第2話 あの頃と今

「嘘。ちゃんと覚えてるよ。ピーチだろ。おっちょこちょいマネージャーの」


懐かしい呼び方に、バッと勢い良く顔を上げる。

そこには、あの頃と変わらない意地悪な顔で笑っている涼先輩がいた。


「お、おっちょこちょいは、余計です」


「おっちょこちょいはお前の代名詞だろ」


そう言って、涼先輩は面白そうに笑っている。


涼先輩は、私の白崎桃乃という名前の「桃」という部分だけを切り取って、「ピーチ」と呼んでいた。


「ピーチ、全然変わってないな。まだ高校生でいけるんじゃない?」


「それって褒めてるんでしょうか。けなしているんでしょうか」


今の涼先輩に、あの頃の涼先輩を重ねては、私の胸はいちいち弾んで、忙しい。

けれどやましい気持ちはない、と自分に言い聞かせて会話を続ける。


「お仕事帰りですか?」


「そうだけど。ピーチも?」


「はい。なんやかんやでこの時間になっちゃいました」


「そうか。大変だな」


あれ、てっきり私は、「おっちょこちょいだからね、お前は」なんてからかわれると思っていたのに。

予想を裏切る涼先輩の言葉に私は拍子抜けしてしまった。


「なに、その顔」


「あ、いや、涼先輩、まるくなったなぁって」


「は?」


「だって、昔だったら、毒舌の1つや2つ朝飯前だったじゃないですか」


私は、高校時代に言われた涼先輩の言葉を思い出す。


『スコアブック付けたの誰。間違えだらけなんだけど』

『洗剤入れずに洗濯するのは、お前くらいだよ』

『テーピングヘタクソすぎ』


すぐに思い出すくらい、涼先輩の言葉は私の中に染み込んでいたんだなと今さらになって気づいた。


「随分と言うようになったな、お前は。俺が毒舌だったんじゃなくて、お前がおっちょこちょいだったんだろうが」


「いや、まぁ…………。おっちょこちょいなのは否定はしませんけど、涼先輩の言い方はいつも毒強めだったので」


「お前、本当に言うようになったな」


「涼先輩のおかげです」


「そんな生意気な後輩に育てた覚えはねぇわ。お前たちの世代は、槙原といい、鶴野といい、生意気な奴ばっかりだな」


涼先輩はふっと笑って、飲みかけのビールを飲み干した。


「ピーチひとりなら、一緒に呑むか?」


「え、いいんですか」


「嫌なら別にいいぞ」


「いや!そんなことないです!」


むしろ嬉しい、なんて思ってしまった。


そんなことを思った自分に罪悪感がちらつく。

だって涼先輩には――――。


「でも……」


「なんだよ」


「誤解を生んでしまうようなことをするのは良くないのではないかと思いまして」


「あー、それは悪かった。そうだよな。男とこんな時間に吞んでたら彼氏も心配するか。悪いな、ピーチに彼氏いるの想像できなくて」


「どういう意味ですか」


「ん、いや、そのままの意味だけど」


「失礼ですよね。たしかにいませんけど。じゃなくて!違います!私が誤解されるから嫌なんじゃなくて、涼先輩がです!」


私はできるだけ心のうちを悟られないように、一度軽く深呼吸して、言った。


「涼先輩、結婚されたんですよね。友達が言ってました」


♢  ♢  ♢


『あんたの好きだった伊瀬見涼先輩、ついに咲希先輩と結婚するらしいよ。純愛だよね。高校からずっとでしょ?』


約1年前、友人が電話でそのことを知らせてくれた。

涼先輩の結婚は純粋におめでたいと思った。

だけど同時に、高校時代の記憶が蘇ってきて、少しだけ胸が痛んだ。


『もー、私の好きだったって何年も前の話してるのよ』


『ふふっ。ごめんごめん。お似合いだよね、あのふたり』


『そうだね』


高校時代の涼先輩と咲希先輩の仲睦まじいシーンが頭の中で鮮明に蘇る。


『そう言えば桃乃は、最近どうなの?新しい彼氏できた?』


『私は全然。恋愛する気分でもないし』


『気分って!そんなこと言ってたらあっという間に30歳になっちゃうよ!』


『もう、私はいいのよ!ゆっこは?どうなの最近彼氏と』


『聞いてくれんの?』


『そっちが本題のくせに』


そのあと、ゆっこの惚気話が続いた。

ゆっこには申し訳なかったが、涼先輩の結婚というワードが強すぎて、その時はあまり話が入ってこなかった。


ついにふたりは結婚するんだ。

結局、涼先輩にはなにも恩返しできないままだったな。

まぁ、私にできることなんて何もなかったのかもしれないけれど。


