第4話 名付け親

飲み屋から少し歩けばそこはもうホテル街だ。


私と涼先輩は、飲み屋からホテルまでの道のりを無言で歩いた。

手を繋ぐでもなく、雑談をするでもなく、ただただ無言で。

微妙に空いた距離が気まずさのような気恥ずかしさのような、どちらとも呼べない感情を増幅させる。


なんて大胆発言をしてしまったのだ、私は。


ちらり、と涼先輩を横目で伺う。

涼先輩は、唇をぎゅっと結んでいて、その表情はどこか険しい気がした。


そんな涼先輩の顔を見て、私は、改めて覚悟を決めた。


自分から言い出したのだ。

後悔なんてない。


今の私だからこそできることがある。


私は、何度か夢に見た高校時代の涼先輩の最後の試合の日を思い出しながら、足を強く前に踏み出すのだった。



「あのさ、ピーチ……いや、白崎。やっぱりこういうのは駄目だ。ここまで来て言うセリフじゃないだろうけど」


ホテルの部屋に入って、涼先輩は、そう口にした。

“白崎”とわざわざ呼びなおされたことに、胸がズンと重たくなる。


「こういう、酒の勢いに任せて、みたいなこと、俺は良くないと思う」


「違います!私は酔ってなんか」


「俺がだ。俺は…………多分、酔ってる。だから、おまえの馬鹿みたいな提案にのってしまった」


その目を見て、やっぱり変わってないなと思う。

酔ってるなんて嘘。

真剣な涼先輩の目。

この真剣な目が好きだったな、とこんな時でさえ思い出してしまう。


「涼先輩」


彼の名前を呼び、私は涼先輩の身体を再び抱きしめた。


私には、涼先輩の隣で肩を並べて立てるような咲希先輩ほどの聡明さも美しさもない。

涼先輩に咲希先輩の隣で笑うときのような幸せでたまらないというような顔をさせることはできない。


だから、せめて――――――。


今だけの寂しさを紛らわすだけの麻酔薬みたいな存在だとしても、それでもいい。


私を利用してほしい。


♢  ♢  ♢


私は、野球部のマネージャーとして入部したてのころ、うまく野球部に馴染むことができなかった。


ソフト部経験者、野球部のマネージャー経験者…………と周りのマネージャーは、みんな野球と関わりのあった人たち。


「野球が好き」「選手のサポートをしたい」その想いでやっている人ばかりだった。


だから、「涼先輩が好き」という幼稚な理由でマネージャーとして入部した私は、勝手に居心地の悪さを感じていた。

(すでに失恋だってしていたし)


私は、そもそも野球のルールもスコアブックの付け方も、なんにも野球のことを知らない。


そんな私がここに居続けても、迷惑になるだけだ。

いてもいなくても変わらないならまだしも、迷惑をかけることだけはしたくない。


辞めてしまおう。

辞めにくくなってしまう前に。

入部してまだ1か月だ。辞めるなら今しかない。


そう思っていたのに、私は涼先輩のせいで辞められなくなってしまった。


「おい、白崎。今日熱いから氷多めで…………って、なんだよ、その後ろに隠した紙は」


「えっと、別に、なんでも」


「あ、南」


「え」


「隙あり」


先輩マネージャーの名前を出され、後ろを振り向いた瞬間に、背中側に隠していたものをあっけなく涼先輩に取られてしまった。


「退部届…………なに、辞めんの?」


「…………だって、私、野球のこと詳しくないし、南先輩にもみんなにも迷惑かけっぱなしで」


「誰かがおまえに迷惑だって言ったのか」


涼先輩の真剣な瞳に真っすぐに見つめられ、私はふるふると首を横に振る。


「なら辞めるな。別にだれもお前のことを迷惑だと思ってない」


「でも……」


「でもじゃない。はい、と言うわけで、これはそのまま没収」


そう言って、涼先輩は退部届を自分のユニフォームのポケットに入れた。


「これからも頼むぞ、ピーチ」


「ピーチ…………?」


「おまえの下の名前、桃乃だろ。だからピーチ」


不意打ちで、さらっと名前を呼ばれたことに、きゅんと胸が弾んでしまう。


「じゃ、ピーチ、今日はいつもより氷多めで頼むぞ。あと、今日は南が委員会の仕事でいないからピーチの仕事重大だからな」


「えっ!今日、南先輩いないんですか?」


「嬉しそうな顔すんなって」


「してません!むしろ不安です」


涼先輩は、にいっと笑って言った。


「いいこと教えてやろうか。南、ピーチのこと褒めてたぞ。おっちょこちょいなとこあるけど、素直で一生懸命だって。だから、お前が辞めるなんて聞いたら、アイツ悲しむぞ」


南先輩が褒めていてくれたのは、もちろん嬉しい。

でも、それよりも嬉しかったのは、涼先輩がこうやって私のことを励まそうとしてくれていることだった。


「あとな、俺もお前がいる方が頑張れるから、辞めんなよ」


きゅんっと胸が痛いほど締め付けられる。その言葉に特別な意味はないとしたとしても、きっと私は何度も涼先輩の今の言葉を思い出してしまう。


「お前のドジは、チームの硬さをなくしてくれるからな」


「…………それ、褒められてるんですか?」


「当たり前だ。では、今日もお願いします。マネージャー」


「は、はいっ」


涼先輩の“ピーチ”呼びは、あっという間に野球部全体に浸透した。

そのおかげで、みんなとの壁がなくなりやすくなったと感じたのは確かだ。


私は涼先輩、南先輩の指導のおかげで、マネージャー業を徐々にこなしていけるようになった。


涼先輩は、野球部に居場所がないように感じていた私に、居場所をつくってくれたのだ。


こんなことされたら、余計に好きになってしまう。


涼先輩の優しくされるたびに、鼓動が速くなるのを感じた。


けれど、涼先輩には彼女がいる。

涼先輩が私に優しくしてくれるのは、私が野球部のマネージャーだからというのは分かっていた。


だって、私に向ける目と、咲希先輩に向ける目はまるで違っていたから。


私は涼先輩に対する感情を全部野球に向けた。

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