守る刻、辿る足音(四)

 誠一は明らかに怒りを堪えていた。

 硬く握りしめている拳は震えていて、今ここに薫子も誰もいなければ飛び掛かっているのではないかと思うくらい空気は刺々しい。


(怒ってる。こんなマスター初めてだ)


 見たことの無い誠一の様子に薫子は口を出すことができなくなった。

 しかし怒りに満ちた空気を気にもせず、壱流は微笑みながら軽快な足取りで店に入って来る。


「よかったよ、まだここにいてくれて。徳田さんから聞いて驚いたんだ」


 徳田というのは椿緑櫻庭園で出会った夫婦だ。椿緑櫻庭園は華族椿家が所有する庭園で、その建築に九条家が携わっていた。

 壱流は肩をすくめて、まるで馬鹿にしたような軽薄な笑みを浮かべる。


「椿家の敷地に入るなんてらしくないね。身を隠すなら偽名を使わないと」

「隠れてませんよ。九条家は僕がここにいると知っている。話し合いをして九条家を出たんです。何も言わずに失踪したあなたとは違います」


 九条家との関りを否定せず、誠一はひたすら壱流を睨んだ。

 誠一が九条家の人間なら当然華族ということになる。突拍子も無い話だが、これは薫子の中ですとんと腑に落ちた。


(本当に九条家の人なんだ、マスター。だから赤字経営を気にしなくて良いんだわ。蓄音機なんて高級品があるのも頷ける)


 誠一は妙な男だった。赤字覚悟の接客をしながら無駄に従業員を雇うのはどう考えても普通ではない。それができるのは、それだけの資産があるからだ。

 だがそんなことを口に出す空気ではない。誠一と壱流の距離は一歩も縮まらず場は硬直したが、一人の男が明るい声で飛び込んで来た。


「店やってんな! ケーキくれ~……っと、お⁉ 壱流! 壱流じゃねえか! お前生きてたんかい! 何だい何だい! 何してたんだい!」

「久しぶりだね。相変わらずいかつい見た目で可愛いお菓子を食べてるのかい?」

「おうよ。婆さんの菓子作りはこいつが受け継いでらあ。いや、それ以上だな。最近は薫子嬢ちゃんも頑張ってるからよ!」


 寅助はいつもの調子で笑い声をあげた。昔から黒田彩菓茶房を知っている寅助なら黒田家の関係者と交流があってもおかしくないが、誠一と違って好意的だ。

 一体どういう人間関係が存在したのか全く分からず、薫子は呆然とするしかない。

 しかし、ふいに壱流が薫子を見つめてきた。整った顔立ちはそれだけで緊張する。

 壱流はかつんと踵を鳴らして薫子に一歩近づいた。


「誠一がこの店に他人を入れるなんて驚いたよ。それも若い女性なんて、一体どういう心境の変化かな。この子はどういう関係の子なんだい?」

「あなたには関係の無い話です。用が無いなら帰ってください。邪魔です」


 誠一は薫子を守るように立ちはだかり壱流を睨みつけた。

 らしくない誠一の行動にも緊張してしまうが、壱流は蚊ほども痛くないようで愉快だと言わんばかりに笑っている。


「用ならあるとも。弟が誰と一緒にいるのか心配なんだよ、とてもね」

「今更何を。都合よく兄と名乗りたいのなら九条の家へ戻ってからにしてください」

「それはできないな。九条家も許さないだろうし嬉しくも無いだろうからね」


 しんと店内は静まり返った。この状況をどうしたら良いか分からない。

 しかしその時、かしゃんと音がした。田村が懐中時計を落としたようで、慌てて拾い上げている。

 それだけのことだったが、どうしてか壱流は目を丸くして田村に駆け寄った。

 田村の手を遮り床に落ちた懐中時計を手に取るとまじまじと見つめる。


「この懐中時計はどこで手に入れたんだい? 一般に出回る品じゃないよこれは」

「修理を頼まれたんです。事情が複雑で、マスターが調べると言ってくれて……」

「誠一が? 誠一はこれが何だか分かって請けたのかい? それとも知らずに?」

「知りませんよ。ただの時計でしょう。状況が妙だから調べることにしたんです」

「好奇心だけで調べるのはお勧めしないよ。これは九条家の所有物だ」

「えっ」


 薫子は思わず声を上げた。誠一は驚き目を剥いているが、寅助は興味が無いのか、ちっとも驚かずショーケースでケーキを選んでいる。

 壱流は懐中時計の蓋を人差し指で撫でた。蓋には何かの花が掘ってある。

 花に詳しくない薫子は彫ってある花の名前も種類も検討が付かないが、誠一は深く眉間にしわを寄せた。


「思い出したかい? これは九条家の家紋である蘭を題材にしている。九条家が他へ下賜する物に彫ってる文様だね」

「そんな大層な物だったんですかこれは。なら相応しい方に返して頂けませんか」

「僕は無理だよ。あの家に入れないからね。それに返す先は九条家ではなく下賜された人の方だ」


 壱流は妖しい笑みを浮かべて懐中時計を誠一の手に乗せ握りしめた。


「この時計の持ち主なら知ってるいよ。教えてあげてもいい。ただし交換条件だ」


 誠一の手を放し、壱流は店内に入り込むとソファ席を陣取った。

 机に肘を付き、とんとんと机の反対側の端を突く。


「少し話をしよう。久しぶりに兄弟らしい話をしたいんだ。今のうちにね」


 壱流は微笑んでいるが、誠一は一歩も動こうとはしない。薫子もこれは背を押すことができず、全員がその場から動かない。

 けれど壱流には何も響かないようで、頭の後ろで手を組み伸びをしている。


「嫌なら構わないよ。ただ今日はもう遅いから僕はこの店に泊まることにする。薫子さんは住み込みだったね。一晩同居ということになってしまうけど良いかな」


 薫子はぎょっとして一歩下がり、誠一は再び間に立ちはだかった。


(私を人質にするってこと⁉ 性格悪~! 本当にマスターのお兄さん⁉ というか何で私の名前なんて知ってるのよ。まさか調べてたの? 気持ち悪っ!)


 容姿の雰囲気もだが、性格がここまで真反対だととても兄弟とは思えない。

 誠一はぎろりと壱流を睨みつつも返す言葉は出てこないようだった。薫子はくんっと誠一の服を摘まんで引っ張る。


「実家に帰るんで構わないですよ。それに時計は警察へ持って行けば良いです。ただし情報源は壱流さんだと明かすので居場所が九条家に知られると思いますけど!」


 状況はよく分からない。けれど誠一が敵視するなら薫子にとっても敵だ。

 薫子は壱流を睨みつけた。だが壱流はきょとんと首を傾げ、少しするとくっくっといやらしい笑いを零した。  

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