終 暮れ沈む静寂に、明け解けは舞いて2

 九蓋瀑布くがいばくふが周天で見守る中、晶と玄麗げんれいは瘴気溜まりへと続く谷間に立っていた。


 昏く谷の底から誘うかの如く、瘴気の赫が薄く散る。

 からり。斜面を転がり消える石塊を追うように、晶は躊躇わず足を踏み出した。


 薄暗く口を開いた谷底へ、土を蹴立てる鈍い音が響く。


「征くのかや?」

「ええ。今なら未だ、間に合うかもしれませんし」


 傍らから気遣う童女の囁きへと、努めて軽く少年が応じた。

 揺らがぬその響きを引き留めることなく、玄麗げんれいも闇へと踏み出す。


 広がる闇へと幼い爪先が落ち、黒の神気が刹那に散った。

 一歩、そして一歩。その都度に神気が散り、玄麗げんれいは虚空を足場に晶を追った。


 次第に遠ざかる周天の輝きを仰ぎ、童女が眼差しを眇める。


「……これで、良かったのかの? 晶」

「何がですか」


 ぽつりと虚空に散る玄麗げんれいの問い。その意味を十全に理解して、それでも晶は惚けて足を止めた。


 正解など元より無い。神柱にすら判らない応えは宙に浮いた侭、それでも納得できないと、玄麗げんれいは頬を膨らませる。


「雨月、天山の事じゃ。あれはてっきり、晶が直々にあの痴れものへ誅罰を与えるものと思っておった」

「本音は多少なりとも。

 ――ですけど、雨月颯馬そうまが口にした通り、利点もありますから」

「判らぬ。……失態を犯しケガレと成り果てた家門に、民草が持ち上げる理由は無かろう」


 短く唇をつぐませた玄麗げんれいに苦笑だけ、晶は谷底へと勢いをつけた。

 ざりざりと谷底へ続く斜面を滑る音だけが、再び鈍く薄赫い闇に響く。


ケガレには成り果てましたが、その事実を公表できないから問題になるのです。

 ……この一件を説明するなら、最低でも雨月晶の存在を公表しなければならなくなりますから」

「晶を誤魔化すのは難しいか?」

「雨月家が俺の存在を隠し通せたのは、存在しないもの・・だと徹底したからです。

 後の統治に夜劔晶が立てば、両者が同一人物だと辿るのは難しくありません」


 何より雨月家は晶を隠す事に必死となる余り、それ以外を疎かにしていた。

 雨月房江や日々の言動。気付けば、雨月颯馬そうまに兄が存在している事実など、平民たちにも伝わっているだろう。


「美談で塗り潰せば良かろう。華族共は、良くその手段を行使すると聞くが」

「難しいでしょう。――美談としようにも、前提として俺が追放された理由を公表しなければなりませんから」


 一通りは考えた対処案を玄麗げんれいへ伝え、晶は丹田に凝る神気を吐いた。

 黒く神気の輝きが、周囲の赫を祓い散らす。


 美談とするには雨月を悪と貶める必要がある。それこそが、晶の一件に残された最後の問題であった。


 ――だが現時点での雨月が冒した明確な失態は、晶の追放のみ。

 その失態すら醜聞の範疇を越えず、平民に至っては茶飯事の話題でしかない。


 この一件にいて被害を受けたものが晶だけであり、他者から見た雨月天山の評判がそう悪いものではないという事実も、現状に拍車をかけていた。


 神無かんな御坐みくらと云う絶対的な情報がなければ、晶の追放はただのお家騒動止まりでしかないと云う現実。

 三宮四院八家を除く余人の視界には、出来損ないの晶が逆恨みで雨月を簒奪したように見えてしまうだろう。


 義王院ぎおういんの強権を以て抑え込めても、長期に渡るほど問題が根深く悪化するのは自明であった。


