第5話 私が今できること

大きなベッドとテレビだけあるホテルの中では、外の暑さも喧騒もなにも感じない。


今、ここにいるのは私と涼先輩だけだ。


私は涼先輩の名前を呼び、抱きしめたまま続けた。


「私に今できることをさせてください」


涼先輩は、居場所がない私に居場所を作ってくれて、野球そのものを好きにさせてくれた。


それに、10年前、初めて会ったときに涼先輩がくれた言葉は、ずっと胸の中に大切にしまってある。

涼先輩の存在を自分の中から消そうとしても、私を救ってくれたその言葉だけはどうしても消すことができなかった。


私はずっと涼先輩に救ってもらってきたのだ。だから、私も――――。


♢  ♢  ♢


10年前の7月23日、西東京大会決勝戦。

甲子園の切符をかけた試合。


ここで負けてしまったら、もう涼先輩と部活で会うことはできない。


自分の恋心にはとっくに蓋をしていたはずなのに、試合前にちらりとそんなことを考えてしまった。


私は強くかぶりを振る。


大丈夫。

だって、みんな物凄く練習に励んでいた。だから、大丈夫。


ベンチには南先輩が入り、私はスタンドからみんなを応援する。


これまで膠着状態だった試合が、8回になって急に動きだした。


8回表、相手チームに先制点が入ったのだ。

電光掲示板に“2”の数字が映し出される。


マウンドでピッチャーを努めている同級生の槇原くんは苦い表情を浮かべていた。


キャッチャーを務める涼先輩がマスクを外して槇原くんの元へと駆け寄っていく。


涼先輩と言葉を交わしたあとの槇原くんは顔に冷静さが戻っていた。


涼先輩はキャッチャーのポジションに戻ったあとも大きな声でチームを鼓舞している。


現状、ツーアウトだと言えどまだ2塁にランナーを背負っている状態だ。

ここで打たれてしまうとまた点が入り、点差が開く可能性がある。


槇原くん、お願い、抑えて!!


両手を組み、心の中で叫ぶ。


「ストライク!バッターアウト!」


槇原くんは見事にバッターを打ち取った。


8回裏、こちらの攻撃。

打線が繋がり1点を返した。


しかし、追いつくことはできないまま攻撃が終了する。

相手チームの最後の攻撃である9回表は、槇原くんの好投で無失点で切り抜けることができた。


そして、9回裏、こちらの最後の攻撃。

ここで点を入れられなければ、涼先輩たちの夏は終わる――――。

でも2対1。点差は1点しかない。十分追いつける点差だ。


私は、再び手を組み、祈った。


――――カキィィインという金属音が鳴り、わっと歓声が上がる。


やった、同点のランナーが出た!


9回裏ツーアウト。

ランナー2塁。


そこで、まわってきた来たのが、涼先輩だった。


涼先輩がヒットを打てば、追いつける。

そして、ホームランなら…………サヨナラだ!!


ちらり、と涼先輩がスタンドを見る。

その視線の先には、トランペットを構えた咲希先輩の姿があった。


ふたりの間だけで伝わる目だけのやり取りに、私は心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。


その感情に知らないふりをし、私は涼先輩の打席に集中した。


カキィィィンという金属音が鳴り、白球が空を舞う。

白球は外野の頭上まで飛んでいく。


お願い、入って………!!!!


心で叫んだ。


綺麗な孤を描いている打球は、スタンドに入りそうな気がして、球場のボルテージは急上昇する。


入る……!!


そう思った。


しかし、スタンドまでには一歩届かず、相手チーム選手のグローブがそれを捕らえた。


「試合終了!」


球場には、虚しいほど大きなのサイレンの音が鳴り響いた。


涼先輩たちの夏は、幕を閉じた――――――。



学校に戻り、そのままグラウンドに集合し、監督から労いとこれまでの努力を称える言葉が送られた。


部員たちが解散したあと、残っていた今日のマネージャー業を片付ける。


帰ろうとしていると、旧校舎の陰に、涼先輩の姿を見つけた。


涼先輩、まだユニフォームのままだ……。


最後、グラウンドに集まったとき、涼先輩も泣いていた。

日焼けした肌に、ぼろぼろと涙が伝う姿を見て、私は必死に泣くのを堪えていた。


そっと涼先輩に近づいていく。


なんて声をかければいいかなんて分からないけど、もう会えない、そう思うと、勝手に足が涼先輩の方向へと歩を進めていた。


近づいて、そこに、涼先輩とは別のもうひとつの人影があるのが分かった。


―――咲希先輩。


涼先輩ではないもうひとつの人影は、咲希先輩だった。


私は、ふたりにバレないように、旧校舎の陰に隠れた。

なんだか盗み見をしているようで罪悪側がちりちりと湧いてくる。


「悪いな、咲希。応援してくれてたのに」


「謝るなんて、涼らしくないんじゃない?」


「…………俺が、あのとき打ってれば、俺たちは勝ててたんだ」


「それは違う」


はっきりとした声で咲希先輩が言う。


「そんなこと言ったら、きっとみんな、涼のこと怒るわよ。あの試合は涼だけでやってたんじゃない。みんなでやっていた試合でしょ。

あなたひとりのせいで負けたなんて、そんなのあなたの思い上がりよ」


「…………思い上がりか」


ふっと涼先輩の声が柔らかくなる。


そして、ふたりの陰が重なった。


「な、咲希。少しだけ、こうしててもいいか」


「……涼の気の済むまで。いつまでも」


「お前のトランペットの音聞こえてたぞ」


「…………涼のために吹いてたんだもの」


涼先輩の泣き声が聞こえなくなるところまで、私は、足をもつらせながら走った。


♢  ♢  ♢


私は、その日のことを何度も何度も夢に見た。


涼先輩の最後の試合の日。

あのとき、涼先輩を励ますことができたのは、咲希先輩しかいない。


でも、今は、泣いている涼先輩を抱きしめていた咲希先輩はいない。


結局、私は、野球部のマネージャーとして、一人の人間として、涼先輩のなんの力にもなれなかった。

自分の存在意義のなさに、押しつぶされそうになった。


私は、涼先輩から居場所をつくってもらえたのに、私はなんにもできなかった。


力になりたい。


ずっとそう思っていた。


なにもできないまま、涼先輩は卒業してしまったけれど、今の私になら力になれるかもしれない。


涼先輩の寂しさを紛らわせることができるのならば。


少しでも力になれるのならば。


今の私に涼先輩を救うことができるのならば。


「お願いです。私を利用してください」

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