ニムロド・メランコリィ

見咲影弥

本編

 「愚問だね、それは」


彼は、僕が丹精込めて作った夕食を五分もしないうちに完食してしまってから、僕の相談に対しての回答を大層簡潔に述べた。その煮込みハンバーグ、どれだけ時間がかかったと思ってんだよ、もっと味わって食えよ、と喉の方までせり上がってきた言葉をなんとかぐっとこらえる。しかしその怒りを差し引いてもこの悶々とした気持ちは収まることを知らず、こんな奴に聞くんじゃなかったと後悔した。だが、一番さり気なくこの問題に関して相談できるのは彼しかいなかったので仕方ない。


「愚問、かぁ」


「あぁそうだよ。たかが棚1つ買い足すくらいでそこまで真剣に悩む奴なんていないさ」


彼はそう言った後デミグラスソースの付いた口を大胆にも袖で拭おうとしたので、さすがに、おい、と注意した。別にいいじゃんと、あからさまに不機嫌そうな顔をしたが、どうせ服の汚れを落とさなきゃいけないのは僕なのだ。余計な仕事は増やしたくないので、これくらいは従ってもらう。彼が渋々ウエットティッシュで口元を拭いたのを確認してから話を戻す。


「君にとっては大したことない決断かもしれないけどね、僕にとっては非常に重要な話なんだ。この部屋の空間デザインに関わることなんだから。寸法、材質、色合い、それに価格。全部検討した上で最良のものを選ばないと後々後悔することになるぞ。それを愚問とたった一言で片付けられてしまっては困るんだよ」


「別に俺はそんなに気にならないけどね。使えたらいいじゃない、本棚なんて。今あるものと似たようなものをワンクリックするだけで充分じゃないか」


「今あるものは全部実家から持ってきたものなの。相当な年代物だよ、多分。今全く同じものが出回っているわけないじゃないか」


「だからさ、同じものじゃなくてもいいじゃん。ちょっと違ったところで気づかないと思うよ。考え過ぎなだけだよ。お前はいっつもそうだ」


彼は呆れた目を僕に向ける。


「何においても程々にしておくってのは案外大切だぜ。無駄な拘りを持たない方がいい」


そう言って彼はダイニングを立ち去ろうとするが、ちょっと待ってと彼を止める。


「自分で出したゴミくらい、ちゃんと自分で捨ててよ」


机の上には茶色く汚れたティッシュがある。やったらやりっ放し。ゴミはそのまま。テレビの前のちゃぶ台にも彼の飲み終わったハイボール缶やスナック菓子の袋が放置されている。昨日の晩酌の残骸だ。部屋が汚れても何も気にしない。自分で食べた皿さえも片付けようとしない。僕がいなかったら今頃彼の部屋はゴミ屋敷化していただろう。僕と住むようになったから全部僕任せになったというわけではなく、彼は元々こういう人間だった。


「はいはい、これで満足ですか」


彼はこれみよがしにゴミを屑籠に投げ入れた。


「はいはい、カンペキカンペキ」


と僕も彼と同じようにダルそうに言ってやった。彼は用が済んだと分かったら僕に背を向け、スマホを触り出した。その態度に先程まで募らせていた不満が高まり、つい口に出してしまった。


「今日の煮込みハンバーグ、どうだった?」


彼は青く光る液晶に目を向けたまま、大儀そうに言った。


「あぁ、旨かったよ」


何の思いも込められていない、脊髄反射の返事。ただ栄養を取るためだけの作業に成り果ててしまっていた彼の食べ方を思い返す。それから、不器用な形をした食べかけのハンバーグに目を落とす。やっぱり、聞かなきゃよかった。


