閑話 信念を俟ちて、暮れなずむ晦に
――
檜の廊下に爪先が落ち、きしりと
険しい面持ちを隠しきれないベネデッタ・カザリーニが
――晶たちが丁度、
ベネデッタの来訪は予期していたのだろう。
面会の先触れは直ぐさまに、
滑らかに磨かれた檜の表面を吹き抜ける、枯れた寒さ。
骨まで染む冬の潮風に、ベネデッタは悴む指に触れた。
玉砂利を設えられた庭では、庭師たちの樹に巻かれた藁を緩める光景が。
横目で眺める少女の姿に、
「珍しいですか?」
「ええ。樹の寝巻とは、
「樹の寝巻とは、云い得て妙。樹喰いの虫に寝床を与え、
――この山水図は夫の自慢でして、ゆるりと堪能していただければ」
「素晴らしいと思います。金子もかなり掛かるのでは?」
農産と違い、鑑賞が主目的である庭の造園は金子の飛ぶ趣味の一つ。
造園を趣味として破産する御大尽は、何処の国でも聞いた話題であった。
――だがそれ故に、隠然と相手の懐を測る物差しにもなる。
慎重にベネデッタは、庭に掛かる規模から相手の資財を推し測った。
「その辺りは夫に任せています。先々代からの自慢らしく、夫は受け継いだだけと
「これほどの規模、数年では利かないでしょう。
世代を超えた絆もあってこそ、御家の至宝と認めるに相応しいかと」
その燦然たる歴史の証明としての庭を前に、ベネデッタはただそう返した。
寒風の吹き曝しも、障子一つに遮られれば室内は意外と暖かい。
暫くして通された中広間で、
晶が
今後の予定が変えられる必要を強いられるに、ベネデッタからの不満は当然のものであった。
「来るとは思っていたが、帰った当日くらいはゆっくりと休ませて貰いたいものだなぁ。カザリーニ殿」
「どう云った
……それとも、
「それこそ真逆よ。
ベネデッタを前に
一礼をして退室する
「では、此度の仕儀。晶さまが
「仕儀と云われようがなぁ。儂らが取り決めたのは、夜劔殿を急ぎ
より良い手段が
「……つまり貴国は、高喫水船を所有していると。これは明確な盟約違反になりますよ」
もし高喫水船を造船する技術があるならば、
それは問題だ。何しろ、憐れむ程度であった東巴の台頭は、間違いなく
「高喫水船の所有自体は認めるが、あれは
儂らは疎か、
「由来は
「さてな。あれは不可触であると、上意より厳命されれば動けん。
海軍が設立されれば潮目も変わると、儂も期待しておる」
思わず立ち上がるベネデッタを前に、
「……質問を変えましょう。晶さまが現在、何処に居られるか、
「そろそろ、
予定通りなら港から乗り継いで、夜劔殿は
はあ。
辞去の礼もそこそこに、少女の踵が返る。
「可能な限り早急に、
――
「無論よ。今回の判断は夜劔殿の独断に近くてなぁ。実の処、儂らにも思うものはある。
カザリーニ殿が希望するならば、ここを離れた後にでも許可を出そう」
「結構。では今日中に、我らは出立します」
けんもほろろに去るベネデッタを見送り、
やがて、ベネデッタを門まで送った
冬晴れの貴重な一時、殊更に用が無いならば畳に陽を当てておきたいのだろう。
殊更に止める理由も無く、
「門を出られたかな」
「はい。……随分と煽られたのですね? 帰り際の頬が、不満も露わのご様子で」
「それで済めば御の字よ。
何に気を遣っているのか、
苦笑する
一枚岩ではないと知っていたが、西巴大陸を取り巻く状況は想像以上に複雑であった。
味方と握る手の裏で刃物を覗かせ合うなら可愛い部類。酷いものとなれば、娘の初夜に手ずから毒殺させるような父親も居たりする。
以降、完全に決裂しているのかと思いきや、付かず離れずの付き合いだ。
「切っ掛けは恐らく、
そして、宗主国として制止の立場に在るアリアドネ聖教に、迎合の向きが見られる辺りも怪しい。
まるで何かが、東西巴大陸を捲き込もうとしているかのような。
「薄皮の向こうから魑魅魍魎に歓迎されようが、納得して驚きもできんな。……これは」
「――私とすれば、諒太たちと咲さんの安否が心配ですよ。
全く、馬の骨に咲さんをくれてやるなど。
「云ってやるな。それに今は、
多少は損しても、
それ故に、知らされる事の無い妻の不満が溜まりがちになるのは、
相も変わらない寒さに身震いし、
ゆっくり休みたいのは本音であるが、留守にしていた間の決済は溜まる一方。執務の卓上で犇いている書類へ思考を向け、
