第3話 提案
「ピーチはこの辺で働いてんの?」
「はい。アマノスポーツセンターっていうトレーニング施設の厨房で調理師として働いてます」
「調理師ねぇ。たしかに、ピーチは料理だけは上手かったような記憶があるわ」
「だけってひどくないですか」
「いや本当のことだろ。テーピング巻くのも、スコアブックつけるのもヘタクソ。おまけに方向音痴で試合会場には遅れて来る。あー、そうそう、相手チームのスタンドにお前の顔発見したときは、部員全員で笑ったな」
涼先輩は、本当にその出来事が面白かったようで、珍しく口を開けて笑っている。
「…………あのあと、南先輩からめちゃくちゃ怒られたんですよ」
「だろうな。南はお前みたいな後輩もって大変だっただろうな」
「それは否定しませんけど。先輩マネージャーとして、南先輩には大変お世話になりました」
駄目だ。
このまま行くと、私のおっちょこちょいエピソードが酒のネタにされてしまう。
かと言って、どうして咲希先輩と別れたかなんて聞くわけにもいかない。
そう思って、私は話の方向性を変えた。
「涼先輩はなんの仕事してるんですか?」
「会社員だよ。普通に」
「そうなんですね。ここにはよく来るんですか?」
「ううん。初めて。空いてるなと思ってふらっと入ったんだけど、まさか知り合いに遭遇するとはな」
「私もです。まさか、涼先輩とこんなところで再会するなんて思ってもみませんでした。ここ地元からは離れてますし」
再会してまた涼先輩のことを好きにならないように、あえて、高校・大学時代を過ごした東京ではなく、千葉の田舎である星ヶ原を就職先に選んだ。
それなのに、完全に涼先輩のことをふっきれたと思っていたときに、まさかまた会うなんて。
「そうだな。お互い近くで仕事してたっていうのに、今までよく会わずにいたな」
このまま会わない方がよかったのかもしれないという気持ちと、会えてうれしいという気持ちが混在している。
私は、そのことに気付かれないように、ビールを一気に飲み干した。
それから涼先輩と私は、お酒を飲みながら昔話に花を咲かせた。
思ったよりも涼先輩が、私のことを覚えてくれていることに胸が弾んでしまった(たとえ、それがおっちょこちょいエピソードだとしても)。
けれど、その覚えていることに特別な意味はないのだと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
昔話をしている涼先輩は確かに笑っていた。
でも咲希先輩の前で幸せそうに笑う涼先輩はもうそこにはいなかった。
代わりに、時折覗く笑顔の下の悲しげな表情に私の胸がますます締め付けられた。
「そろそろ帰るか。今帰れば終電には間に合うだろ」
「わ、もうそんな時間になります?」
腕時計を見ると、日付が変わっている。
結局、咲希先輩と別れたこと、何にも聞けなかったな。
「仕方ねぇから、今日は奢ってやる」
「え、いいんですか!」
「ずっと奢ってほしそうな目で見てたくせに」
「そんなことありませんよ!」
ふっと笑って、涼先輩は私の分も支払ってくれた。
「久々にピーチに会えてなんか楽しかった。ありがとな」
じゃあな、と涼先輩が私に背を向ける。
このまま会えない。
そう思うと、胸が痛いほど締め付けられた。
それじゃ、涼先輩が高校を卒業するときとなにも変わらない。
私はぎゅうっと汗ばむ拳を握った。
「涼先輩、待って!」
大声で涼先輩を呼び止める。
「なに。あと声がでかい。ほら、さっさと帰……」
「私を、利用しませんか?」
涼先輩の言葉を遮るように、私は言葉を発した。
涼先輩は一瞬目を大きくしたあと、はは、と小さく笑ってから言った。
「なに言ってんの?利用ってなんのだよ」
私は真っ直ぐに涼先輩を見つめる。
涼先輩が高校を卒業する時は何もしないことが正解だと思っていた。
後輩という立場だけ与えられた私ができることはなにもないと思っていた。
でも、今は違う。
私はもう高校生ではないし、涼先輩に恋人はいない。
ならば私にもできることがあるはずだ。
うまく言葉を紡げずに黙っていると、涼先輩がはあ、と息を吐いた。
私がふざけて言っているのではなく、真剣に言っているのだというのは伝わってくれたみたいだ。
「ピーチ、今からお前が言おうとしていることが、俺が思ってることだとしたら、そんな冗談やめろ。お節介もほどほどにしとけ」
涼先輩の声のトーンが下がる。
こういうときの涼先輩は少し怖い。
だけど、もう後には引けない。
今、会ったことに意味があったのだと、私は思うことにした。
「冗談でもお節介でもありません!!!!」
ありったけの想いを込めて、力いっぱい声を出す。
「今、涼先輩の抱いている寂しさを私で紛らわすために、私を利用してください」
「分かった。ピーチ。お前、酔ってんだろ」
「酔ってません。真剣です」
鋭さが宿った涼先輩の瞳を真正面から見つめる。
涼先輩はしばらく黙っていたけれど、ゆっくりと口を開いた。
「抱かせてくれるってこと?」
涼先輩の意地悪な笑みに、私は、こくん、と大きく頷く。
頷いた私をじいっと見つめたあと、涼先輩は、唇の方端を持ち上げて笑った。
「じゃあ、お願いしようかな」
「はいっ」
真剣だった。冗談でも、お節介でも、酔った勢いでもなく、覚悟して言ったつもりだった。
なのに。
「馬鹿。自分を安売りしない」
涼先輩から強めのチョップを頭に落とされてしまった。
「別に、安売りなんてしてません!涼先輩だから言ってるんです!」
「桃乃!!」
涼先輩の大きな声に身体が跳ねる。
こういうときだけ、ちゃんと名前を呼ぶのズルい。
「素直に頷く馬鹿がどこにいる。おっちょこちょいに加えて馬鹿だったのか、お前は。もっと自分を大切にしろ」
チョップされたところがじんじんと痛む。
そうだ、涼先輩はこういう人だった。
決して人を軽んじたりしない。例えそれがだれであっても。
涼先輩は毒舌だけど、人を悪く言うことは絶対にしなかった。
チョップした手は優しい手に変わり、私の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
ズルい。
やっぱり涼先輩はズルい。
忘れようとしても、私の中にずっと居続ける。
「……馬鹿です。馬鹿だから、こんなことしか思いつけないんです。私を抱いて涼先輩の寂しさが少しでも消えてくれるなら、私を抱いてください」
そう言って、私は涼先輩の身体を抱きしめた。
アルコールと煙草、そして胸の奥の方を熱くさせる匂いが鼻をかすめる。
「涼先輩には、笑っていてほしいんです。…………お願い、利用してください」
震えているのがバレないように、私は涼先輩を抱きしめる手に力を入れる。
涼先輩は、深い深い溜息をついた。
「俺も、馬鹿かもしれない」
そう呟いたあと、私の身体に手をまわした。
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