「雨月颯馬そうまが手を下せば、その前提が変わります。

 ――怪異を生んだ失態から雨月が退くとすれば、極力、俺への注目を減らせますので」

「その口振りからして、処分は決めておったかや」


「はい」


 玄麗げんれいの断じる呟きに、表情は判らないまま晶の首肯が返る。

 漸く見えた谷底へ爪先を落とし、入り乱れる感情の侭に晶は大きく呼吸いきを吐いた。


 ――流石に怪異へとちるのは予想外であったが、雨月郎党を纏めての謀叛程度なら、晶も想定していた。


 思考の凝り固まった天山にとって、排斥したはずの晶を視界へ納めるのは受け入れ難い現実である。

 直視もできず状況を取り繕おうと、天山がより深みへ嵌るのは自然の結末でもあった。


「どの途にしても結果は出ました。後、この瘴気溜まりを祓えば、廿楽つづらでの用件は総て終わります」

「そうか。晶がそう決めたのであるならば、あれもこれ以上は云うまい。

 ――じゃが、周天そらが随分と遠い。九蓋瀑布くがいばくふの神域解放は恐らく届かぬぞ」


 短く決意を返した晶の小指へと、玄麗げんれいの指先が絡みつく。

 遠慮がちな。それでも離すまいと掴む稚い感触に小指を預け、晶は天を振り仰いだ。


 玄麗げんれいの懸念通り、微かな九蓋瀑布くがいばくふの煌めきから返る応えは遠く鈍い。


 九蓋瀑布くがいばくふは確かに現世で最強の神器だが、周天そのものでもある為、完全に地表へと降ろせない弱点がある。

 地の底土行に遮られてしまえば、その距離で簡単に神器が封じられてしまうのだ。


 星辰の輝きを満たした理外の剣を封じられてしまえば、浄化で劣る水行に瘴気溜まりを浄化し尽くす威力はない。


 朱華はねずの神気も残り乏しい現在、しかし晶は天へと掌を差し伸べた。


「大丈夫。玄麗げんれいの神器は、世界最強の神器。

 周天と繋がっている限り、あらゆる距離は俺たちの味方です」

「ふん。それが判っているならば、善い。どうせ、あの悋気持ちを当てにしていようが、此度に限っては目を瞑る。

 ――代わりに冬の間はずっと、あれの傍に居てくりゃれ」


 晶が何をしようとしているのか気付いたのだろう。判り易く童女の頬が膨れ、晶の腕にしがみ付く。

 それでも止める気配はない。玄麗げんれいの同意を享けて、緩やかに九蓋瀑布くがいばくふを満たす彩りが移り変わった。


 星辰の輝きから現世を守護する亀甲を象として鍛造された神器こそ、九蓋瀑布くがいばくふである。

 その特徴は与えられた銘の通り、九重からなる世界最多の権能を有する神器。


 その第一の権能。那由多に渡る距離の天蓋が、晶の頭上で遠く星辰へと繋がった。

 神威の瞬くその向こう側より落ちる、日輪の輝きが一条ひとすじ。晶の心奧を優しく満たす。


 ――それは断罪折伏の権能。日輪そのものを象とした、浄滅の剣身

 朱金あけこがねの神気を散らし、浄滅そのものたる祝詞が虚空を揺らした。


絢爛けんらんたれ、――寂炎じゃくえん雅燿がよう


 音すら蒸発する熱量が、完全に制御されて天を衝く。

 莫大な熱圏の楔が轟然と地の深くを穿ち、瘴気を龍脈の残骸ごと灼き尽くした。


 ♢


 ――珠門洲しゅもんしゅう、洲都華蓮かれん鳳山おおとりやま神域、万窮ばんきゅう大伽藍だいがらん


 ぱち。冬の颪に厳しくなった伽藍で、火鉢の一つから炭の爆ぜ割れる音が響く。


 くふ。遠く晶の心奧と繋がった実感から、朱華はねずは恍惚と笑った。

