第33話 エピソード2 シウマイ弁当と卵焼き(9)

 臭いがする。

 居室のドアを開けた瞬間、看取り人の鼻腔と脳が敏感にその臭いを嗅ぎ分けた。

 これはもうすぐ旅立つ人が放つ独特の臭い。

 看取り人はこの臭いを"蜘蛛の糸"と呼んでいた。

 子どもの頃、何かの番組で見たお釈迦様が地獄に堕ちた罪人を助ける為に伸ばした一本の蜘蛛の糸。

 あれは罪深い罪人にも手を差し伸ばすお釈迦様の絶え間ない慈悲と死んでも消えることのない人間の浅ましさを表現したものでホスピスで旅立つのを待つ人に適した表現では決してないだろう。それでも看取り人は最後まで苦しみ足掻く人たちが迷うことなく旅立つ道標として空から降りてきているのではないかと思っていた。

 釈迦の絶え間ない慈悲として。

 そしてこの臭いがするということは・・・。

 看取り人は、背後に視線を向ける。

 先輩は、看取り人の背中に隠れるように身を縮ませて小さく震えていた。 

 放課後にホスピスに行くと伝えた時、先輩は大きく狼狽えた。

 まさか、今日の今日で行くだなんて思っていなかったのだろう。

「ホスピスの入居者はいつ死ぬか分かりません。今、この瞬間にも亡くなってるかもしれない。時間はないんです」

 先輩の表情が青ざめ、唇から血の気が引く。

 母親に立ち向かう覚悟は出来ていたが現実的な死のイメージが出来ていなかったことがありありと分かる。

 当然だ。

 死を現実として感じながら生きてる人間なんてごく少数だ。

 恐らく、午後の授業なんてまともに受けることも出来なかったろう、昇降口で会った時は先輩が旅立ってしまうのではないかと思うほどに憔悴しており、ホスピスに行く前に腹ごしらえしに行きたかったがとてもではないが行けなかった。

 それでも怯えながらも、看取り人の背中に隠れながらも先輩は付いてきたのだからある程度の覚悟と持てる限りの勇気を振り絞ってここにいるのだろう。

 それ程までに縛られているのだ。

 目の前に横たわる女性に。

 彼女なら垂れてきたはずの蜘蛛の糸に一緒に絡め取られてるかのように。

 看取り人は、三白眼を細めて横たわる女性を見る。

 抗がん剤の影響なのな斑尾まだらに抜けた白髪の混じった髪は傷みに傷んで潤いが失せ、骨の浮かぶくらいに痩せ細った顔は蝋のように白くて現実感がない。鼻に付けられたチューブからは絶えず酸素が送られ、薄く、白い唇からは空間が呻き声と一緒に漏れる。そして虚に開いた目は節目の多い天井を見ていた。

 その姿からは微かな生気すら感じられず、もう亡くなってしまっているのではないかとすら思わせてた。しかし、胸まで掛けられた敷布が僅かに上下するのをみて命の蝋燭が揺れているが分かった。

 看取り人は、部屋の隅に置かれたパイプ椅子を2脚広げ、先輩に座るよう促す。先輩は、オドオドしながらも座る。看取り人も先輩の隣に座り、鞄からノートパソコンを取り出し、膝の上に置いて電源を付ける。