 彼とは、大学に入ってからの付き合いである。同じ学部で、それなりに交流があったのだが、2年次の研究で同じ班になって、そこから急速に仲が深まった。ルームシェアを始めたのは今年に入ってから。ゼミの研究が多忙になって実家からの通学が億劫になったタイミングで、同じように実家通学の彼から誘いを受けたのだ。彼はただ一人暮らしは心細い、2人なら楽しそうとかいった理由からルームシェアを持ちかけてきたようだが、僕には部屋代も折半できるし、独りで住むより広い部屋を確保できるという打算的な考えもあって、ぼぼ即答でオーケーを出した。で、一緒に住み始めたわけなんだが、正直彼には呆れている。程よい距離感でいるといい人なのだが、近づき過ぎると粗ばかりが目立ってしまう。ここまで怠惰な人間だとは思いもしなかった。確かに思い返せば、彼の性格を匂わせる節々は至る所であった。研究結果が出なくとも、まぁいいんじゃね、で済ませてそのままレポートを提出したり、家事の当番を決めようとしたときも、気づいたほうがやるってことでいいじゃん、となあなあにしたり……ああまだまだ沢山ある。もっと早くに彼の実態に気づくべきだったと反省している。しかし、こんな生活も悪くないと思っている自分もいるのも事実だ。


 洗い物を終えて共用スペースに行くと、彼がソファに寝転がって大笑いしていた。どうせまたショート動画を見漁っているのだろう。品のない笑い声が響くのに耐えられず、僕はイヤホンをつけてお気に入りの音楽を流した。ほんと、こんな奴のどこがよかったんだろう。つくづく不思議である。やっぱり顔か。認めてしまうのは悔しいけれどシンプルにかっこいいのだ。


 彼にはユイという名の彼女がいる。配属されたプレゼミが一緒で仲良くなったという。それから彼女から告白され付き合うまでに至ったのだそうだ。僕はこの報せを友人伝いに聞いて驚いた。それも半月も遅れて。友人も、なんで一緒に暮らしているお前が何も知らないんだよ、と驚いていた。帰宅して彼に尋ねると、そう言えばと思い出したかのように僕に伝えたのだ。どうして早く教えてくれなかったんだよ、と問うと、お前が知ってどうするんだよ、別に関係ないじゃん、と一蹴された。後々詳しく聞いた時の言い分によると、風の噂でどうせ耳に入るだろうし友人相手だろうと自分の全部を教えなくったっていいじゃないか、というものであった。たとえそう思っていたとしても報告くらいしてほしかったし、自分の胸のうちにある感情が複雑すぎて結局素直に喜ぶことはできなかった。

 

 顔写真を見せてもらったが、1年の時に交流があった人だった。グループディスカッションで一緒になった程度だけれど。男子に受けの良さそうな顔だった気がする。僕には分からない領域だけど。まぁどんな子であれ、彼女を持った奴がこんな生活ぶりでは駄目だ。解像度が高くなれば高くなるほど、悪いところが目立つようになる。僕も身をもって体感した。彼は将来絶対、こんな筈じゃなかったと言って愛想をつかされるタイプだ。ずっと尽くしてもらえると思ったら大間違いだぞ。そう心の中で毒づいてみる。彼には伝えない。伝えたところで絶対に変わろうとなんてしないから。だから、愚かなままずっと此処で、ぬくぬくと暮らしていたらいい。総て駄目になった後、ざまぁねぇやって隣で笑ってやる。


 * 

 僕は隣町のレストランでバイトをしている。なぜ隣町でするのか、自分の町で仕事した方が通勤が便利だろう、とよく言われるのだが、そんなこと百も承知だ。様々なことを考慮に入れた上で、隣町のバイト先を選んだのだ。まず、知人に会う確率が格段に減る。僕の住んでいる場所は都会で、そこで一通りのものは事足りてしまう。つまりわざわざ市外に出て何かをしようとする人は少ないのだ。レストランなんか自分の住んでいるエリアには沢山あるため、こっちの方まで出てきて市内にある店と同じチェーン店に足を運ぶ者はそうそういないだろう。ここまでして他人に会いたくないのにもわけがある。自分を知っている人に働いている姿を見られたくないのだ。普段話す人と、店員と客という関係で接することに対する恥じらいもあるし、自分が何かヘマをしでかした際、笑われるんじゃないか、噂になるんじゃないかという恐れもある。後者に関しては僕の行き過ぎた被害妄想によるものだけど、そう簡単にこの考えすぎる癖は治せるものではない。僕にできることとしたらその癖が重症化するリスクを極力抑えることだけなのだ。ある種の自衛だ。


