第13話 エピソード1 宗介(13)

「何で追いかけなかったんですか?」

 看取り人は、眉根を寄せる。

 本当に分からない、そう言った顔だ。

 その顔を見て宗介も困った顔を浮かべる。

「分からない・・」

 その声が掠れているのは病気のせいだけではなかった。

「俺が自分が思っている以上にガキだったからか?足が竦んでしまったからなのか?ガキなりに彼女の気持ちを汲み取ってなのか?今となっちゃ分からない。でも、大人になった今でもあの時、追いかけなかったのは正解だったと思っている」

「・・・何故ですか?」

 看取り人は、パソコンを打つことすら忘れて宗介を見る。

「熟成する必要があったのさ」

 宗介は、小さく唇を釣り上げる。

「熟成?」

「ああっ。こんな時はワインの熟成話とかしてカッコつけるべきなんだろうが、子どもの君には分からんだろう」

 宗介の言葉に看取り人は、むっと唇を結ぶ。

 そういうところは年相応だ、と思った。

「俺には・・俺たちには考える時間が、自分の気持ちを確認する時間が必要だったのさ。あの時、アイは何故、走り去ってしまったのか?アイに振られることで俺の気持ちは薄まってしまうものなのか?それとも濃く、強く、何が起きたとしても追いかけ、思い続けることが出来るのか?アイも・・・きっとそうだったんだと思う」

 看取り人は、宗介の顔を見る。

 病気によって窶れやつ、白くなってしまった顔はひどく年寄りのようにも見え、自分と年の変わらない少年のようにも見えた。いや、見えたのではない。きっと宗介は、アイと出会った時の17歳の少年に戻っているのだ。

「・・・続けて・・下さいますか」

「ああっ」

 宗介の声は、力なく掠れているのに、ひどく若々しく感じさせた。

「途中で・・・終わらないよう頑張るよ」

 宗介は、唾と一緒に息を飲み込む。そしてゆっくりと話し出した。

「熟成なんてカッコつけたけどな。あの後、俺は生きるのが嫌になるくらいに絶望していたよ」


 アイに振られた。

 そのこと自体は覚悟していたことのはずなのに宗介は、何の前触れもない事故に巻き込まれた時のように逃げようのない絶望に打ちひしがれていた。

 誰か知らない人間に自分の命を奪ってくれないかと願ってしまうほどに。

 次の日、宗介とアイは、普通に教室で顔を合わせた。

学生と教育実習生なのだから病欠でもしない限り、学校に来るのも顔を合わせるのも当然だ。2人は、何事もなかったように教室に入り、何事もなかったかのように授業を行い、質問をし、問題を書き写した。

 苦痛だった。

 地獄なんて信じていないがあるとすればまさに今、この時のことを指すのだろうと思った。

 彼女の姿を見るのが痛い。

 彼女の声を聞くのが痛い。

 彼女を愛しくて想うのが痛い。

 何だこの拷問は⁉︎

 過去に犯した罪への償いが一辺に襲いかかってきているようだ。

 宗介は、授業中、深海の底に沈めれているかのように呼吸が出来なくなるのを感じた。学校になんて1秒でもいたくない。でも、来ないとアイに会えない。エンドレスな拷問は終了のチャイムが終わり、家路に着いた後も襲ってくる。寝ても覚めても、食事をしても、風呂に入っても、夢の中にまでアイに振られたという痛みはついて回った。唯一、茶トラ猫にご飯を上げている時だけが癒やされた。

 アイは、宗介に話しかけても近寄っても来なかった。

 いつも通りの柔らかい笑顔を浮かべて生徒に接し、教科書を読み、宗介以外のが生徒達の質問を受け付けた。アイが宗介以外の生徒と話しているのを見るのが堪らなく辛かった。アイと話したい学生を捕まえて報復しようと思ったのも一度や二度ではない。その時だけは昔の宗介が嫌でも出てきそうになるが、現在の宗介はそれを押さえ込む。例え、振られたとしてもアイとの約束を反故にすることなんて絶対に出来ない。

