託されたペン、広がる未来(六)
艶子の病室にあったという長方形の箱の中には新品のボールペイントペンが入っていた。小泉青年が受け取ったボールペイントペンと同じ商品のようだ。
そしてもう一つ、封筒の中には『小泉君へ』と描かれている手紙が入っていた。
小泉君へ
會いに行く約束を果たせさうにないので手紙にします。
これが君に屆くことはないかもしれないけれど、屆いたら考へて欲しいことがあります。
畫家として食べていくのは難しいでせう。
それは決して君の腕が惡ヒといふことではなく、たゞさういふ世ではないのです。
どんなに腕があつても仕事がなければ生涯の糧とはできぬのです。
併し繪筆から萬年筆に變へ、氣まぐれで描いてみました。するとそれは出版社にとても喜ばれました。だうしてだか分かりますか。
技術があるからでせうか。無いも同然の畫家としての名聲でせうか。
いいえ。時間をかけずに描いたからです。忙しい出版業界ではこだわりを捨て指示通りに短時間で描くことが美徳とされたのです。
苛立ちました。こんなに馬鹿にした話があるのかと。
ですがそれ以外に收入が無く、繪以外でできることもない私は唇を噛んででも插繪を描きました。せめてもの抵抗として、畫家久宝艶子ではなく藤夲紗英子として描きました
するとある時、出版社から依頼が來ました。サイン會を開かないかといふのです。
久宝艷子といふ名など誰も見向きはしなかつたけれど、插繪繪師の藤夲紗英子には數えきれないほどのフアンがいたのです。
これを成功といふのでせうか。失敗といふのでせうか。
どちらと云ひ切ることは私にはできないけれど、もし君が成功だと思つたのなら、壹度露店の似顏繪は止めてペンを持つてみてくださひ。
君の漫畫のタツチで描く繪は、物語の登場人物を描く插繪にとても向いてゐると思ゐます。
藤夲紗英子
小泉青年の手紙を持つ手が震えていた。艶子の父の心境は薫子には感じ取れなかったが、ほんのりと微笑んで小泉青年の腕をぽんっと軽く叩く。
「今でも出版社へ紗英子宛に手紙が届くそうだ。あの子の油絵は誰にも届かなかったかもしれんが、挿絵は書籍になり今も残っている」
艶子の父は戸棚から一枚の紙を取り出した。そこには鉛筆で身なりの良い女性が描かれている。
「それは! 俺が描いた似顔絵です! 露店で描かせてもらった絵です!」
「病室に飾ってあった。露店は画家を諦めた後でいい、若いうちに定職へ就くのが先だと何度も言っていたらしい。あれでは良い腕が潰れてしまう、と」
「見ず知らずの俺にどうしてそこまで……」
「何度も見かけていたらしい。あの子の日記には君のことが何度も出て来るんだ。鉛筆の運びがどうとか、技術が良いようなことが書いてある。私には分からんけどね」
艶子の父はもう一つ封筒を小泉青年に差し出した。
妙に分厚いそれを開くと、中には帳面を破ったような紙の束が入っている。
「艶子の日記の一部だ。持って行ってくれ」
「そんな! いただけません。大切な遺品じゃないですか!」
「これは紗英子から私に届いたんだよ。遺書になった手紙と一緒に入ってたんだが、小泉君に会えたら渡してほしいと書いてあった」
「あ! 冊子の紹介にあった若手の育成ってもしかして小泉さんのことですか?」
「そうだよ。本当に良い腕だと、いくつもいくつも褒める言葉があった」
「……本当に頂いていいのですか。俺はまだ何も成していないのです」
「私には個展を開くだけの絵を遺してくれた。それは君の成す未来に繋げてくれたら嬉しいよ。あの子もきっとそれを望んでいるだろう」
小泉青年は艶子さんの手紙と日記を受け取った。
それから二人はしばらく話し込み、割って入るのは無粋だろうと誠一と薫子は黒田彩菓茶房へと帰ることにした。
「ねえ、マスター。艶子さんて小泉さんのこと好きだったんじゃないですか? 通りがかりにしては随分と親切すぎる気がするんです」
「それは分かりませんが、彼の人生が良いものになれば僕も嬉しいです」
誠一は安心したように微笑んだ。
それから数日後。黒田彩菓茶房にはちょっとした変化があった。
「あら! 素敵な絵じゃない! ハイカラだわ~!」
「ほー。マスターにしちゃ良い趣味だ、と言いたいとこだがお前さんじゃないよな」
「ええ。小泉さんにお任せで描いてもらったんです。この店に合う絵をって」
「気に入って頂けてよかったです」
黒田彩菓茶房に小泉青年の描いたボールペイントペンの絵を飾ることになった。
小泉青年は艶子が示したとおり、まずは定職に就くことを目指すらしい。
絵に繋がることならばより良いと考えたそうで、出版業界での職を探しつつ書籍の表紙や挿絵絵師の営業もしていくそうだ。
