終 暮れ沈む静寂に、明け解けは舞いて2
昏く谷の底から誘うかの如く、瘴気の赫が薄く散る。
からり。斜面を転がり消える石塊を追うように、晶は躊躇わず足を踏み出した。
薄暗く口を開いた谷底へ、土を蹴立てる鈍い音が響く。
「征くのかや?」
「ええ。今なら未だ、間に合うかもしれませんし」
傍らから気遣う童女の囁きへと、努めて軽く少年が応じた。
揺らがぬその響きを引き留めることなく、
広がる闇へと幼い爪先が落ち、黒の神気が刹那に散った。
一歩、そして一歩。その都度に神気が散り、
次第に遠ざかる周天の輝きを仰ぎ、童女が眼差しを眇める。
「……これで、良かったのかの? 晶」
「何がですか」
ぽつりと虚空に散る
正解など元より無い。神柱にすら判らない応えは宙に浮いた侭、それでも納得できないと、
「雨月、天山の事じゃ。
「本音は多少なりとも。
――ですけど、雨月
「判らぬ。……失態を犯し
短く唇を
ざりざりと谷底へ続く斜面を滑る音だけが、再び鈍く薄赫い闇に響く。
「
……この一件を説明するなら、最低でも雨月晶の存在を公表しなければならなくなりますから」
「晶を誤魔化すのは難しいか?」
「雨月家が俺の存在を隠し通せたのは、存在しない
後の統治に夜劔晶が立てば、両者が同一人物だと辿るのは難しくありません」
何より雨月家は晶を隠す事に必死となる余り、それ以外を疎かにしていた。
雨月房江や日々の言動。気付けば、雨月
「美談で塗り潰せば良かろう。華族共は、良くその手段を行使すると聞くが」
「難しいでしょう。――美談としようにも、前提として俺が追放された理由を公表しなければなりませんから」
一通りは考えた対処案を
黒く神気の輝きが、周囲の赫を祓い散らす。
美談とするには雨月を悪と貶める必要がある。それこそが、晶の一件に残された最後の問題であった。
――だが現時点での雨月が冒した明確な失態は、晶の追放のみ。
その失態すら醜聞の範疇を越えず、平民に至っては茶飯事の話題でしかない。
この一件に
三宮四院八家を除く余人の視界には、出来損ないの晶が逆恨みで雨月を簒奪したように見えてしまうだろう。
「雨月
――怪異を生んだ失態から雨月が退くとすれば、極力、俺への注目を減らせますので」
「その口振りからして、処分は決めておったかや」
「はい」
漸く見えた谷底へ爪先を落とし、入り乱れる感情の侭に晶は大きく
――流石に怪異へと
思考の凝り固まった天山にとって、排斥したはずの晶を視界へ納めるのは受け入れ難い現実である。
直視もできず状況を取り繕おうと、天山がより深みへ嵌るのは自然の結末でもあった。
「どの途にしても結果は出ました。後、この瘴気溜まりを祓えば、
「そうか。晶がそう決めたのであるならば、
――じゃが、
短く決意を返した晶の小指へと、
遠慮がちな。それでも離すまいと掴む稚い感触に小指を預け、晶は天を振り仰いだ。
星辰の輝きを満たした理外の剣を封じられてしまえば、浄化で劣る水行に瘴気溜まりを浄化し尽くす威力はない。
「大丈夫。
周天と繋がっている限り、あらゆる距離は俺たちの味方です」
「ふん。それが判っているならば、善い。どうせ、あの悋気持ちを当てにしていようが、此度に限っては目を瞑る。
――代わりに冬の間はずっと、
晶が何をしようとしているのか気付いたのだろう。判り易く童女の頬が膨れ、晶の腕にしがみ付く。
それでも止める気配はない。
星辰の輝きから現世を守護する亀甲を象として鍛造された神器こそ、
その特徴は与えられた銘の通り、九重からなる世界最多の権能を有する神器。
その第一の権能。那由多に渡る距離の天蓋が、晶の頭上で遠く星辰へと繋がった。
神威の瞬くその向こう側より落ちる、日輪の輝きが
――それは断罪折伏の権能。日輪そのものを象とした、浄滅の剣身
「
音すら蒸発する熱量が、完全に制御されて天を衝く。
莫大な熱圏の楔が轟然と地の深くを穿ち、瘴気を龍脈の残骸ごと灼き尽くした。
♢
――
ぱち。冬の颪に厳しくなった伽藍で、火鉢の一つから炭の爆ぜ割れる音が響く。
くふ。遠く晶の心奧と繋がった実感から、
朱金の大神柱の見せた唐突な微笑みに、眼前の来訪客が首を傾げる。
「――どうかなさいましたか?」
「何。晶が大きく、
「ああ、晶さまですか。
ふわりと脇息に
傍らに立つ
「どうぞ。――粗茶ですが」
「ありがとうございます。
央都では共闘した仲、多少は打ち解けて頂けているものと思っていたのですが」
「このような奇襲を受けても、御国では歓迎されると?