 そんな地獄を繰り返しているうちにアイの実習期間は終わりを迎えようとしていた。

 アイの最後の実習は誰の目から見ても問題なく終了した。教師達は、彼女の成長を褒め称え、生徒達は名残欲しそうにアイに声を掛けていた。

 宗介は、その輪の中に入れらなかった。入る以前にあの時から授業以外は一言だって話していなかった。話せなかった。

 彼女の実習の終わり・・それは宗介とアイの関係性の終わりを伝えているのだ。

 この学校は、公立校だ。

 つまりアイが教員試験に合格してもこの学校に配属されるかなんて分からない。例え配属されたとしてもその時には宗介は卒業している。当時は携帯なんて普及してないから連絡先の交換も出来ないし、どこに住んでいるかもしれない。

 詰みだ。

 宗介は、小さく息を吐く。

 結局、自分とアイの間には茶トラ猫以上の繋がりは存在しなかったのだ。舞い上がっていたのは自分だけだったのだ。そう思うと全てが馬鹿馬鹿しくなった。

 その日の部活では久々にスタンドプレーを行った。部員はおろか顧問の話になんて耳も傾けず、縦横無尽にコートの中を走り回り、気が付いたら完勝していた。

 部員達は、驚愕、嫉妬、恐怖、そして憤怒のこもった目で宗介を見た。

 それはあまりにも見慣れた目・・・だったはずだ。

 なのに堪らなくその視線が痛かった。

「・・・ごめん」

 宗介は、姿勢を正して頭を下げる。

 宗介の突然の謝罪に部員達から動揺の声が上がる。

「今日は、少し苛々していたんだ。本当に申し訳ない」

 宗介は、頭を上げるとコートを出て顧問に近寄る。

「自分の都合で申し訳ないのですが、今日は自主練に切り替えてもよろしいでしょうか?」

 宗介の願いに顧問は、何も言わずに頷いた。

 本来から一生徒の我儘など採用されるはずがないのだが、宗介の日々の実績と少なからずの信頼がそれを許してくれた。

 その後、宗介は、体育館の隅でひたすらにシュートの練習を繰り返し、終了時間になると汗を拭き、消臭スプレーを身体に撒き散らし、着替えを終えて学校を後にした。

 きっと今頃、職員室ではアイへの労いと打ち上げを兼ねた飲み会の話しで盛り上がっていることだろう。ひょっとしたらこの前のように知らない生徒に呼び出されて告白されているのかもしれない。

 しかし、何を思おうと、何が起きようともう宗介には関係がないのだ。

 アイと宗介の関係は、太刀で首を切られるように断たれてしまったのだ。

 これでも宗介は、茶トラ猫のいる公園に足を向ける。

 自分とアイの間に何が起きようとあの猫には関係ない。

 宗介は、予め用意しておいたキャットフードを忘れていないか確認し、いつものベンチへと向かった。

 宗介の足が止まる。

 驚愕に目が大きく開く。

 いつものベンチ、茶トラ猫の餌やり場にアイが座っている。茶トラ猫にご飯を上げて、頭を撫でている。

 宗介は、驚きのあまり足の動かし方はおろか息の仕方すら忘れてしまう。

 アイは、宗介が来たことに気づき、茶トラ猫を撫でるのを止める。茶トラ猫は、もっと撫でて欲しいと甘い声を上げて、アイの手に顔を擦り付ける。

 アイは、優しく茶トラ猫の頭を撫でてゆっくりと立ち上がる。

 そしてじっと宗介を見る。

 その目は、凪いだ海のように平静で、そしていつ荒れてもおかしくないような思い感情を漂わせていた。

 宗介は、アイの目から反らすことが出来なかった。

「これから・・・時間ある?」

 柔らかい、しかし強い声でアイは、言う。

 その声には何か大きな決意のようなものが見え隠れしていた。

 宗介は、何も言わずに頷いた。

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