 いつもと何ら変わりなく仕事をこなし、シフトもそろそろ交代する時間となった。都会から外れたところと言えども、このレストランは繁盛しておりひっきりなしに客が訪れる。2人して慌ただしく水やメニュー表を運んだり、注文を伺ったりしていた。それも8時が近づくと、ピークは過ぎたようだ。新しく来る客も少なくなってきた。そんな時である。客の入店を告げるベルの鳴る音がして、ドアの方を見やると知った顔の人物がいたのである。さすがに僕がここで行くわけには行くまい。物陰からこっそり後輩に指示を出して給仕に行かせた。そして僕はずっとその人物の様子を見ていたのである。セミロングの黒髪、愛嬌のある顔つき、肌の色が見えそうな服装。あぁ、見たことがある。確かにこの人は、あいつの彼女、ユイだ。しかし僕は連れの人物を見て更に驚いた。男だったのだ。それもあいつではない男。これはもしや、見てはいけない場面を見てしまっているのではないかという感覚に囚われた。これは俗に言う、浮気というやつなのではないか、そんな気がしたのだ。だが、その疑惑は相手の顔を見ると薄れてしまった。相手は見るからに草臥れた中年のオジサンなのだ。頭頂部は薄くなっているし、顔の皺も多い。一体ユイとあの男性はどのような関係なのだろう。父親だろうか。しかし父親相手の食事にあんな露出の激しい、いかにも肌寒そうな服を着るだろうか、と思考を巡らせていた時、背後から店長に名前を呼ばれた。


「8番テーブル、お会計だって」


レジに目を遣ると女性2人が、早くしてくれないと言わんばかりの冷たい視線を此方に向けていた。冷や汗が首筋を伝い、恥ずかしさのあまり体温が上がるのを感じた。


 交代のタイミングで、店長にはぼーっとしていたことを詫びたが、いいのいいの、ミスは誰にだってあるんだから、と肩をバンバンと叩かれた。その優しさがかえって罪悪感を煽る。一刻も早く恥をかいたことを忘れたくってチャリで爆走して帰路に着いた。しかし残酷なことに、思い出したくないような嫌な記憶ほど人間の脳にはしっかり刻み込まれるらしい。記憶は依然として鮮明であり、僕は夜な夜な独り大反省会を行う羽目になった。

 

 *

 「帰りが遅くなるから晩飯要らない、先に寝てていいよ」


彼はそう言って土曜日の昼過ぎに家を出た。了解、と軽く返事をして彼を見送った。今日は彼の誕生日だ。彼女と誕生日デート、羨ましいと思うけれど快く送り出してこそ友人なのだ。そう、僕は彼のいち友人なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。だのに僕はこの思いを抑えられずにいる。


 独りだけの夜が来て、僕は熱く滾らせた思いを、決していつもは表に出すことのない思いを発散することにした。彼は帰ってこない。しかし念には念を入れて、とトイレに籠もって鍵をかけた。自分の息遣いが荒くなるのを感じる。彼への抑えがたい衝動が膨らんでいき、その熱は次第に僕の一点に集まっていった。彼が恋人の元へ行く時、僕は毎度こうやって己に溜まる淫らで穢らわしい、いち友人に抱いてはいけない感情を吐き出す。秘密の遊戯。そうすることで辛うじて僕は平常な人間としての均衡を保っているのだ。


 遂に果てようとしたその時。玄関の鍵が開く音がした。僕は思わず息を止めた。


「ただいまー」


と彼の声がする。どうして。今日は帰ってこないはずじゃ。


「あれ、どこにいるの?トイレ?」


と彼はこちらに向かってくる。まずい、そう分かっていても止められるわけがなかった。僕は今、この状況に興奮している。


「おかえり」


扉越しに言う。


「今日彼女の家に泊まるんじゃなかったの」


「いや、その予定だったんだけど。調子悪かったみたいで早く帰った」


彼の声を聞く度いやらしい思いが募ってゆく。扉一枚を隔てた先に、彼がいる。そして僕は痴態を晒している。ゾクゾクするシチュエーション。いつも以上に激しくドーパミンが出ていて、僕は次の瞬間最高潮に達した。