 朱金の大神柱の見せた唐突な微笑みに、眼前の来訪客が首を傾げる。


「――どうかなさいましたか?」

「何。晶が大きく、過去を乗り越えただけよ。

 男子おのこの成長は善いの、導く女の慶びを髄から灼き満たしてくれる」

「ああ、晶さまですか。潘国バラトゥシュへと向かう準備は滞りないようで、私たちとしても嬉しい限りです」


 ふわりと脇息に身体を委ね、白魚の如き指先が頬へ添う。

 傍らに立つ奇鳳院くほういん嗣穂つぐほが、朱華はねずの正面に座る相手へと茶碗を滑らせた。


「どうぞ。――粗茶ですが」

「ありがとうございます。

 央都では共闘した仲、多少は打ち解けて頂けているものと思っていたのですが」

「このような奇襲を受けても、御国では歓迎されると?

 茶の一杯だけ、私たちの寛容を感謝された方が御身の為かと。――ベネデッタ様」


 多くの雑事を終えて穏やかなはずの一時。何時の間にか万窮ばんきゅう大伽藍だいがらんを訪った波国ヴァンスイールの神子が、にこやかに歓迎されない一杯を受け取る。


 緊張を隠しきれない嗣穂つぐほを脇に、ベネデッタ・カザリーニは碗の抹茶を嚥下。

 ――桜色の唇は満足そうに、艶やかな息を吐いた。


「結構なお点前で」

「何処かで作法を習いましたか?」

「いいえ、特には。ですが央都の華族との交流で、大方は倣い覚えましたので」

「――左様ですか」


 咽喉のどで香りと旨味を味わう抹茶は、高天原たかまがはら独特の吞み方がある。

 初心者にとっては苦いだけのそれをしかし、表情一つ揺らさずベネデッタは碗を戻した。


 央都華族との繋がりを言外に匂わせ、ベネデッタの微笑みと嗣穂つぐほの視線が交錯。

 ――口火を切ったのは、ベネデッタの方であった。


「神域への失礼は重々承知の上です。ただ今後を考えると、晶さんとのご相談も侭ならない様子でしたので」

「春を越えれば潘国バラトゥシュへ渡るだけの協力関係に、得るものは少ないでしょう。

 ――それよりも、万窮ばんきゅう大伽藍だいがらんへ侵入を果たした手法について、是非ともお聞かせ願いたい所存です」

「さて? ……それは、あか・・さまが能くご存じの様子ですが」


 神域は字義通り、神柱の玉体そのものに斉しい。

 神威に満たされた領域はそもそも、赦されたもの以外の侵入を拒むのだ。


 アリアドネ波国の神柱を奉じるベネデッタは特に、万窮ばんきゅう大伽藍だいがらんへ訪う赦しなど与えられることなど無い。

 前提を覆した現実は即ち、波国ヴァンスイールに神域の最終防衛を摺り抜ける手段があると云う事実を意味していた。


 異国の神子から向けられた水を、朱華はねずは嗤い返す。


「封印したのであろう? ――其方の心奧に宿るアリアドネの加護を。

 妾も似た覚えがある故な、手法は些か心得がある」

「その通りです。晶さんにも見せましたが、聖アリアドネの神器西方の祝福の有する神域特性は絶対封印。それは転じて、外部干渉からの防御にも転用できますので。

 アリアドネという異物を認識できなければ、神域の干渉は働きません」


「……成る程」


 朱華はねずの断言に、嗣穂つぐほは晶が万窮ばんきゅう大伽藍だいがらんへと訪れた最初の時を思い出した。

 玄麗げんれいの神気を封じ、外部からの干渉を完全に封じる。晶の心奧に神器と云う確固たる楔が無かったが故に可能であった荒業を、波国ヴァンスイールの神子は容易く行使できると云うのだ。


