第2話

新宿駅の西口、戦後直後の焼け野原に出来た露天市場にルーツを持つと言われる古き良き飲み屋街に保坂洋品店という店があった。

高級ブランドのスーツも無ければ腕利きのテーラーも居ない小さな紳士服店だが、庶民的な値段ながら質の良いスーツを多数揃えられている事から金のない新人ホストがスーツを新調するにはうってつけの店だった。

「お前、名前は何て言うんだっけ?」

龍二はスーツを選ぶ手を止めることなく訊ねた。

挨拶らしきものをしてくれた時に名前を名乗っていた気もしたが、殆どは聞き取れなかったので忘れた振りをして聞いてみたのだ。

勇気を振り絞るように胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、彼は恐る恐る答えた。

「バーカ。源氏名の方だよ。つーかホストが気軽に本名を名乗るな!」

新人ホストに対し龍二がこのような口を利くのはいつもの事で特別怒っているつもりも無かったが、的はずれな返答をして先輩に叱責されたと思い込んでいる彼は、取り乱しながら謝罪の言葉を口にした。

「ごごごごご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

「ちょっと落ち着けって。別にそんなに怒ってないから」

龍二は回りの客の視線を気にしながら彼を宥めた。

「あのな、俺はホストとしての心構えを教えようとしただけで・・・」

前述した通りこの時代のホストの大半は日の当たる表の社会では生きていけなくなった訳あり人間ばかりだったので、個人情報の取り扱いには極めて慎重にならざるを得なかった。

ホスト同士はどれだけ親しくなっても本名を教え合う事は無かったし、住所や電話番号、実年齢も出身地も秘密にしている者も多くいた。

自分の身元が割れる情報は気軽に口にしない。

それがこの世界での流儀なのだ。

「ペラペラ個人情報を喋るなって言いたかっただけなんだ。ちょっと言葉がきつかったなら謝る。すまん」

不本意ながら龍二は謝罪した。

せっかくソファの背面から引き摺り出してここまで連れてきたんだ。

パニックを起こされて試着室に立て籠りでもされたらいよいよ面倒を見きれない。

「あ、あ、あ、あの、あの・・・」

口先だけの龍二の謝罪が届いたのか、彼は少しだけ落ち着きを取り戻し何かを言いたそうにもじもじしていた。

「うん?どうかしたか?」

「・・・・・・」

長い沈黙が流れたが、龍二は言葉が絞り出されるのをじっと待った。

「・・・・・・リリリ、リチャ、リチャード」

「・・・・・・は?」

「だ、だから・・・ぼぼぼ、僕のげ、源氏名・・・リチャード、です」

何の冗談かと思った龍二だが、彼には冗談を言えるような社交性も精神的余裕も無いはずである。

「本当にリチャードって名前なのか?」

「・・・はい。オーナーさんからは、ぼ、僕にぴったりの名前だって・・・言われました」

「親父が名付け親なのか?」

「・・・いい、いえ。・・・じ、自分で付けました」

龍二の頭は混乱していた。

てっきりジョンだのベンだの犬に名付ける感覚で親父がリチャードという名前を与えたのかと思いきや、まさか本人のアイデアでしかも彼にぴったりの名前だとは・・・。

「リ、リチャード・・・グリーヴ」

「えっ?何?」

「・・・リチャード・グリーブ。かか、彼の名前を、貰いました」

「誰だよ、それ」

龍二がそう訊ねると、リチャードは不思議そうな顔をしながら答えた。

「せ、世界大会で・・・8回も優勝した、す、す、凄いダンサー。・・・知らないんですか?」

「競技ダンサーってやつか。日本の選手さえろくに知らないのに海外の選手なんて分かるわけねーだろ」

「・・・しゃ、社交ダンスを仕事にしているのに?」

「あのな、親父に何を吹き込まれてるのかは知らないけど、俺達1部のホストの大半は仕方がないから社交ダンスなんてダセぇもんを踊っているんだ。そうじゃなきゃ誰が好き好んでこんな仕事をするかよ!」

龍二は強い口調でそう断言すると、スーパーセールという札が付けられたラックに掛けられている上下セット1万5000円のスーツを手に取りリチャードに押し付けた。

「これとかいいんじゃねぇの?安物だけど作りはしっかりしてるし、地味でシンプルでお前によく似合う。試着してこいよ」

そう言うと龍二はリチャードの背中を押し、店内奥にある試着室まで連れていくと強引に中に押し込んだ。

「さすがに着替えくらいは一人でも出来るんだろ?俺は外で待っててやるから終わったら声を掛けろ」

まったく。これじゃ新人の世話というよりも、子守りじゃないか。

ふと我に返った龍二は、苦笑混じりに自嘲した。

「ああああ、あの、」

試着室のカーテンを閉めようとする龍二にリチャードは何かを言いかけた。

「あの、あの・・・あの、」

「なんだよ、はっきり言え!」

「あ、あの・・・ダンス・・・楽しくないんですか?」

「はあ?」

〝仕事だから仕方なくダンスを踊っているだけ〟

そんな龍二の言葉が、リチャードの中で引っ掛かったのだろうか。

「だったら何だよ?」

「・・・・・・」

「ダンスは楽しんで踊るべき、とでも言うつもりか?」

「・・・・・・」

リチャードは何も言わなかった。

何かを伝えたがっている事は見て取れたが、龍二はその事に気付かない振りをした。

彼の中では、何も言わない人間は何も思っていないのと同じだったからだ。

「つまんねぇ事言ってないでとっとと着替えろ」

龍二は怒りの感情を表すかのように試着室のカーテンを勢いよく閉めた。

そして、誰にも聞かれないよう小さな声で呟いた。

「くそっ、馬鹿にしやがって」






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