第2話 名前の漢字

 大学から帰宅すると、リビングで妹が机に向かっていた。


 顔を隠す濡羽色の髪を、妹は弓道の流麗さで耳にかける。露わになった紫フレームの眼鏡の奥の凛とした瞳は、一心に手元にある一枚の白い紙と鉛筆が記していく黒い文字に向けられている。


 年齢の割に大人びた、文学少女チックな容姿の妹と、そばに置いてあるまだ湯気が立っているココア。それからブラインドの隙間から差し込む夕刻色の淡い光。


 まるで純文学の一ページを読んでいるようだわ。そう言わざるを得なかった。


 ……覗き込んだ〈漢字の練習③〉と書かれたプリントの一番上に、まっすぐ丁寧に書かれている、『3年2組 宿利風花』の漢字さえ間違っていなければ。


「風ちゃん、漢字間違ってるよ」

「はっ。お姉ちゃん! おかえりなさい!」


 さっきまでのノスタルジーはどこへやら。風ちゃんが喋ると一気に部屋の雰囲気がチアフルになる。夕日の色も心なしか楽しげなオレンジに変わった気がした。


「ただいま。玄関ドア開けたときも声かけたんだけど、それも気付かないくらい、宿題に集中してたんだ。えらいねー」

「えへへー、ありがとうございます!」


 頭を撫でると小型犬のように首をふるふるする風ちゃん。かわいい。このまま褒めちぎろうかと思ったけど、プリントの名前の欄が再び目に留まったので、私は心の中で風ちゃんみたいに首を振って欲望を払う。


「うん、えらいけど風ちゃん。漢字の間違いは直そうね」

「あ、そうでした! どこです?」


 間違えを指摘されてもきちんと受け止め直そうとする姿勢、すばらしい。やっぱり後で褒めちぎろう。


「えっとね、一番上。風ちゃんのお名前の部分」


 私は風ちゃんの隣に座って、名前の三文字目、『風』の字を指す。


「ほんとです? 『風』は中の虫が飛ばないように壁をつける、って友だちが言ってたのですが、違います?」

「おしい。一本線が足りないねぇ」


 風ちゃんがプリントの余白に改めて書いてくれた『風』の字は、やっぱり『虫』の上の『ノ』が足りなかった。おもしろい覚え方だけど、それだと確かに一本不足してしまう。


 私は風ちゃんから鉛筆を借りて、風ちゃんの書いた『風』(仮)の横に『風』(確定)を書く。


「中に入ってるのはね、虫じゃないんだよ」

「たしかに! 毛が生えてます! これはなにが入ってるんです?」

「え、改めて聞かれるとなんだろうこの字……虫の旧字体とかなのかな? いやそれとも異体字? もしくはまったく別もの……?」


 私が頭からはてなマークを生産してぶつぶつ呟いていると、隣で風ちゃんが私の三倍くらいのはてなマークをぽんぽん量産していた。


「むしのきゅうじたい……? 新しい給食のメニューです……? 風花、できることなら虫さんは食べたくないです……」


「わあごめん! 難しかったね! 大丈夫虫さんは給食に出ないから、今言ったことは忘れて大丈夫だよ!」

 プログラミングされてないことを指示されたロボットみたいになった風ちゃん。今の風ちゃんに旧字体に割くストレージの余裕はないので慌ててインプットを止める。


「わかりました! よかったです!」


 頷く風ちゃん。素直さかわいい。たぶん明日旧字体の話をしたら「なんです、それ?」ってちゃんと忘れてくれている素直さ。


「えーと、とりあえず、『風』っていう字は、壁の中に、『ノ』と『虫』が入ってるんだけど、それで覚えられそう?」

「書いてみます」


 私から鉛筆を返された風ちゃんは真剣に頷き、鉛筆を走らせた。

 風ちゃんがかぜがまえの二画目に到達してから、なんとなく先の展開が読めた。たぶん、私の今の言い方だと……


 かぜがまえを書き終えた風ちゃんは私の予想通り、かまえの天井の真下にひらがなの『の』を書いた。そしてその後私の予想に反してひらがなで『むし』と続けた。


「こうです?」


 なんでやねん。

 きらきらした目を向ける妹がかわいすぎるのとアホいのとで思わず身に覚えのない関西弁が出た。


「風ちゃんさっきは漢字で『虫』って書いてたじゃん……」

「風花が書いたのは『風』ですよ?」

「そうなんだけど! いや、まちがってるからそうでもないよ!」


 私のつっこみに風ちゃんはきょとんとした顔でこちらを見ている。おとぼけ顔堪らんかわいい。心が落ち着いてゆく……。


 風ちゃんのかわいさチャージをしたので、気を取り直して。


「『風』っていう字は、壁の中にカタカナの『ノ』と漢字の『虫』が入ってるの。それで一回書いてみようか」


「はいっ!」


 気持ちのいいお返事。真剣な眼差しで一画一画丁寧に鉛筆を滑らせていく風ちゃん。今のこの瞬間だけを切り取ったら難しい漢字の書取りをしているように見えるけれど、


「書けました!」


 実際は『風』という自分の名前に使われている漢字なの、ギャップが尊い。


「うん。あってる! よくできました!」

 自分でも念のため宙に書いて確認した字と、風ちゃんが書いた字が一緒だったので、私は自信を持って頷いた。


「えへー。ありがとうございます!」

「これからは自分の名前の字だし、間違えずにちゃんと書こうね」

「わかりました! 練習します!」

「うん! がんばれ!」


 私はもう一度風ちゃんの書いた『風』を見る。


 きれいでまっすぐな字。


 きっと風ちゃんがアホい所以は、その字にもありありと表れている、まっすぐな性格。


 まっすぐすぎて、一つのことに集中して、他のことが抜けてしまうくらい、まっすぐ。


 そんな妹を、不安にも思うけど、それ以上に愛おしく思う。


 だって風ちゃんは、他のことが抜けてしまうことはあっても、聞き入れてくれないわけじゃないから。

 きちんと私や両親、友だちのお話を聞いてくれる、まっすぐさがあるから。ただすべて受け入れるわけじゃなくて、聞いた上で変だと思ったことは変だと言ってくれるまっすぐさがあるから。


 風ちゃんは、他の子よりもゆっくりだけど、ちゃんと一歩一歩、前に進んでいる。


 そんな妹の姿は、私には堪らなく、愛おしく映る。


 私は姉として、そんな風ちゃんの成長の力になりたい。


 だから、どんな小さなことでも、何度でも、間違っていいよ。


 私はずっと、風ちゃんのアホいところに、付き合うからね。


 私は一生懸命に漢字の書き取りをする風ちゃんの、冷めてしまったココアを温めなおしてから、部屋に戻った。


   *


 その翌日の放課後。風ちゃんの手元にはまた〈漢字の練習③〉のプリントがあった。


「あれ? 風ちゃん、そのプリント昨日もしてなかった?」


 私が尋ねると、風ちゃんは給食のプリンのおかわりじゃんけんに勝ったみたいな笑顔で教えてくれた。


「はい! してました! でも練習する字をぜんぶ『風』にしたら、もう一回提出することになったのです! なので今もう一度やってます!」

 

 悪気ゼロパーセントのまっすぐなお答え。

 ……うん、とりあえず。


 お姉ちゃん、頑張るね!


     〈第2話 了 〉

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