茶の一杯だけ、私たちの寛容を感謝された方が御身の為かと。――ベネデッタ様」
多くの雑事を終えて穏やかなはずの一時。何時の間にか
緊張を隠しきれない
――桜色の唇は満足そうに、艶やかな息を吐いた。
「結構なお点前で」
「何処かで作法を習いましたか?」
「いいえ、特には。ですが央都の華族との交流で、大方は倣い覚えましたので」
「――左様ですか」
初心者にとっては苦いだけのそれをしかし、表情一つ揺らさずベネデッタは碗を戻した。
央都華族との繋がりを言外に匂わせ、ベネデッタの微笑みと
――口火を切ったのは、ベネデッタの方であった。
「神域への失礼は重々承知の上です。ただ今後を考えると、晶さんとのご相談も侭ならない様子でしたので」
「春を越えれば
――それよりも、
「さて? ……それは、
神域は字義通り、神柱の玉体そのものに斉しい。
神威に満たされた領域はそもそも、赦されたもの以外の侵入を拒むのだ。
前提を覆した現実は即ち、
異国の神子から向けられた水を、
「封印したのであろう? ――其方の心奧に宿るアリアドネの加護を。
妾も似た覚えがある故な、手法は些か心得がある」
「その通りです。晶さんにも見せましたが、
「……成る程」
「まあ、そんなに身構えないでくださいな。神域への侵入を可能とする詳細。
東の同盟たる
「……是非とも」
足元は見られるだろうが、神域への侵入手段を知るのは
油断ならない相手からの言外に求められた取引に、
「――神器依存、対象は個人が限界であろう? とは云え、神柱封じの神域解放と引き換えにすれば、妥当な値段と見えると踏んだか」
暫し窺い合う視線の交差は、
熔けるほどの蒼い双眸が、感情を読ませないベネデッタの微笑みを迎え撃つ。
「売りつけた理由は、代替する手段が完成したからであろうな。大方、龍脈経由の神格封印が完成したか。
――妾の見立てに違えは無いか、アリアドネの神子」
「その通りです。
「神器依存となれば、妾たちに応用できる幅も少ないと判断しただけであろうが。……要求は何ぞ?
妥当か否かは妾たちが決めるが、のう?」
予定よりも深く本音を切り崩され、ベネデッタの眼差しに真剣な光が宿った。
神器の権能を実演込みで安売りしたのだ。少なくとも初期目標だけは回収しないと、無手のまま追い返されるだけとなってしまう。
「晶さんが
「
「ええ。存じていますので代案を。
「あるでしょう。政治の背景を持たないまま、内乱状態にある
一気に本題を持ち出したベネデッタへ、それでも
神域へ侵入する知識は魅力であるが、
――間違いなく何か
「
論国の大攻勢は冬を越した後。
「……成る程。やってくれたな、アリアドネの神子」
論国の攻勢が始まってしまえば、無政府状態に陥った
制御を喪った遠地で、晶たちはシータとの契約を遂げなくてはいけないのだ。
「戦況が混乱する前に主導権を握りたいが、論国との直接的な敵対行動は避けたい。
……本音はその辺りですか」
「
上手く事が運べば混乱した
断る理由が無くなり、渋りながらも
「……善いであろ、妾も晶を説得してみよう。
冬を越えれば、可能な限り早く
「素晴らしい取引でした。
ではこれにて失礼を。私たちも
姿を消した異国の神子を見送り、溜息交じりに
「宜しかったのですか?
断言を景気よく交わしていますが、どうにも胡散臭い相手です」
「構わぬ。向こうの要求は今一つ読めぬが、妾も断言を避けた故な
……
呟く
闊歩する人の営みは外海の不穏も遠く、文明開化を迎えた新時代を謳歌する。
――統紀3999年。師走の忙しさが、緩やかに人の歩みを急がせる日の一幕であった。
♢
永くお付き合いいただき、ありがとうございました。
帰月懐呼篇を、これにて了とさせていただきます。
最後の方は遅れに遅れた事、申し訳ございませんでした。
一ヶ月、プロット調整の時間を頂いた後、閑話を挟んで再開いたします。
読んでいただける方々のお陰で、僕も書き続ける意欲が維持できています。
今後ともよろしくお願いいたします。
宣伝です。
泡沫に神は微睡むの4巻が9月10日に発売予定です。
今回も、SSを書かせていただきました。
テーマは夏祭り。
メロンブックス様で、晶と咲。
ゲーマーズ様で、晶と朱華となっています。
拙作WEB版を楽しんで頂けたら、是非とも手に取っていただければと願います。
三章前半をベースに、ほぼ新規で書き下ろさせていただきました。
どうかよろしくお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます