守る刻、辿る足音(六)

 壱流が荒らすだけ荒らして帰った翌日。薫子はいつも通り開店準備を始めた。

 誠一が来る前に軽く掃除をしてテーブルクロスを拭き、一日分の材料が揃っているかを確認する。足りない物があれば誠一が来たと入れ替わりで買い出しにいく。

 これが薫子の一日の始まりなのだが、今日は全く違う朝だった。

 薫子は接客用の着物に着替え、欠伸をしながら二階にある自室から一階のお店へと向かう。すると、誠一が来るまでにはまだ早いが、ほんのりと珈琲の香りがした。

 誠一が先に来てしまったのかと、薫子は慌てて店へ入る。


「マスター? 今日は随分早いんですね――……え?」

「やあ、おはよう。君は随分早いんだね。僕は夜型だから眠くてたまらないよ」


 カウンターの中で珈琲を淹れているのは


「はあ⁉ 何でここにいるんですか! というかどこから侵入したんですか!」

「正々堂々正面からだよ。僕もここに住んでたからね」


 壱流は指を立てた。指には輪っかの付いた鍵が掛けられている。


「誠一はここで育って無いから誰が鍵を持ってるか知らないんだ。鍵は変えた方が良いと思うよ、従業員さん」

「……ご忠告どうも。今日すぐにでも変えさせて頂きます」


 薫子は一歩下がって壱流を睨みつけた。

 まさか襲ってくるとは思わないが、誠一と話すために薫子を人質扱いをした男だ。

 それでなくとも、誰にでも優しい誠一が嫌悪する男と仲良くできるわけがない。

 薫子は全身全霊で警戒したが、壱流は楽しそうに微笑んで近づいて来る。


「敵意を向けられるのは嫌いじゃ無いから意味ないよ。実はね、誠一じゃなくて君に会いに来たんだよ。誠一が誰と人生を共にするかはとても重要だからね」

「誰にとってですか。あなた? 九条家? 大事なのはマスターの人生であって他なんて知ったこっちゃ無いですよ」

「そうだね。本当はそうあるべきなんだ。でも九条家はそれを許してくれない」


 壱流は薫子の分も珈琲を淹れ、ソファ席に置いた。珈琲を持ってなお流れるように歩き、カップを置く所作は優雅だった。

 所作の美しさは教養ある華族であることを感じさせ、座るように目線で促される。

 だが座る気にも珈琲を飲む気にもなれない。薫子はひたすら壱流を睨み続けたが、睨まれた壱流は気にせず珈琲を一口飲む。

 飲むだけの所作までもが滑らかで、見ていて心地良いのが腹立たしい。


「君は華族じゃないの? 華族じゃなくても近しい家系だったり資産家だったり」

「残念ながら秩父で倒産寸前の駄菓子屋をやってる庶民の一人娘ですね」

「ならどういう経緯でここにいるんだい? 理由があるはずだ」

「実家の駄菓子屋がミスミ洋菓子店に吸収されそうなんですよ。立て直す手段を模索してるんです。マスターには色々勉強させてもらってます」


 壱流は何故か目を丸くした。庶民の没落がそんなに珍しいのか華族様は――そんな悪意を妄想するくらい壱流は受け入れがたい。

 しかし壱流はカップを置き、腕組みをして背もたれに身を預けて考え込んだ。


「何ですか。まさか駄菓子屋を知らないわけじゃないでしょうね」

「知ってるよ。そうじゃなくて、一人娘なら婿を取るのかい? 嫁に行って閉店?」

「理想は婿取って店を立て直しです。けどまずは店です。一年が期限なんで」

「なんだ! それはちょうど良い! 誠一を婿にすればいいじゃないか!」

「……あなたどういう思考回路をしてるんですか? どこから出た発想なんです」

「正当じゃないか。誠一なら客を掴めてお菓子も作れる。年齢も悪くないだろう?」


 壱流は自信満々な顔をして拳を振り上げた。うんうんと大きく頷き嬉しそうだ。

 だが突拍子も無い言い分に、薫子は壱流へ聞こえるようにため息を吐いてやる。


「勝手なこと言わないでくれます? そういうのはマスターが自分で考えることで、周りがどうこう言うことじゃないでしょう」

「僕がどうこう言ってるのは君にだよ。誠一には幸せになって欲しいんだ」


