守る刻、辿る足音(二)

 二人がホールに足を踏み入れると、老若男女問わず大勢の人が小さな机を囲むように座っていた。全員がスケッチブックとボールペイントペンを持っている。


「うわー! こんなに大勢なんですか、小泉さんの絵画教室!」


 あまりの規模にさすがの誠一も驚いて足を止めたが、生徒の中から一人の男性が跳ねるようにこちらへ向かって来た。


「やあやあ! マスターに薫子さん! ご無沙汰してます!」

「矢野さんもいらしてたんですね。今日も絵の勉強ですか。それとも個展を見に?」

「両方ですよ。油絵には詳しくないんでしっかり学ばないと良さも理解できない」


 以前、ふらりと黒田彩菓茶房に立ち寄った矢野に小泉青年が絵画教室を始めたことを教えると大喜びで、何とその翌日から参加しているらしい。

 矢野は知り合いの藤夲紗栄子フアンにも教えたらしく、これで大人も生徒に増えたという。


「矢野君は勤勉だよ。おかげでみんな油絵にも興味を持った。小泉君は油絵の教室もやろうかと言っているんだよ」

「一瀬様! こりゃあいつの間にいらしてたんですか!」

「君が小泉君へ夢中になっている間にだよ。生徒で一番盛り上がってるのは君だね」


 高らかに笑いながらやって来たのは一瀬だ。高級そうなスーツ姿は絵を描くつもりには到底見えない。


(道具を提供するって言ってたけど、本当になさったのかしら。生徒全員がボールペイントペンを用意するなんてそうそうできないものね)


