託されたペン、広がる未来(五)
黒田彩菓茶房を出てすぐの大通り。路面電車の通過を待つ時間がもどかしい。
ようやく大通りを渡って十分ほど歩くと建物は少なくなり、多種の花が植えられた大きな花壇が見えてきた。豊かな緑が美しく親子連れが散歩をしている。
これも通り抜けると、ぽつぽつと小さな建物がまばらに建っている。
この辺りは個人商店が立ち並んでいるが、一般向けというよりは老後の生活を楽しんでいる趣味の店といったところだ。
いくつかを通り過ぎると、誠一が二階建ての小さな洋館の前で足を止めた。
「さあ到着しましたよ。ここです」
「ここって……」
洋館は家というにはあまりにも独特なデザインだった。荘厳な彫刻が刻まれている壁自体が芸術品のようで、美しくはある。
だがあまりにも個性的すぎて、薫子は思わず眉をひそめた。
「マスター。ここ何ですか? まさか別荘じゃないですよね」
「違いますよ。個人の画廊で、女性画家の個展が開かれてるんですよ」
「個展⁉ 女性画家っていうのはもしかして!」
小泉青年は驚き建物の入り口に置いてある大きな看板を振り返った。
そこには《
「久宝艶子さんはここらのお生まれで、向日葵が終わった頃からずっとの個展をやっているんです」
「向日葵の後っていうと、小泉さんがボールペイントペンをもらったより後ですね」
「ええ。見てみましょう。きっと小泉さんに必要なものがあります」
「俺に?」
マスターは不思議そうな顔をした小泉青年をよそに、入口に置いてある細長いパンフレットをひょいと取って個展会場へと入っていった。
入ってすぐに姿を見せたのは大きなアーチだった。
外壁を同じように彫刻があるけれど、まるで本物の蔦が絡まっているかのように繊細な植物を再現したアーチだった。
(画家というより建築家の個展みたいだわ)
アーチをくぐるとほんのりと柔らかな照明の中に絵画が展示されていた。その全てが油絵で、描かれているのは人物や植物など様々だった。
それにしても入館者がいない。入場無料でも客の入りは悪いようだ。
「無名画家なんでしょうか。地元の画家なら多少は身に来そうなものなのに」
「僕は聞いたこと無かったです。でも描いた人と会ったことがあるんですよ。見てください」
誠一は順路の先にある一枚の絵を指差した。
そこに描かれていたのはケーキだった。果物が宝石のように輝き繊細な細工がされている。とても色鮮やかで、特に私の目がいったのは生クリームに掛かる虹だった。
林檎や蜜柑、多数の果物の皮で作るマスターの得意技だ。
「このケーキ……」
「僕の作ったケーキです。この虹は艶子さんの物語から生まれた物なんです」
「じゃあうちのお客様だったんですね。そうだったんだ」
「ええ。さあ、次へ行きましょう」
誠一は順路を進んだ。先にはまだケーキやたくさんのお菓子の絵が並んでいる。
進みながら何枚か見て行ったが、ついにお菓子の絵は終わりになってしまった。
そこで薫子は一つのことに気が付いた。全ての絵の下にプレートが並べて付いている。でもタイトルのようなものは書いていなくて、あるのは日付だけだ。
「何かの演出なんですかね。描いた時系列で並んでりますよ」
「そのようですね。あれも僕のケーキです」
次の絵にもケーキが描かれている。檸檬や蜜柑、冬が旬の柑橘類を使ったケーキだった。半月のような檸檬の周りに添えられたキウイの緑色も美しい。
「これは限定十食しか作れなかったケーキです。購入したのは男女の二名で一個と親子三人で二個、男性一人で一個。持ち帰りが三組。柏木さんご一家が三個と遠藤さんご夫妻二個、それと女性一名が一個。この女性が藤本紗英子さんという方でした」
誠一は商売の感覚はおかしいが、お客様が関わることは全部覚えている。それも調べるでもなく当然のようにいつでも出て来るから凄い。
小泉青年も呆気にとられて目をぱちくりさせたが、誠一は気にせず先へ歩いた。
「久宝艶子の本名は藤本紗英子。そしてこの画廊の経営者が」
誠一は入り口で受け取ったパンフレットを広げて最後の奥付をつんと指差した。
