第36話 優勝に向かって

 10月に入り、パンサーズに優勝マジック2が点ったその日、パンサーズは、すでに辛酉園球場でゴブリンズを破り、マジックを1にしていた。そして選手たちは、スコアボードいっぱいに映し出される、広島で行われている二位のギガンテスとレッドアローズの試合中継を、球場に残っている観客と一緒にベンチで見ていた。

 二位のギガンテスが敗れれば、パンサーズの優勝が決まるのである。日向は、このように優勝がかかった他球場の試合を、球場でファンと一緒に見るというのは初めてだった。


 試合は、レッドアローズがリードし、9回表のギガンテスの攻撃を迎えていた。そして、ツーアウトになると、スタンドから一斉に「あと一人」コールが始まった。選手たちも全員がベンチ前に並んでスコアボードを見つめていた。

 日向は、球場全体から響き渡る「あと一人」コールに驚くとともに、パンサーズファンの熱狂ぶりに感動していた。

 大画面に映るギガンテスのバッターが打った瞬間、スタンドは少し静かになったが、次の瞬間、レフトがボールをつかんだ姿が映し出されると、割れんばかりの歓声と紙吹雪や色とりどりのテープ、さらには風船が宙を舞った。とうとう7年ぶりの優勝を果たしたのである。


 選手たちは一斉にマウンドに向かって駆け出し、マウンド上で人差し指を立てたり、ハイタッチをして、喜びを分かちあった。外野スタンドからは、一部の熱狂的なファンがグラウンドに飛び降り、選手めがけて殺到し、警備員に阻まれながら、選手と一緒になって歓喜の声を上げていた。そして、ゆっくりとマウンドやってきた葛城監督のもとに集まり、胴上げを始めた。


 監督の次に胴上げされたのは、日向だった。彼が以前プレーしていた時代は、優勝しても胴上げは行われていなかったので、胴上げを見るのも、されるのも初めてであった。彼は、初めてされる胴上げを、気持ちよく感じたが、宙に浮いた瞬間、このまま元の世界に戻ってしまうのではないかとも思った。


 グラウンドでの一連の優勝セレモニーが終わると、室内練習場で、ビールかけが行われた。これも日向にとって、初めての経験だった。

 最初は、もったいないなと思っていたが、榎田とカーネルからビールをかけられると、すぐにそのことを忘れて、ビールをかけ返し、ビールかけの輪に加わった。

 これまでに何度も優勝を経験したが、こんなにうれしくて、楽しい優勝は初めてであった。


 ビールかけが終わり、マンションに戻る途中、ゴンドウの前までくると、店の前は、優勝を祝って大騒ぎになっていた。店の外までお客があふれ、路上にビールケースを置いて、イスやテーブルにして、祝杯を挙げていたのである。外にいた客が、日向の姿を見つけると、みんな駆け寄り、胴上げが始まった。もみくちゃにされながら店に入っていくと、権藤夫妻が満面の笑みで迎えてくれた。傍らには、飛鳥と丸山の姿もあった。


 権藤は、日向のもとに駆け寄ると、彼の両手をがっちりと握りしめ、涙を流して喜んでいた。

「日向はん、おめでとう。そしてありがとう。優勝できたんは、あんさんのおかげや。きっと親父もあの世でよろこんどるやろ。ほんま、ありがとう。わしゃ、うれしゅうて、うれしゅうて、涙が・・・。」

 それを見ていた権藤の妻、良枝は、彼の頭をどついてたしなめた。

「あんたが、そない泣いてどうするんや。まだ次の試合があるやろ。泣くんやったら日本一になってからにしとき。」


 そばにいた丸山も、

「そうだよ。まだこれからだよ。ポストシーズンカードを勝ち抜いて、ニッポンシリーズに出て日本一になるまで、涙はとっておこうよ。」

 と言って、権藤の肩を抱くと、権藤は、日向の手を離し、

「そやな。泣くんは早いな。よっしゃ。ほな気を取り直して、乾杯や。」

と言って、傍らにあったジョッキを掲げ、店の内外にいる客に向けて雄たけびを上げた。

「まずは、リーグ優勝、おめでとう。かんぱーい。」

 店内から外にいる客まで、一斉に乾杯の声を上げ、あちこちでジョッキやグラスを交わす音が鳴り響いた。日向も、少し頭を下げながらジョッキを掲げた。

 乾杯が終わると、再び店内は、あちこちで、今夜の試合のことで盛り上がり始めた。テレビには、誰が準備したのか、優勝が決まった瞬間や、日向のデビュー戦での一打、これまで打ったホームランやタイムリーヒットなどのシーンが映しだされていた。 