久しぶりに涼先輩の顔が脳裏に浮かぶ。

涼先輩が幸せでありますように、と切実に願った。



♢  ♢  ♢


「遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます」


『結婚』の部分が少し上ずってしまった気もしたが、涼先輩には気付かれていない、だろう。

涼先輩は顔色を変えることなく、ぐびりとビールの入ったグラスを傾けた。


「せっかく涼先輩からのお誘いですけど、奥さんがいらっしゃる方と一対一で呑むのは奥さん的にはきっと嫌なのではないかと思いまして」


結婚したばかりの旦那さんが女性とふたりきりで呑むなんて、私だったら絶対に嫌だ。


私はできるだけ明るくいったつもりだったのに、涼先輩は、ふっと自嘲的な笑みを浮かべて言った。


「別れた」


「……え?」


「別れてるよ。1年前に。咲希……彼女とは」


「え?」


「ちなみにそれからずっと恋人いない。だから別に誰とどこで吞んでもとやかく言う奴は俺にはいないから安心しろ」


でも、ゆっこが涼先輩ついに結婚するって言ってのが1年前だったはず。

それなのに1年前に別れたってどういうことなの?

涼先輩は今、幸せの絶頂のはずじゃないの?

嬉しそうに笑ってるものだと思っていたのに。

涼先輩の予想外の言葉に私の思考はこんがらがって、一時停止してしまった。



♢  ♢  ♢



高校時代、涼先輩には彼と同学年の早乙女さおとめ咲希という超がつくほど美人な恋人がいた。


私は、涼先輩を追いかけて野球部のマネージャーになってすぐにその事実を突き付けられた。

ふたりは学校中が公認するカップルで、校内でふたりのことを知らない人はいないらしい、ということもそのときに知った。


一目惚れした私の恋は、早々と幕を下ろすしかなくなったのだ。


野球部に入る前に、もっと早くふたりの関係を知っておきたかった、とも思ったけど、それでも好きになっていたと思う。


ふたりと同じ学校にいるとたまに涼先輩と咲希先輩がふたりでいる姿をみかけた。

そのときの咲希先輩を見る涼先輩の瞳は、いつも熱を帯びていた。

部活中や私の前では絶対に見せない優しい顔で笑っている涼先輩がいた。


そんな2人の様子を見る度に、私の心臓はこれ以上ないほど強く締め付けられた。


苦しかった。しんどかった。

あの熱を帯びた視線の先にいるのが、私でありたいと思った。


でも、私じゃ絶対に敵わない。


だって、咲希先輩といるときにだけ見せる涼先輩の顔が一番好きだと思ってしまったから。


私は、圧倒的存在感のふたりを前に、自分の心に強く強く蓋をした。

勝手に溢れ出てしまわないように。

自分の想いが暴走して迷惑かけるようなことだけは絶対にしたくなかった。


涼先輩が卒業するまで私はその蓋を開けずにいることができた。


学校中の多くの人々が憧れた2人は、大学に行ってからも相変わらずラブラブらしい、と野球部内でも頻繁に話題に上がっていた。


どうか、このままふたりが幸せでありますように。

そう願った。


♢  ♢  ♢


なのに。

どうして?


涼先輩と咲希先輩は近々結婚するらしいと聞いたのに。


きっと、今、涼先輩は、幸せの絶頂に違いない、そう思っていたのに――――。


今、なぜか私の目の前にいるのは、わずかに悲しげな表情をにじませる涼先輩ただ1人だ。


どうして。


叫びにも似た想いが、胸の奥の方から静かに押し寄せてくる。


「なんで、お前がそんな顔してんの」


「え、いや」


だって、幸せになっていてほしかったのだ。

好きな人には、そのまま幸せになっていてほしかった。

私が一番大好きだったのは、咲希先輩の隣で笑う涼先輩だった。


「だから、別にピーチとふたりきりで飲んだとしても、怒る奴はいないよ」


いつでも強気で挑発的だった瞳は、今は少しだけ哀感を帯びている。


私は、カウンター席に座る涼先輩の隣にどかっと腰を下ろした。


「涼先輩!もう飲みましょう!明日は土曜日ですし、思いっきり飲みましょう!」


「あぁ、そうするか。お前のおごりで」


「そこは、先輩が奢るもんじゃないんですか」


「やだね」


ククッと涼先輩は唇の端を持ち上げた。

涼先輩の顔が、あのときみたいな幸せそうな顔からは程遠く感じて、私の胸は締め付けられた。

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