そこには『開催者 藤本幸之助』と書いてある。
「あ、ご家族! じゃあこの人に頼めば会えるんじゃないですか、小泉さん!」
「ええ! 今日はここにいらっしゃるんでしょうか」
小泉青年はぱっと嬉しそうに意気込んだが、誠一はノートを閉じると少し俯いた。
「久宝艶子さんは向日葵が散ってすぐの頃に亡くなりました。この個展は追悼です」
「……え?」
誠一はパンフレットの最初のページを開いた。そこには久宝艶子の経歴がびっしりと書いてある。
「久宝艶子。本名、藤夲紗英子。華族藤夲家の末子で長女として生まれる」
誠一はゆっくりと久宝艶子の歴史を読み上げ始めた。
久宝艶子。
本名、
わずか十八歳にして油絵「四季折々」が大きな評価を受け、彼女の時代で最も才能あふれる有望な若手画家として注目を集めた。
「四季折々」は四季の風物詩を緻密に描いており、細やかでありながら大胆なタッチで描かれた色彩豊かな風景画。多彩な色が支え合う様子が地球の奇跡を感じさせ、観る者は異なる世界を見ているようでもあり懐かしくもあると語った。
引く手数多となり二十歳のうちに一人立ちをし、風景画や静物画、人物画まで幅広く描くが、中でも写実的な肖像画は高く評価されている。しかし街に息づく作品作りを追い求めたため、特定の個人を描く人物画の数は少ない。
彼女の才能は美術界のみならず建築家やデザイナーの目に留まり、その斬新な創造力を認められ多くの建築計画にも参加した。とりわけ装飾のデザインは異彩を放ち、海外からも多く声がかかった。商品化されると即時に完売し、出す度に多くの購入希望が殺到していた。
それ以降も多くの作品を美術館や多数の施設へ提供し世を賑わわせたが、三十代になると若い画家を集めたサロンを開くようになる。
持ち前の幅広い技術と縁を生かして若者の指導を積極的に行い、次世代を担う芸術家を発掘し活躍の場を提供していた。
しかしその成功も束の間、肺を患い四十五歳の若さで他界。
彼女の死を悼む多くの人々が生前に手がけた作品を持ちより、この度の回顧展開催に至る。
今なお求め続けられる久宝艶子が生涯をかけて作り続けた作品の全てをお楽しみください。
小泉青年は経歴の素晴らしさに驚いたのか、口を開けてぽかんとしている。
薫子もこの経歴には驚いたが、違和感を覚えて首を傾げた。
「これ本当に艶子さんの経歴ですか? 凄い人みたいですけど、具体的な作品名が出てこないから画家人生が思い描けないわ。小泉さん、画家ってこうなんですか?」
「いいえ。個展をするなら作品には名を付けます。これじゃあどんな技術が認められたのかも分からないです。本当に油絵画家だったのかすら分からな――」
何かに気付いたようにはっと小泉青年は息をのんだ。俯き握っていたボールペイントペンをじっと見つめている。
「そのボールペイントペンは希望だったんでしょうね」
「何のです。久宝艶子の画家人生のでしょうか。では僕が持っていてはいけない」
「……この紹介文は有名人のように書いてありますが僕は知りませんでした。小泉君は知っていましたか?」
「いいえ。でも素晴らしい絵です。筆遣いがとても繊細だ」
「でも無名だった」
誠一は冷たく言い捨てた。
薫子は絵に詳しくはないし観賞する趣味もない。でも画家を志す小泉青年すら知らないのなら、それは画家として成功していたとは言い難い。
ようするにこの個展は『絵のうまい素人』と言っても疑問を持たれない程度のものということだ。
誠一はボールペイントペンを見つめて申し訳なさそうに微笑んだ。
「艶子さんと他にも何か話をしたんじゃないですか? 例えばあなたの身の上。ご家族に絵を辞めろと言われている――とか」
「何故それをご存じなんです。そうです。そんなことを少しだけ話しました」
誠一は何も答えなかった。ただ優しくにこりと微笑んで脚を順路の先へ向けた。
「進みましょう」
「は、はあ……」
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