 潮が引き、僕は己の汚らしい欲望を解消した証拠を拭い取り、トイレに流した。よし、と気持ちを整えてドアを開ける。明らかに息が荒くなっていただろう。薄い板なので大きい音でなくとも聞こえてしまう。ソファの上に彼は寝転がっていて、僕は平静を装って彼の近くに行った。賢者モードに陥った僕には先程までの恥ずかしい己の行いに対して嫌悪の感情が芽生えており、彼に何を言われるかしれぬとビクビクしていた。抜いてたでしょ、とニヤリとするかと思ったが、彼は何の反応も示さなかった。いつもと何ら変わらぬ様子で、先程のことに関して触れなかったのである。トイレ長かったね、とか嫌味のひとつくらい言うかと思ったけれど、さすがにそこまでの意地悪ではないみたいだ。彼の優しさ、若しくは彼の間抜けさに少し救われた気がした。そりゃあ男だもの。誰だってする。実際彼だって、あの女と交わるのだ。三大欲求のひとつでもあるわけだから当然といえば当然のことなのだ。僕は至って普通のことをしているだけだ。思いを寄せる相手が、彼であるということを除けば……。


 そんなことを考えていた時だ。見たことのないネックレスが彼の首元にあることに気づいた。また高そうなブランド物である。僕の視線がそこにあることに気づいたのか、彼は


「彼女に誕生日プレゼントに貰ったやつ。XXXのだって、よく知らないけど」


と教えてくれた。XXXといえば大手の有名ブランドで、とても大学生の手が伸びる代物じゃないだろう。ユイの実家は相当太いのか、はたまた……と先週からずっと燻らせていたある疑念が再び頭に持ち上がってきた。その真偽を確かめる日は、それからすぐに訪れた。

 

 金曜日。明日が休みなので僕は講義終わりから22時までシフトを入れていた。彼女は9時頃、また連れとともに訪れた。このレストランは僕のシフトと被らなかっただけで、よく使っているのかもしれない。連れはやはり彼ではなかった。この前と同じ、あの中年の男。注文を聞きに行くのは後輩にお願いした。僕は他の客に気を配りながら(この前のようなヘマをしないために)彼女らの動向を見張っていた。ユイは彼と楽しそうに話をしていた。それが上辺だけの取り繕った姿だということはすぐ分かった。過度なリアクションで明らかに媚を売っているような仕草だった。そして食事を終えて帰り支度をしようというタイミングで、男は彼女に薄い封筒を渡した。彼女は嬉しそうにそれを受け取って中身を確認する。ちらりと見えたのはお札だった。僕はその時確信を持った。彼女はパパ活をしている。程なくして彼女らは立ち上がった。彼女は男の腕を掴んで凭れ掛かる。男は満更でもなさそうな浮かれた顔をして、レジの前で彼女に


「またよろしくね」


と言った。彼女も嘘くさい微笑みを浮かべて、うん、と勢いよく頷いた。


「お会計4500円になります」


そう言った途端、彼女の顔からさっと笑みが消えた。おそらく気づいたのだろう、自分の知っている人物が近くにいると。レジをする僕と目が合った彼女は男の陰に隠れ、知らないふりを突き通した。そんなことしなくてももうとっくにバレてしまっているんだから。愉快で愉快で仕方なかった。会計が終わると彼女は足早にレストランを出ていこうとする。


「またのお越しをお待ちしております」


僕はとびっきりの営業スマイルで背を向けた彼女に向かって告げた。


 バイトが終わって帰ると彼はスマホゲームに勤しんでいた。愚かな人。自分の彼女がとってもイケナイことをしているということも知らず。多分今つけてるアクセサリも汚れた金で買ったものだぞ。ほんと笑える。今にも総てを明かしてしまいたくなった。だが、まだ彼にこのことを明かすには早いと思った。もう少しだけ、彼らの関係をぶち壊すものを僕が握っているという優越感に浸っていたかったのだ。