 丸山は、あらためて、日向を激励した。

「おめでとう。これで俺の肩の荷も下りた。しかし、あんたは気を緩めないで、ニッポンシリーズに向けて頑張ってくれよ。ここにいる人たちは、みんな、おまえの一打に期待しているんだからな。」

さらに、隣にいた大伴も続いた。

「そうですよ、これからですよ。これからもがんばりましょう。」


すると二人の後ろにいた飛鳥が、赤い顔をしながら、前に出てきた。

「おめでとうございます。あのう、話が・・」

彼女が話を続けようとした瞬間、店の外で歓声が聞こえ、パンサーズのエース榎田と若手選手数人が、

「おった、おった。やっぱ、ここにおったんか。ダメっすよ。二次会までは一緒だって言ったやないっすか。みんな待っとるんすから行きましょう。」

と言って、店に入ってきた。


 パンサーズファンでいっぱいの店内は、突然のエースの登場に大盛り上がりとなり、各選手のまわりに人だかりができた。日向は、飛鳥の方をちらっと見た後、榎田に。

「わかったよ。すぐに行くから、ちょっと待っててくれ。」

と告げて、飛鳥の所に近寄って行った。それを見た榎田は、

「わかりました。彼女はんの許しを得てきてください。待っとります。」

と、笑顔で言うと、ファンからのサインの申し出に応じた。


 日向は、飛鳥が何か話したそうだったので、厨房の奥にある休憩室につれて行った。飛鳥は、酔っているようで、少し足元がふらついていた。休憩室に入ると、急に飛鳥が日向に抱き着いてきた。こんなことは初めてだったので、体を離そうとしたが、彼女の力は思いのほか強く、離すことができなかった。


「私、やっぱりあなたのことが好きみたい。初めて会った頃は、お兄さんのように思っていたけど、だんだんあなたのことが、好きになっていったの。最近になって気がついたのよ。」

 明らかに酔っているようだが、真剣な眼差しで見つめてくる飛鳥に、どう言葉を返していいかわからなくなっていると、彼女は、言葉をつづけ、

「大伴さんから聞いたわ。昔、好きだった人がいたんでしょ。でも、私もその人と同じくらいあなたを愛しているの。だから、私をお嫁さんにして。」

 と言って、日向の両頬に手をあて、口づけをした。その瞬間日向は、雷に打たれたような衝撃を感じた。それは飛鳥も同じだった。その衝撃に驚いた彼女は、すぐに口を離すと、自分がとんでもないことをしてしまったと思い、日向から離れると、外に飛び出していった。


 残された日向は、呆然と立ち尽くしながら、

「今の言葉、どこかで聞いた気がする。それとあの感触。」

と、思っていた。


 飛鳥が一人で出てきたので、不思議そうに思いつつ大伴が入っていくと、日向が一人、椅子に腰かけていた。

「どうしたんですか。飛鳥さん出て行っちゃいましたけど。榎田さんたち待っていますよ。」

「すまんが、ちょっと疲れが出たみたいだ。榎田達には、今度埋め合わせするから、俺を置いて行ってくれと言っといてくれ。」

確かに調子が悪そうなので、大伴が榎田に伝えると、店の方から、

「わかりました。ほな行きますわ。この穴埋めは、ポストシーズンカードでのホームランでお願いしまっせ。」

と、大声で話す榎田の声が聞こえ、やがてファンに見送られて店を出ていく音が聞こえた。


 大伴から話を聞いた丸山も日向のもとにやって来た。そして日向は、権藤や客たちに心配をかけないよう、大伴につれられて裏口から店を出てマンションに帰っていった。店では、引き続き祝勝会が夜明け近くまで続いた。

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