♢
埠頭脇に係留された連絡船から、髭面の偉丈夫が立ちあがる。
仕方あるまい。かれこれ数ヶ月は、何かと理由をつけて
『お。漸くの出航ですかい』
『ええ。ですが予定を変更、
バティスタ船長は予定通り、ランカーの港へと向かってください』
反論を封じる勢いでベネデッタが告げ、連絡船へと乗り込んだ。続けて、部下であるサルヴァトーレ・トルリアーニとアレッサンドロ・トロヴァートが、窮屈そうに身体を圧し込む。
大柄の偉丈夫が乗り込んだことで、狭い連絡船が横に危うく揺れた。
『今までのんびりさせて貰ってなんですが、随分と急ですな』
『口惜しくですが、
晶さまは現在、
『成る程。速度を競う一点に出し抜かれましたか、嘘を吐けないとは存外に不便なもののようで』
事情を表面だけ理解したバティスタが、手ずからに連絡船の火を入れる。
やがて、暖気の満ちた連絡船が、ゆるりと黒煙の尾を曳き始めた。
『バティスタ船長に訊きますが、
『
……可能ではありますな』
『結構。――可及的に、
最新鋭の戦艦の船長であるパオロ・バティスタは、大雑把な外見と違い政治に通じている。
特に無線を駆使した遠距離通信も所有しているとなれば、間違いなくベネデッタが命じられる中で最長の手の長さを誇っているだろう。
今は、その影響力が有り難い。
『そこまでの厄介事か? 恩寵の御子が貴重なのは判ったが、高々が1人の子供だぞ』
『トルリアーニ卿の意見は軽んじ過ぎだが、私も意見は同じくしている。
『――そうね』
腹心2人からの苦言に、ベネデッタも肯いだけは返した。
だがそれは、表面的な価値しか知らないが故の意見。
道端の石に価値は無くとも、その裏に宝石を見出せたならば意見は
これは、知っている側と知らないものの鬩ぎ合いでもあるからだ。
だが、その真実は過剰な程に人欲を掻き立てる。
『……
『何故知っておられるか、訊ねない方が良いのでしょうな』
『死んだヴィンチェンツォ・アンブロージオが持ち出した神柱を封じるという呪法。その
『――神器を用いた実験の再現性は確保されているそうで、枢機院は随分と乗り気だとか』
『では、晶さまが
青道から
バティスタから返る台詞に気も無く応じ、ベネデッタは近づく『カタリナ号』を眺める。
揺れる波間の向こう。帆船から覗く蒸気機関の煙筒が、まるで行き詰る時代の象徴として少女の視界に映った。
♢
――
山の峰を支配する冬の厳しさも、神域には届かない。
特に火行を司る
ゆるりと、灯色に染まり始める
指から碁石が零れ、退屈に飽いた呟きが宙に散る。
「……暇、よな」
「
「もう小ヨセよ、
寝そべる童女から返る応えに、盤を挟んでいた
ざらざらと碁笥へと注がれる白と黒の音に、
「今頃、晶は何処に居るのかの?」
「予定に遅延がなければ、そろそろ
後は、鉄道に乗り込めば、ベネデッタ・カザリーニも追いつけないかと」
「――詰めが甘かったわね、
暮れなずむ
何時の間にか、背に立つ紫苑が反古の裏を見せる。
「
ベネデッタ・カザリーニが、今日の夕刻に出港する許可を求めて来たとか」
「少々早いが、想定通りであろう。
蒸気機関が生む速度と云えど、今から追いつくのは
「……いいえ。お母様の仰りでは、東巴大陸鉄道の経由まで看破されたのでは?
そうなると最悪、
「やってくれるのう」
「晶さんは気付くでしょうか」
「――それ次第ではあるが、心配はあるまい」
折角、稼いだ時間も、状況次第では不意になる可能性もあるのだ。
気遣う
彼女からすれば、世の総ては刹那に過ぎて終わる出来事。
どれだけ年月が去ろうとも、人が変わろうとも、本質的にその瞳が興味を示す事は無い。
只唯一の例外として、
その現実。晶は自分が求められている本当の意味を、これから知るのだ。
旅の終わりに晶が見せる判断の全てを愛そうと、火行を知ろ示す童女は
♢
今年最後の更新です。
前提となる状況を今年中に出そうと、展開を急ぎました。
年の暮れに彼女たちが何を狙っているのか、是非とも想像してください。
本年はお世話になりました。
巡る来年もまた、よろしくお願いいたします。
安田のら
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