菜穂子は怒りを振りまきながら走って去って行った。
薫子も誠一も唖然として立ち尽くし、取り残された高級な懐中時計は滑稽だ。
壱流は懐中時計を誠一の手から取り上げるとがくりと肩を落とした。
「こんなものだよ、駆け落ちなんて。余程の気概がなけりゃすべきじゃないんだ」
妙に実感のこもったその言葉に、壱流が栄一を助けた理由が分かった。
誠一にも伝わったのだろうが、しかし壱流へ同情するわけでもないようだった。
「あなたが九条家を出たのも駆け落ちですか。庶民の女性と」
「そんな綺麗なものじゃない。僕は彼女に縋って逃げたんだ。逃がしてくれたのも彼女で、こうして外出できるのも彼女のおかげ」
壱流は懐中時計をポケットにしまった。これで田村の一件は終わりだが、壱流はまだ誠一を見つめている。
「誠一が自分をどう思おうが九条家はお前を跡取りとして連れ戻そうとするよ」
「あなたが逃げたからでしょう。でも庶子で妥協するなら綾子さんに婿を取らせるでしょう。女子でも九条家の直系です」
「どうだろうね。それでも誠一には幸せになって欲しいんだ。黒田のおばあ様には僕もお世話になったからね。だから確かめに来たんだ」
壱流は誠一から目をそらし、何故か薫子を見た。
ばちっと目が合い、薫子は思わず後退りをした。壱流はほんの少し寂しそうに微笑むと、それ以上は何も言わずに背を向け歩いて行った。
「結局何しに来たですかあの人。目的が全く分からなかったんですけど」
「あの人は九条家の長男で跡取りなんですよ。でも何も言わずに急にいなくなり九条家は跡取り不在になりました。それで庶子の僕にお鉢が回ってきてしまったんです」
「庶子っていうことは直系ではないんですよね」
「はい。僕は九条家で育ちましたが、母は九条家には入れて貰えなかったそうで顔を知りませんでした。その母が死んで、初めて祖母がいることを知りました。僕は九条家を出たかったので祖母の所へ逃げたんです」
誠一はしゃがんで栄一の墓石とされただたの石の前に膝を突いた。
「どうして今更」
絞り出すような声にどれだけの想いが含まれているか、薫子にはまだ分からない。
分かるのは黒田彩菓茶房にいるのは黒田誠一というマスターで、多くの客が必要としているということだ。
薫子は誠一の手をぎゅっと強く握った。
「九条家が乗り込んできたら追い返しましょう! 私も手伝いますから!」
何ができるかは分からない。それでも誠一があの店にいられるように、何かしたいとは思う。
誠一は少しだけ困ったような顔をしたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻る。
「そうですね。僕は黒田彩菓茶房でお客様とお話をしていたいんです」
「何言ってるんですか。マスターは作って提供する側ですよ」
「あ、そうでした。忘れていました」
ふふ、と誠一は穏やかな声で笑った。
困っている客を連れ込み、どれだけでも話を聞いてあげるマスターの声だ。
「さ! 帰りましょう。今からなら午後だけでも開店できますよ!」
「今回は何の物語にもならなかったので貸し切りパーティも無しですね」
「じゃあ寅助さんに何か作りましょうか。物語が無いなんて残念がりますから」
「いいですね。ワッフルはもう飽きてしまったかな」
薫子は再び誠一と並んで歩き始めた。向かう先はもちろん黒田彩菓茶房だ。
店にはきっと寅助が来ているだろう。他の客も開店を待っているかもしれない。
(そうよ。黒田彩菓茶房は変わらない。華族でも庶民でもマスターはマスターよ)
何ができるかは分からないが、誠一が無理に笑顔を作っているのは気にかかった。
壱流の姿はもう見えない。今はとにかく黒田彩菓茶房へ帰りたかった。
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