 準備は整った。

 看取り人は、小さく息を吸って、吐く。

 そしてゆっくりと告げる。

「こんにちは」

 看取り人の声は、とても静かなのに居室の中に鐘のように響いた。

 女性の虚な目が小さく揺れる。

 錆びついた機械仕掛けの人形のように硬く動き看取り人達の方を向く。

 看取り人を映すその目は先輩と同じ刀で切りつけたような切長の目であった。

 その目が彼女が先輩の母親であることを言葉以上に告げていた。

「誰だい?あんた?」

 確か年齢は50になったばかりだったはずだが、白い唇から放たれたのは80を遥かに過ぎた老婆のようだった。

「僕は、看取り人です」

 看取り人は、淡々とした口調で告げる。

「いつもなら貴方と最後の時を過ごす為にいます」

 看取り人の言葉に母親は露骨に不快を表情に表し、弱々しい怒りの火を切長の目に宿す。

「あんたふざけてるのかい?」

 掠れるような声を絞り出すように言う。

「ふざけてません」

 看取り人は、澱みなく答える。

「私は、誰かに看取ってもらおうだなんて思ってないよ。1人でぽっくり逝きたいんだ」

「聞いてます」

 母親の目に宿る火が強くなる。

「じゃあ、何で看取りなんてふざけたことを言ってる?」

「ふざけてません。それに看取るのは僕じゃありません」

 看取り人の視線が隣に映る。

 先輩は、顔を伏せたままカタカタと身体を震わせている。

 母親は、看取り人の隣にもう1人いることにようやく気づいて切長の目を大きく開ける。

 母親の視線を感じ、先輩は顔を上げる。

 その顔には恐怖が彫られるように浮かんでいる。

 母親は、一瞬、怪訝な表情を浮かべ、そして大きく目を開く。

 2人の切長の目が交差し、深い沈黙が落ちる。

 看取り人は、両手をパソコンのキーボードの上に置いたまま2人の視線を静観した。

 先輩は、右目には深い恐怖を浮かべながらも僅かな勇気で持って母親を見ていた。

 母親の弱々しく目の奥には微かに光のようなものが揺らめいている。

 沈黙を破ったのは母親だった。

 母親は、血の気のない唇からぶっと小さな笑いが出る。

「何だお前か・・」

 その表情に侮蔑が浮かぶ。

「随分と見かけが変わっちまってたから一瞬誰だか分からなかったよ・・」

「ママ・・・」

 先輩の右目と声が震える。

 母親の切長の目の端が動く。

「ママなんて呼ぶんじゃないよ。気持ち悪い」

 母親の声は決して強くない。むしろ喋るのもやっとで聞き取るのも難しいくらい弱々しい。

 それでも先輩は、母親の一言一言にナイフで刻まれたかのように顔を歪ませる。

 その顔を見て母親は苦しそうにため息を吐く。

「なんだい辛気臭いね。イライラするよ」

「ご・・・ごめんなさい・・」

 先輩は、ぎゅっとスカートの裾を握る。

「謝んじゃないよこの馬鹿!」

 母親は、力なく怒鳴る。

 先輩は、ビクッと身体を震わせる。

 母親は、苦しげに息を吐く。

「お前・・・何で私の看取りなんてしたいんだ?」

「わ・・・私はママの・・・」

「好きとか愛してるなんて嘘でも言うんじゃないよ。気持ち悪い」

 母親は、吐き捨てるように言う。

 先輩は、小さく「ひっ」と声を上げ、看取り人を見る。

 看取り人は、何も言わず、三白眼を細めて先輩の目を見る。

 先輩は、看取り人の目を見て、スカートの裾をぎゅっと握り、口を開く。

「私は、ママの話しを聞きたいの」

 先輩の言葉に母親は眉を顰める。

「私の・・・話し?」

 先輩は、恐々と頷く。

「ママ・・私のこと恨んでるんだよね?」

 先輩の言葉に母親の切長の目が小さく揺らぐ。

「なに?」

「私が生まれたことを恨んでるんだよね?私が生まれたせいで不幸になったんだよね?だから・・・だから・・」

 先輩は、左目の眼帯を触る。

「ママの恨みと怒りを私にぶつけて」

 その言葉に母親の目が大きく開く。

 看取り人は、何も言わず三白眼を細める。

「殴られたり、叩かれるのは嫌だけど・・言葉は幾らでもぶつけて。ママの怒りも恨みも全て聞くから。ママが思い残すことないように、未練が残らないよう全部聞くから。ママが天国に行くまでずっと聞いてるから・・」

 先輩は、椅子から転げ落ちそうなくらい前のめりになる。

「だから・・・それで私のことを許して・・お願い」

 先輩の右目から涙が溢れる。

 母親は、じっと先輩を見る。

 そして・・笑う。

 病気で弱っているとは思えないほどに高らかと笑う。

 先輩は、右目を大きく開けて驚く。

 母親は、傷んだ髪の上に枯れ木のような手を置いて先輩を見る。

「お前を許す?私がお前を恨んでる?」

 そう呟いてから母親はさらにら吹き出して笑う。

 看取り人は、三白眼を細めて母親の様子を見る。

「私は、お前のことなんて恨んじゃいないよ」

 母親から発せられた言葉に先輩は絶句する。

「私が不幸になったのは私のせいだ。お前は関係ない」

 先輩の身体の震えが大きくなる。

 左目の眼帯をぎゅっと握る。

「じゃあ、なんで・・なんで・・あんなことを?」

 先輩は、涙と一緒に声を絞り出す。

 母親の切長の目がスッと細まる。

「嫌いだからだよ」

 その言葉は、鋭利な刃物のように空気を裂き、先輩の心に突き刺さる。

「この世の誰よりもあんたが嫌いだからだよ。あんたが生まれたことを恨んでるんじゃない。生まれた時から、腹の中にいた時からあんたのことが嫌いだったからだよ」

 ガタンッ。

 先輩は、パイプ椅子から崩れるように落ちる。

 右目から涙が溢れ、呼吸が乱れ、表情が恐怖と絶望に崩れる。

「じゃあ・・・じゃあ・・」

 先輩は、カッターの刃を飲み込んだように痛々しく声を絞り出す。

「じゃあ・・なんで私を産んだの?」

 その言葉には痛み以外に若干の期待が込められているように看取り人には感じられた。

 ひょっとしたら想定された言葉以外のものが出てるのではないかという淡い淡い期待が。

 しかし、そんなものが出てくることはなかった。

「腹にあんたがいるって気づいた時には堕ろせなかった。それだけだよ」

 先輩の口から悲鳴のような呼吸が漏れる。

「分かったらさっさと出ていきな。許すもなにも私はあんたなんか恨んじゃいない。嫌いを超える感情をあんたに抱くなんてことは有り得ない。死んだってあんたの前には現れない。だから・・・」

 母親は、切長の目に感情を込めて先輩を睨む。

 先輩の顔に恐怖が走る。

「さっさと出て行け!この馬鹿ガキが!」

 弱々しい叫び声が居室を走る。

 先輩は、悲鳴を上げて立ち上がり、よろけながら扉まで走り、飛び出していった。

 看取り人は、先輩の出ていった扉をじっと見る。

 扉は、何かに押されるように勝手に閉まる。

 母親は、息絶え絶えに扉を睨み、そして看取り人を見る。

「追いかけないのかい?」

 息を切らしながら看取り人を見る。

 看取り人は、母親に目を向ける。

「後で行きます」

 母親の顔が小さく歪む。

「あの調子じゃ何しでかすか分からないよ?アッチで会うのなんてごめんだからね」

 看取り人は、三白眼を細める。

「心配なんですか?」

 看取り人の言葉に母親の表情が固まる。

「心配しなくてもちゃんと行きます。ただその前に僕の疑問に答えてくれますか?」

「疑問?」

 母親は、怪訝な表情を浮かべる。

 看取り人の三白眼が小さく揺れる。

「貴方は・・・先輩のことが大好きですよね?」

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