 *

 翌日、構内の自習室で課題をしていた時彼女の方から接触してきた。


「今、空いてる?」


そう声を潜めて聞いてきた。


「こんなところじゃなんだから、カフェテラスに行こっか」


僕は陽気な気分で荷物をまとめ、構内にあるカフェに向かった。


 「で、何の用ですか」


テラス席でカフェオレを啜りながら高圧的な態度を取ってみる。


「言わせないでよ、分かってるくせに。昨日のレストランにいたでしょ、君」


彼女もまた同じ調子で、何故かキレ気味である。弱みを握られている側がそんな態度をとっていいのかしら、とおちょくってみたくなる。


「じゃあ君はどうしてほしいわけ?」


「それは……お願いだから。彼には言わないでほしいの」


「ふぅん。じゃあこのカフェオレは口止め料ってわけか。随分安いもんだ」


「何?私にたかろうとしてるわけ?」


と彼女は露骨に顔を顰めたので、


「まさか、そんなつもりはないよ。人聞きが悪いねぇ」


と返す。


「頃合いを見計らって彼に告げ口するさ」


「やめてよっ」


彼女はいつもより数段高い声を出して机を両手でバンッと叩く。周囲から視線が集まって彼女は居心地が悪そうに下を向いた。


「まぁまぁ、落ち着いたら」


と僕はやんわりと彼女を制す。彼女は頬を赤らめて涙目になっていた。目をこすりながら尚も釈明を続ける。この際だから言い分も聞いてやろうじゃないか。


「そもそも何がいけないって言うのよ。犯罪じゃない。ただ一緒にご飯に行ってお礼を貰ってるだけ。高いところでご馳走になってるわけじゃない。貞操も守ってるもの。話し相手になってるだけよ。あの人もそういう関係に満足してる。だからただの友達よ」


「お友達じゃなくって金蔓だろ。都合のいいこと言うなよ。仮に犯罪じゃないとしてもね、それを世間が許してくれるかねぇ。彼氏も許してくれるかねぇ。ていうかさ、そうやって泣いてる時点で、自分が悪いことしてるっていう自覚あるんじゃん」


カフェオレがいつも以上に甘い気がする。人の不幸は蜜の味。いやはや、美味ですなぁ。


「もういい」


そう言って彼女は立ち上がった。


「あんたのこと、彼からよく聞いてたの。とっても優しくて、人一倍真面目で、面倒見が良いって――。あんたの本性、全部彼にバラしてやるから」


怒りの先の殺意さえも感じるような鋭い眼光。くわばらくわばら。


「どうぞご自由に」


別に僕の印象がどう変わろうが構わない。どうせ僕は、君と彼のような関係になれっこないのだから。そして彼には、僕とこれまで通りの関係を続けるしか道はないのだから。どうだっていい。それから僕は彼女にこうも言ってやる。


「君には失望したよ」


彼女も最後に捨て台詞を吐いた。


「私も、あんたには失望した」


 *

 「彼女と別れた」


あまりにも唐突なことで僕はえっと声を漏らした。テラスでユイとやり合ってから一週間も経たないうちである。まさかこんなに早く事が進んでしまうとは。歯車が狂うきっかけを仕組んだのは自分であるにもかかわらず、僕は驚いてしまった。


「それは……うん、ご愁傷様です」


と彼の気持ちを慮って言ったものの、彼は大して凹んでいる様子はなかった。


「失恋パーティ、するか」


と僕が言うとやろうやろうと乗り気で返してきた。


 パーティと言ってもいつも通りの夕食を終えた後に酒とかつまみとかを大量に買って駄弁るというだけのものだ。他の友人は呼ばず、二人だけでひっそりと執り行った。ハイボールの缶が机の上に並び立つ。酒の肴はチョコレート、これが合うらしい。甘味と炭酸の相性がいいのだと彼がいつだったか饒舌になって語っていた。


 アルコールが回り始めると、体が火照るのを感じた。彼の顔もほんのり赤くなる。チョコレートを口に含むと体温でゆっくりと溶けて舌に甘みが広がった。滑らかな舌触りだ。それを冷たいハイボールで流す。冬が近づく季節。温い部屋の中で飲む酒は美味い。甘みが調和されまろやかな風味になる。そしてのどごしの良い炭酸。ふわふわした感じになるのは嫌いじゃなかった。何だか陽気な気分になって、このときばかりは普段言えないことも言えてしまうのだ。


「彼女とはどうして別れたの」


大方の予想はついているけれど聞いてみる。


「色々あったんだよ。色々」


「その色々って何さ」


「君には関係のないことだよ。もう全部終わってしまったんだから」


「堅いこと言うなよ。終わったからこそ言えることだってある」


「そうかな」


彼は頭をぐるりと回して、それからポツリと言った。


「大学辞めて、地方に帰るんだってさ。夏に親父さんが亡くなって、いよいよ学費のアテが失くなったらしい」


思いもよらぬ事実に言葉が詰まった。辛うじて


「大変、だったんだね」


と言葉を絞り出す。


「この夏からバイトも掛け持ちしてて結構一生懸命やってたんだよ。でも、やっぱりこんな生活耐えられないって」


限界だったみたい、そう呟いて彼は缶をぐいっと持ち上げて飲み干した。僕はどう反応していいか分からなかった。戸惑いがあった。後ろめたさがあった。自分の行いを正当化したい衝動に駆られた。