艶子の父も協力をしてくれたらしく、藤夲紗英子が多く絵を提供していた出版社からは既に仕事をもらえたということだ。それも艶子が生前に『小泉君が来たら可能な範囲で取り立ててやってほしい』と言付けをしていたらしい。
情けないとも思ったらしいが、身の程を知り甘えさせてもらうことにしたそうだ。
その話を聞いて、誠一は絵を描いてくれと依頼をした。まずは縁を活かすことを覚えてほしいということだった。
常連客はわいわいと絵を囲み、一番身を乗り出しているのは寅助だ。
「そうかそうか。あんたこんなに立派な絵を描く絵描きさんだったんか」
「まだまだ半人前です。ボールペイントペンは鉛筆とも筆とも勝手が違って難しい」
「最先端を取り入れる柔軟性が立派だよ。新しい物を取り入れるってのは積み重ねたものを手放すようで辛い。時代を牽引するのはあんたみたいな子だろうな」
「……そうですね。そう教えていただきました。だから描けたんです」
寅助は両腕を組んでうんうんと大きく頷き、小泉青年は気恥ずかしそうに笑った。
「なあ! 一枚描いてくれんか! うちでもボールペイントペンてぇのを置こうと思ってるんだが、何しろどんなもんか分からんだろう? けどこんな絵も描けるって分かればきっと売れるぞこりゃ!」
「本当ですか。俺でよければぜひ描かせてください。題材は何が良いしょう」
「そりゃあれだ! マスター! 新作あるんだろ!」
「ええ、もちろん。小泉さんの物語はとても素晴らしいものでしたから」
寅助はわくわくと目を輝かせた。
お客様の謎解きを終えたらその物語をお菓子にするのが黒田彩菓茶房の新作だ。
誠一はキッチンへ入るとケーキが乗った大皿を持って戻ってきた。
それは両手で抱えるほど大きな長方形のケーキだ。縁はぐるりとチョコレート生クリームで作った額縁。
その中には苺を使った桃色のクリームとたっぷりの苺を使って描いた桜の景色。
それを細いチョコレートペンでなぞることでボールペイントペンで描いた線画のようになっている。
そして、上部には艶子さんの物語である果物の皮で作った虹が掛かっている。
右下だけぽっかりと不自然な余白があり、誠一はチョコレートペンを取り出した。
「小泉さんの絵葉書ケーキです。余白にご希望のメッセージをお書きします」
「凄い! ボールペイントペンの絵そのものだ!」
「製作時間がかかるので特注だけですが、簡易版としてクッキーも作りました」
誠一は掌ほどの大きさがある長方形のクッキーを取り出した。表面にはチョコレートペンで描いたボールペイントペンのような線画が描かれている。
小泉青年は相当感動したようで、食い入るようにクッキーへ魅入った。
「凄い! 本当に凄いですよ! マスターこそ芸術家だ!」
「それはそうですね。私もマスターのお菓子は芸術品だと思います」
「大袈裟ですよ。僕は好きに作ってるだけです」
「いやいや、俺もそう思うよ。客はみんなこれが見たくてくるんだ。小泉さんよ。これを描いてくれよ」
「分かりました。じゃあこの美しさに負けないよう頑張らないと」
小泉青年はボールペイントペンをぐっと強く握り、誠一はそれを見ると大きく頷いてショーケースへ向かう。ケーキをひょいひょいと取り出し大皿にいくつも乗せて、まるでパーティでも始めそうな勢いだ。
「マスター? どうしたんですか。そんなに注文入ってませんよ」
「はい。僕が今入れました」
「……ええと、それはつまり……」
マスターはにっこりと微笑むとぱっと両手を広げて声を張り上げた。
「さあ! 今日は小泉君のお祝いなのでケーキを無料で出しちゃいますよ! 他のみなさんもどうぞ!」
「え⁉ 本当に⁉」
「やったー! 私ショートケーキ!」
来店していたお客様はわあっと一斉に集まった。
マスターはどうぞどうぞと振る舞っているが、売れ残りや賞味期限切れによる廃棄が予想される商品だけでなく、人気商品まで出している。
(そうなりますよね~)
これが実家で父のしたことなら怒鳴るところだが、ここは黒田彩菓茶房だ。
物語の主人公が笑顔になったのに赤字なんて野暮なことは言えない。
(小泉さんもマスターもお客様も、みんなケーキに負けないくらい美しい笑顔だわ。これが黒田彩菓茶房の物語ね)
今日も黒田彩菓茶房は美しいお菓子と弾ける笑顔であふれている。これこそ守り続けたいこの店の姿だ。
せめて貸し切り大赤字になった状況を悪化させないよう、薫子は『本日閉店』の札を下げて扉を閉めた。
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