託されたペン、広がる未来(四)

 薫子は花園のようになったワッフルを持って客席に戻った。

 まだかまだかとこちらを覗いていた寅助は、ワッフルを見るなり立ち上がった。ばたばたと薫子に駆け寄りバタークリームの花に手を伸ばしてくる。


「つまみ食い禁止ですよ! 席まで持って行きますから!」

「今日は薔薇か! ああ、花が溶けちまうじゃねえか。早くしろ、早く」

「人の話聞いてください。邪魔してるの寅助さんじゃないですか」


 子供のようにはしゃぐ寅助を席に押し込み、なんとかワッフルをテーブルに置く。

 寅助は薫子が渡すのを待たずにお盆からフォークを奪ったが、それと同時に小泉青年が寅助に続くように勢いよく立ち上がった。


「何ですかこれは! 苺でこんなに色々な物が生まれるなんて魔法のようだ!」

「綺麗でしょう。このお花も食べられるんですよ。葉っぱも全部」


 小泉青年はすっかり魅入ったようだった。お客さんのこういう顔を見ると、きまぐれセットに隠された金銭事情は絶対に口にしないようにしなければと思う。


「まるで芸術だ。いや、芸術です。ショーケースのケーキも美しかった」

「そうだろうそうだろう! こいつはぼんやりした男だが細かいことがうまいんだ」


 小泉青年は目を輝かせて多方面から観察をしていた。これじゃあ寅助さんは食べられないけれど、自慢げに嬉しそうに笑っている。


「俺は人物画専門ですがこれは今すぐ描きたい。店内なのが悔しいです」

「たまにはいつもとは違う彩りに目を向けると面白いでしょう。ボールペイントペンの持ち主も絵具で描いていたでしょうし」

「マスター、お知り合いなんですか⁉」

「いいえ。でも分かることはあります」


 マスターはにこりと微笑むとボールペイントペンを手に取った。

 お菓子で気分をあげた後のマスターはまた一味違う。そしてここからがお悩み相談の本番だ。

 マスターはボールペイントペンを手に取り全体を見せるようにくるりと回す。


「あちこちに絵の具がこびりついています。日常的に絵具を使っていたんでしょう」

「あ、本当。かぴかぴですね」


 ボールペイントペンの柄には点々と絵具が飛び、一度は浸してしまったのか部分的に変色もしていた。

 マスターは蓋を取り軸をくるくる回して中を露わにするとじっと観察した。


「先がすり減っています。インクももうじき切れそうだし、使い込んでいたんでしょうね。頻繁に使っていたんですよ。その女性にそんな様子はありませんでしたか? 文字書きか、もしくは絵描き特有の特徴のようなものは」

