第12話 エピソード1 宗介(12)

 その日の夕方、公園のベンチに座って宗介が茶トラ猫にご飯を上げていると約束通りアイはやってきた。いや、約束というのは違うかもしれない。これは一方的な宗介の願いだったのだから。しかし、アイはあの頃と変わらない笑顔で宗介に「久しぶりだね」と言うと宗介の隣に腰を下ろした。茶トラ猫が嬉しそうに甘い声で鳴き、アイのくるぶしにその顔を擦り付ける。

 アイは、くすぐったそうに、愛おしそうに表情を柔らかく緩める。

「元気そうで良かった」

 それは茶トラ猫に言ったのだろうか?それとも自分に言ったのだろうか?宗介は分からずに眉を顰める。

「ちゃんと面倒見てくれてたんだね」

 アイは、宗介の方を向いて微笑む。

 その笑顔があまりに美しく、輝いて見えたので宗介は思わず唾を飲み込んだ。

「そりゃあもう」

 しかし、努めて冷静に声を絞り出した。

「少し太ったでしょう?」

「私が?」

 アイは、驚いて口を丸く開ける。

「いや、猫が」

 そう言われてアイは、茶トラ猫を見る。

 確かに1年前よりも体型は丸くなったかもしれない。

「確かに太ったけど、健康的と呼ぶべきじゃない?」

「だと、いいんですけど。少し餌をあげ過ぎたかな?と思ってたんです」

 宗介は、身を屈めて茶トラ猫の頭を撫でる。

 茶トラ猫は、嬉しそうに目を細める。

 あれからも何度か親に交渉して自宅で飼おうとしたが,結果ダメだった。その変わりに飼い猫と変わらない餌を上げ続けていたらいつの間にか野良で生きていけるのかと心配になるくらいに身体が丸くなっていたのだ。

「すっかり懐いたね」

 アイは、目を細めて茶トラ猫を見る。

「聞いたよ。インターハイでMVPを取ったんだってね」

 アイは、嬉しそうに言う。

「しかも仲間をサポートしてチームを勝利に導いていく姿勢が評価されて」

「ええっまあ」

 宗介は、恥ずかしそうに鼻の頭を掻く。

「せん・・・アイさんの宿題をこなしていたらいつの間にか・・です」

 宗介の言葉にアイは、首を横に傾げ、そして思い出して目と口を大きく開ける。

「覚えててくれたんだ」

「当たり前ですよ」

 アイの反応に宗介は、唖然とする。

 自分は、この半年以上をその事だけを考え、費やしていたのに宿題を出した当の張本人は忘れていたというのか?

 アイは、口元に手を当てて大きな声で笑う。

 その様子を茶トラ猫は、不思議そうに見る。

 宗介は、恥ずかしくなってそっぽ向く。

 そんな様子をアイは可笑しそうに見る。

 そして宗介の頭にぽんっと手を置いて撫でる。

「君・・こんなに可愛かったんだね」

 アイの言葉に宗介の顔が赤くなる。腹の奥に怒りが湧いて思わずアイの手を振り払う。

 アイは、突然の宗介の行動に驚く。

「ふざけないでください!」

 宗介は、アイの方を向いて怒鳴る。

「俺がどんな思いでこの宿題をこなしていたと思ってるんですか!」

 全てはアイに認めてもらう為、アイに褒めてもらう為、アイに・・・相応しい男になる為に頑張ってきたというのに・・・・その全てを否定されたような気がして宗介は胸が掻きむしられる思いであった。

 宗介のあまりの剣幕にアイの表情から笑顔が消える。そして申し訳なさそうに顔を下に向ける。

「ごめんなさい・・・揶揄うつもりはなかったの」

 アイは、身体を小さくして謝る。

 本当にそんなつもりはなかったのだろう。表情が悲壮に青ざめる。

「ただ、嬉しかったの。私との約束・・ちゃんと守ってくれてたんだって・・」

 宗介の腹から怒りが消える。

 そして大人げない自分を恥じる。

 そうだ。勝手に約束を守っていたのは自分ではないか。それをアイが忘れてたから怒りをぶつけるなんて自分勝手もいいところだ。

「・・・ありがとうね。宗介君」

 アイは、顔を上げて微笑む。

 その顔を見た瞬間、腹の奥から怒りとは別の感情が生まれる。

 愛しい、焦がれるような熱い感情が湧き立つ。

「・・・好きです」

 それは宗介自身、誰が言ったのか分からない、無意識の中から溢れた言葉であった。

 そして1度出てしまったらもう止まらなかった。

「アイさんのことが好きです」

 アイは、何を言われているか分からず、呆然とした。

「貴方に会えるのをずっと楽しみにしてました。貴方に認められる男になれるよう宿題を頑張ってきました。友人も作る努力をしました。部活でも協調性を意識しました。あれから他の女子になんて見向きもしてません。貴方だけを、貴方だけをずっと想い続けていました」

 俺は、一体何を言っているのだ?

 こんな馬鹿みたいな捻りのない言葉の羅列、羞恥だらけの単語、まとまりのない文章・・・。俺が言いたいのはこんな台詞じゃない。タイミングを見計らい、洗練され、一部の隙もない、心に刺さって離れない、そんな告白だったはずだ。

 それなのに・・・止まらない。

 感情が溢れ過ぎて溺れそうになる。

「好きです。アイさん・・貴方が好きです」

 アイの目は、震えていた。

 その震えは、唇に、肩に、手に、そして全身へと広がっていった。

 宗介の言葉が止まる。

 沈黙が夕暮れの公園を覆う。

 茶トラ猫は、餌を食べて満腹になったからかアイの足元に身を寄せて身体を丸めて眠る。

 宗介は、恥入りながらもアイの言葉を待った。

 アイは、形の良い唇を開いて、何かを言おうとしては閉じる。躊躇っているのか、言葉を探しているのか、両手を握っては開き、目を何度も瞬きする。

「・・・ごめんなさい」

 アイの口からピーズのアクセサリーが千切れて、こぼれ落ちるように言葉が出る。

 宗介は、目を閉じる。

 予想外な言葉ではない。

 むしろその言葉しか予想していなかった。

 彼女は、教師の卵、俺は生徒。

 それを思えば答えなんて靴紐を解くよりも簡単に解ける。

「・・・ごめんなさい・・・私・・・ごめんなさい」

 アイも戸惑い、目を潤ませる。

 その姿が半年以上前のシーに告白された時の姿に重なる。

 やはり早まってしまったか・・・。

 宗介は、小さく息を吐く。

 そして頭を下げる。

「すいませんでした。急に変な事を言ってしまい・・」

 宗介は、ゆっくり頭を上げる。

「でも、今の気持ちに嘘はありません。俺は、まだ学生です。アイさんにはとても釣り合わないことは分かってます。俺はこれからもっと成長します。貴方に相応しい男なれるよう精進します。だからその時は・・」

 もう一度、告白させてください、そう言おうとした時だ。

「違うの!」

 アイは、悲痛な感情と共に叫んだ。

 アイが感情を乗せて叫んだのを見たのは初めてだった。

 宗介は、驚愕に目を開く。

「そうじゃないの!そうじゃない!」

 アイは、叫び、首を何度も横に振る。

「貴方に相応しくないのは私なの!」

「えっ?」

 アイが何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 アイは、ベンチから立ち上がると「ごめんなさい」と言って走っていく。

 宗介は、呼び止めようとするが、手を伸ばすだけで動くことができなかった。

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