「で、でもこの前君に高そうなネックレスを」


「無理して買ったんだと思うよ。最初からプレゼントは要らないよって言ってたんだけど、どうしてもあげたかったんだって。折角貰ったものを要らないって言うのって彼女の努力を無駄にするようなものじゃないか。ありがたく受け取ったよ」


別れても尚、彼はそのネックレスをつけていて、そっとペンダントの部分をなぞった。酷く悲しげで、物憂げな表情だった。まるで僕が責められているような気がして僕はまた余計なことを言った。


「この前会ったときは彼女随分着飾っていたけど。自分に投資する余裕はあったみたいだね」


「知らない?今プチプラって言って安くて高級感を感じられるものもあるんだよ」


「ふぅん」


ちくりと言った言葉は見事に切り替えされて僕は言葉を失う。こうなったらもう、あのとっておきの隠し玉を出すしかない。


「君、知ってた?彼女がオジサンにタカってたってこと」


少しの沈黙があって彼は口を開いた。


「別れる時に教えてくれたよ。それまで知らなかった」


僕は追い打ちをかけるように言った。


「ねぇ、僕は常日頃から思っていたんだけどね。君はもう少し能動的に他人のことを知ろうとするべきだったと思うよ。人間関係においてあまり深掘りしないというのがポリシィなのかもしれないけれど。そうやって見ておくべき現実から目を逸らすっていうのは非常に愚かだと思うんだ。いつまでもそんな調子でいると間違いなく人は君から離れていくだろうね」


早口に捲し立てて反撃の余地をなくす。


「うん、愚かだ。君は愚かだ」


と僕は何度も唱えてやる。そう、君はずっとそのままでいたらいい。


「でも大丈夫さ。僕が隣にいてやるんだから」


そう言って下品で最低な笑い方をした。部屋の中は僕の笑いしか聞こえない。酷く空虚だ。僕だけが空回りしているような。酔っているにもかかわらず、僕は何故か冷静で、彼をジリジリと追い詰めることだけを考えていた。


「俺は、愚かじゃない」


彼はそう強がって二本目のハイボールに手を伸ばした。ぷしゅっと小気味よい音が聞こえる。僕は残り少なくなったチョコレートの欠片を口に含む。ゆっくりと甘味が沈んでゆく。


「俺は、そうは思わないから」


喉を潤した後、今度はやけに強く彼は言った。


「皆、何も知らずにのほほんと生きている奴を脳内お花畑野郎だと揶揄するけれど、果たして本当にそうだろうか。俺は彼らこそ、真の賢人だと思うのだよ。だってその方が、生きやすいじゃないか。何も知らないほうが総てが美しく見えるから。だから俺は深く考えることを止めたんだ。提示されたものより多くのことを受け取ろうと足掻くのを止めた。与えられたものだけを、自分から見えるものだけを世界にすることにしたんだ」


彼は僕を見つめていた。彼の目はひたすらに黒かった。その瞳に些かの温みも感じられなかった。


「何もかも見えないふりをしていたほうが楽だよ。気を遣う必要がないのだから。知らなくてもいいことを知ってしまうことの方が余程愚かな行為じゃないかい。わざわざ自分から、逃れられない錘を抱えに行くようなものなのだから」


それから彼は告げた。


「愚かなのは、お前の方だ」


僕は缶を握ったまま固まってしまった。何も言い返せなかった。


「お前が総てを台無しにしたんだ。だから俺もお前の総てを台無しにしてやる。お前の思惑通りにはなってやらない」


彼は最後酒をぐいっと一気に呷って、冷たい声で告げた。


「明日、此処を出ていくよ」


「……勝手にして」


もはや反撃にもならない一言が真っ暗な缶の底に落ちる。頭がじんわりと疼く。これは酒のせいなのだろうか。分からなかった。とうに溶けてしまったチョコレートの苦味だけが舌に絡まったままで、いくら炭酸を流し込んでも決して消えることはなかった。



【了】





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