「そう言われると指先が黒ずんでいました。インクが染み込んでしまったような」

「会った時のことをうかがってもいいですか? 似顔絵の露店でしたか」

「はい。あれはまだ向日葵が咲いている頃でした」


 小泉青年は当時の様子を語り始めた。

 夏の日差しが突き刺さる中、黒田彩菓茶房からもほど近い公園で似顔絵の露店を開き客を待っていた。そこにやって来たのがその女性だったという。


「まだ若いのに露店なんて珍しいわね。鉛筆画で一枚お願いできるかしら」

「もちろんです。こちらにお掛けください」


 女性はとても身なりが良かったそうだ。

 シルクのように艶やかな生地を使ったエレガントなワンピースドレスにリボンと花飾りが華やかな帽子。真珠のネックレスと揃いのイヤリングは上品な輝きを放つ。

 しかし西洋文化が入ってきたとはいえ浸透しきったとはいえない中で、人目で『身なりが良い』と思えるほど上質な服を着ることなんてできない。

 それだけに小泉青年は似顔絵を描く手が緊張したそうだ。


「できました。どうでしょうか」

「素敵だわ。写実的だけど温かい。タッチが絶妙だわ。鉛筆の緩急が良いのね。陰影もほどほどで立体感もある。肉感も程好い。とても良い腕をしているのね」

「いえ、そんな。恐れ入ります。気に入っていただけて嬉しいです」

「後ろに飾ってある二頭身のも可愛いわ。漫画のようだけどリアリティがあるし独創的。よく描くの?」

「頼まれればというところですね。あまり得意ではありません。ただこういう方が若い人は寄って来てくれるんで。分かりやすいんでしょうね」

「需要を理解するのは大事よ。客引きなら有名人を描いて飾ると良いわ。知らない人の似顔絵を見ても腕の良し悪しが分からないもの」

「そうか。そうですよね。役者なんかは華やかで良いかもしれませんね」

「そうね。あなたは素晴らしいわ。露店を広げる度胸があり商品作りに相応しい技術があり、何より市場を理解している。これは素晴らしことよ。お名前は?」

「恐縮です。私は小泉といいます」

「小泉君ね。今度これで描いてくれないかしら」


 女性は棒のような物を差し出したという。それがこのボールペイントペンだが、小泉青年は見ただけでは何だか分からなかったらしい。


「これは何でしょうか。鉛筆とも筆とも違いますね。万年筆、でもないですし……」

「海外の文具よ。練習してみて。ひと月したらまた来るからその時はこれで描いてちょうだい。漫画のタッチで私の似顔絵を」

「え、あ――……」


 そうして女性は颯爽と去って行ったそうだ。


「とまあ、怒涛の如く褒められて気分が良くなっていたんですけど、約束のひと月はとっくに過ぎてしまったんです。でも一度もいらしてはいただけなくて」

「んー。まあ、単に親切なだけじゃないですか?」

「でも高価な物だったら怖いじゃないですか。後から盗人だと言われても困ります」

「それは無いと思いますよ。芸術界隈で成功した方のようですから、そんなことをしては彼女の名に傷がつく」

「成功? なにでですか? 絵ですか?」

「会話の内容ですよ。とても専門的じゃないですか。絵についてもですが、商売という観点でも語っている。加えてとても上から目線だ。きっと自らの作品を売買できるほどの画家だったんでしょう。売れる絵を描けるなんて、それだけで成功です。お金を出して絵を買うのは上流階級の一部だけです」

「それはそうですね。確かにそうだ」


 小泉青年はうんうんと感心したように頷いたが、小泉青年が考えている途中に誠一はすっくと立ちあがった。


「さて。ではその女性の所へ行きましょうか」

「え⁉ マスターやっぱり知り合いなんですか⁉」

「だって海外の商品をほいほいあげられるなんてそれなりの資産家ですよ。しかも画家の女性とくれば、ここらでこの条件が一致する人はそう多くない」


 誠一は『本日閉店』の札を持つと扉に掛けた。お客様のお悩み相談になると誠一はあっさりと店を閉めてしまう。


(最初に私が来た時も休日の午前中が閉店だった。あれもきっとお客様のため)


 薫子が黒田彩菓茶房で働き始めて間もないが、予告なしの休業は少なくない。

 普通の店なら考えられないが、これが黒田彩菓茶房だ。しかし何も知らない小泉青年は大慌てで首を振った。


「営業中にそこまでしていただくわけにいきません。申し訳ないです」

「おお。小泉君はまともじゃねえか。けどこいつはまともじゃねえんだよ。気にすんな。ほれ、鍵寄越せ」

「いつも助かるよ。薫子さん、入口の鍵を寅助さんにお願いしましょう」


 薫子はカウンター奥の戸棚から黒田彩菓茶房の鍵を取り出すと寅助に預けた。

 誠一がお客様相談で出かけてしまう時は閉店になるが、店内にお客様がいる時はすぐは出られない。けれど馴染み中の馴染みである寅助がいる時は代わりに会計と施錠をしてくれる。

 性善説を極めたのやり方はどうかと思ったが、薫子が来るより何年も前からこの調子だということだった。

 小泉青年はおろおろとしているけれど、誠一が率先して歩き出してしまったので薫子と小泉青年は急いで後を追った。

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