 壱流は両手を広げて、ははっと軽く笑った。後ろに花でも咲いたような陽気な笑顔だが、陽気さで何かを隠してるように感じるのは目が笑っていないからだろう。


「騙すなら心からの笑顔を作らないと駄目ですよ。接客教えてあげましょうか?」

「おや。君は鋭い子だね。そうそう。九条家で生まれ育つとこうなるんだよ。そこにきて純粋無垢な誠一は奇跡のような子だった」

「ちょいちょい九条家のこと話すの止めてくれませんか。私はマスターが言わない限り聞きません。どういうつもりか知らないけど、私はあなたを歓迎できないわ」

「じゃあ、懐中時計の話でもしようか。あれはちょっとした曰く付きなんだよ」


 壱流はカップを置くと急に真面目な顔をした。ソファをとんとんと指で突き、隣に座るよう促してくる。

 話をするのは嫌だったが、懐中時計は田村の身の振りに影響がある。

 無視するわけにもいかなくなり、薫子はせめて隣は避けようと壱流の向かい側に座ろうとした。

 しかし、薫子が腰を下ろす前に店の扉がばんっと音を立てて勢いよく開く。

 薫子も壱流も扉の方を見ると、入って来たのは憎々し気に目を吊り上げた誠一だ。


「何をしてるんです! 薫子さんにまで手を出すなら許しませんよ!」

「どうして何かすると思ってるんだい。鍵は付け替えなさいと忠告をしただけだ」


 壱流が指に引っかけている鍵を見て、誠一は走って壱流から鍵を奪う。

 昨日と同じように、薫子を守ろうとしているのか誠一は背にかばってくれる。


「そう睨まないでくれよ。その時計を持ち主に返してあげたいんだ。本当だよ」


 壱流は呆れ顔でカップに口を付ける。薫子は壱流に呆れられる覚えは無いし、誠一だって無いだろう。

 勝手な振る舞いは苛立つが、それでも懐中時計の話は聞かなければいけない。

 薫子はとんっと誠一の肩をそっと撫でた。


「マスター。とりあえず話聞きましょう。こいつはともかく田村さんのために」


 田村と聞いて我に返ったのか、誠一はふうっと深く深呼吸をした。振り向いた顔は微笑んでいるが、どこか苦しそうで痛々しい。


「……そうですね。ええ。そうしましょう」

「薫子さんはうまく誠一の手綱を握れてるね。素晴らしい。久しぶりに僕が珈琲を淹れよう。誠一は一度も飲んでくれなかったけどね」

「自分で淹れるので結構です。薫子さんも珈琲で良いですか?」

「はい。じゃあ今日で賞味期限切れの友情八重桜クッキーも食べましょう」


 薫子と誠一はぐるんと壱流に背を向け、カウンターの中に入った。

 お土産用の商品は開店まで棚にしまってあって、賞味期限間近の物を売るのを嫌う誠一は当日になると自分と気心の知れた人と食べることにしている。

 特にクッキーはまだ客も馴染みの無いお菓子で、常連客には好評だが残りがちだ。

 誠一が淹れた珈琲と友情八重桜クッキーを持って壱流の向かい側に座る。壱流は興味津々といった顔で友情八重桜クッキーを覗き込んだ。


「花弁が繊細で良いね。苺味かい? どういう物語なんだい? 一つおくれよ」

「少女二人が喧嘩して亀裂が入った友情を結び直す物語です」


 誠一は友情八重桜クッキーをばりんと割った。花弁の形にくぼみで線があるので、くぼみに沿って割れた。まるで八重桜が散ってしまったようだ。


「どうぞ」


 舞い落ちた花弁の小さな一欠けらを拾い、誠一は花弁を壱流のソーサーに置いた。

 さすがに壱流も苦笑いだったが、薫子はざまあみろと言ってやりたい気持ちを抑えて鼻で笑った。

 それでも壱流はぽいと花弁を頬張って、飲み込むと珈琲を一口飲んだ。

 感想を言おうとしたのか口を開きかけたが、誠一は目を吊り上げて睨んでいる。

 誠一の目が『余計な会話はするな』と言っているのは薫子にも分かり、壱流は諦めたのかソファの背にもたれて本題に入った。

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