 ボールペイントペンは一般に多く出回っているわけではない。

 きっと若手の育成ということで一瀬とその仲間が振る舞ってくれたのだろう。


「しかし矢野君は艶子君というより小泉君のフアンなんじゃないかい?」

「えへぇ。油絵だけで言えばそうかもしれんです。久宝艶子は色が淡いでしょう。僕は小泉君の激しい色使いと力強いタッチが好きなんですよ」

「そうだね。劇団風雅の連中も舞台で使う背景を描いてもらおうかなんて言ってるんだよ。矢野君の言う通り、色が派手だから舞台向きなんだ。実際腕も良いし」

「それは凄いですね。看板は艶子さんが描いたんでしたよね。二人の絵で舞台が完成するな艶子さんも喜ぶでしょう」

「違いない。藤夲さんも小泉君ならばとこのホールを貸してくれたんだよ。生徒も増えたし、年齢ごと分けて週三回に増やすそうだ」


 薫子と誠一は展開の速さにぽかんと口を開けた。呆然としていると、二人に気付いた小泉青年が小走りで駆け寄って来た。


「マスター! 薫子さん! 来てくださったんですか!」

「すみません、邪魔してしまいましたね」

「とんでもない。みんなマスターのケーキに夢中ですよ。子供は早く描き終えて食べたいってそればっかりです」


 小泉青年は生徒たちの中央に置いてある机を見た。そこには誠一が作った宝石が積み上げられているようなフルーツケーキが置いてある。

 せっかっく艶子の個展で描くなら艶子が愛した品を描きたいと考えたらしく、小泉青年に頼まれてケーキを提供している。


「しかし無料でいただくのは申し訳ないです。やはりお代は払わせてください」

「いいんですよ。余る材料を使ってるだけなんで本当に気にしないでください。これも余りで作ったんで皆さんのお土産に差し上げてください」


 誠一は持っていた袋を小泉青年に手渡すと、中には薫子が小分けに梱包した一口で食べられるワッフルが入っている。

 ワッフルの包みを一つ取り出すと小泉青年は目を輝かせた。


「いいんですか⁉ 凄い贅沢だ。ああ、ほらみんな気にして。後で大変だ」


 会話を聞きつけたのか、子供たちがそわそわとこちらを見ている。中央の机を挟んで向こう側にいる子供は立ち上がってしまいすっかり絵を描くのを忘れている。

 今にも駆け出しそうだが、違う道筋からやって来たのか、受付にいた女性が落ち着くように窘めた。


「受付の方も生徒さんですか? それとも絵描きのお友達?」

「いいえ。従業員の方ですよ。来客が増えて藤夲さん一人じゃ掃除も案内もって手が回らないから雇ったそうです。一瀬さんのご紹介の方です」

「確かに子供は散らかしたり汚したりしますもんね。清掃員は必要だわ」


 絵を描いている子供たちを見ると、画材を使うからか手や顔が汚れている。鉛筆で描いては消して描いては消して――となれば消しかすが散らばるだろう。

 じっと見つめると目が合い、薫子は会釈をした。


「一番の仕事は接待ですよ。艶子さんの絵を買う方が増えてて来客が多いんです」

「え、凄くないですか。絵画を買うなんて庶民じゃないですよね」

「風雅の演技指導員に芸術を好む方がいるんだよ。華族に繋がりのある方で、あちこちに広告をしてくださっている」


 小泉青年はホールの壁に掛けられている大きな絵画に目をやった。絵画には『四季折々』という題名が付けられている。

 艶子の代表作が見守る中で、艶子の認めた小泉青年が人々に絵を教える景色は芸術に疎い薫子でも胸が熱くなる。

 ふいに手前の少年が立ち上がりぴょんぴょんと飛び跳ねた。


「小泉せんせー! かけた! 見て!」


 少年に釣られたのか次々に手が上がるが、既にスケッチブックを置いてケーキを食べたそうにじっと見つめてる子供ばかりだ。

 小泉青年は苦笑いをし、ぺこりと誠一に頭を下げた。


「ではこれで失礼します。お店の絵葉書はまた持って行きますね」

「はい。お待ちしてます」


 小泉青年は子供たちに手を引かれ、膝を突き子供と同じ目線で指導を始めた。

 お菓子目当てで描いている子供もいるかもしれないが、それでも多くの人がボールペイントペンを握っている様子は艶子の想いが繋がっているようだった。

 薫子は誠一と共に黒田彩菓茶房へ戻ると、小泉青年の描いた絵葉書を手に取った。

 描いてあるのは一番人気になりつつあるワッフルだ。白い葉書に真っ赤な苺ジャムが目を引き、一番多く購入されている。


「凄かったですね。艶子さんのフアンが押しかけてるだけかと思ってたのに」

「子供には良い学び舎になったんでしょうね。一瀬さんもいらっしゃるなら名のある芸術家に育つ子が排出されるかもしれませんよ」

「あり得ますね。その時はぜひうちにも絵葉書を卸してほしいものです」

「さすが薫子さんはしっかり者ですね」


 誠一は面白そうに笑うと、店の奥にある蓄音機に手をかけた。

 黒田彩菓茶房はクラシックが流れている。流しているのがこの蓄音機だ。

 誠一は戸棚からレコードを一枚取り出し音楽をかける準備を始めている。


「あ、マスター。そういえば川上さんの『未来』はかけるんですか? お茶をしながら楽しめる曲じゃないですけど」

「はい。なので違う曲を今選んでいただいてます。でもレコードにしないといけないんですよね。楽団を招いて演奏会にした方が良いかもしれません」

「いいですね! 余った材料で貸し切りパーティをして、そこで弾いてもらうとか」

「それは楽しそうですね。ケーキと小泉さんの絵葉書も並べて芸術鑑賞会にするのも良いかもしれません」


 しれません――そう言いつつ誠一の目線は窓の外へ向いていた。せっかく準備し始めたレコードを置いて急ぎ足で扉へ向かっていく。

 窓の外を見れば、そこには店内の様子を窺う老人男性の姿があった。


「あ、この展開は……」


 薫子は何が始まるのを待つことはしない。ソファ席のテーブルを手早く拭くと、カウンターへ入って珈琲の準備を始める。

 そうしている間に誠一は老人男性の背を支えながら店内へと戻って来た。誠一と薫子は眼を合わせてお互い頷き、老人男性をソファ席へと案内した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る