「まあ、そんなに身構えないでくださいな。神域への侵入を可能とする詳細。

 東の同盟たる高天原たかまがはらへとお伝えするに、私共としても吝か・・ではありません」

「……是非とも」


 足元は見られるだろうが、神域への侵入手段を知るのは嗣穂つぐほにとって緊急の課題。

 波国ヴァンスイールにとっても最重要機密の一つ、辺境の高天原たかまがはらへ気前良く売りつける理由は疑問であるが。


 油断ならない相手からの言外に求められた取引に、嗣穂つぐほは内心で警戒を深めた。

 嗣穂つぐほの警戒も承知の上なのだろう。金髪碧眼の美少女は、二心など欠片もなく微笑むだけ。


「――神器依存、対象は個人が限界であろう? とは云え、神柱封じの神域解放と引き換えにすれば、妥当な値段と見えると踏んだか」


 暫し窺い合う視線の交差は、朱華はねずの気のない呟きによって破られた。

 熔けるほどの蒼い双眸が、感情を読ませないベネデッタの微笑みを迎え撃つ。


「売りつけた理由は、代替する手段が完成したからであろうな。大方、龍脈経由の神格封印が完成したか。

 ――妾の見立てに違えは無いか、アリアドネの神子」

「その通りです。

 波国ヴァンスイールに厭戦の気風がある現在、これらの手法は時代遅れでしかありませんので」

「神器依存となれば、妾たちに応用できる幅も少ないと判断しただけであろうが。……要求は何ぞ?

 妥当か否かは妾たちが決めるが、のう?」


 予定よりも深く本音を切り崩され、ベネデッタの眼差しに真剣な光が宿った。


 神器の権能を実演込みで安売りしたのだ。少なくとも初期目標だけは回収しないと、無手のまま追い返されるだけとなってしまう。


「晶さんが潘国バラトゥシュへと向かうのは、春先とお聞きしています。……その時期を、前倒しにするようお願いを」

壁樹洲へきじゅしゅうより、海軍艦艇の艤装ぎそう進捗は詳細を受け取っています。どう急いでも、卯月4月は超えるでしょうね」

「ええ。存じていますので代案を。私たち波国の誇る快速戦艦、『カタリナ号』が潘国バラトゥシュまでお送りいたします。波国ヴァンスイールは元より、月宮つきのみやより全面的な協力をたのまれている身。断る理由も無いはずですが」

「あるでしょう。政治の背景を持たないまま、内乱状態にある潘国バラトゥシュへ少数で向かうなど、自殺行為です。晶さんの大事とはいえ、無用な危険を冒す利点がありません」


 一気に本題を持ち出したベネデッタへ、それでも嗣穂つぐほは応じる姿勢を見せなかった。

 神域へ侵入する知識は魅力であるが、朱華はねずの看破した通り利益が少な過ぎる。


 嗣穂つぐほの判断は予想通りのものか、ベネデッタが読めない笑みを向けた。


 ――間違いなく何か嗣穂つぐほたちの知らない情報を、ベネデッタは掌中に収めている。

 嗣穂つぐほが浮かべる一層の警戒に、金髪碧眼の美少女は更なる切り札を続けて切った。


潘国バラトゥシュはこれまで救世シータを宿す龍穴を隠し通していましたが、どうやら論国は大方の目星をつけたようです。

 論国の大攻勢は冬を越した後。波国ヴァンスイールの情報部は、夏を巡る前に潘国バラトゥシュ陥落おちると予想しました」


「……成る程。やってくれたな、アリアドネの神子」


 潘国バラトゥシュの詳細を耳に、朱華はねずは不機嫌にベネデッタを睨む。


 論国の攻勢が始まってしまえば、無政府状態に陥った潘国バラトゥシュは麻の如く乱れるだろう。

 制御を喪った遠地で、晶たちはシータとの契約を遂げなくてはいけないのだ。


「戦況が混乱する前に主導権を握りたいが、論国との直接的な敵対行動は避けたい。

 ……本音はその辺りですか」

高天原たかまがはらにも益のある取引のはずです。

 上手く事が運べば混乱した潘国バラトゥシュを横断するよりも、比較的安全に目的地へと辿り着けるでしょう」


 嗣穂つぐほの推測にも、ベネデッタは断言を避けて利益だけを口にした。

 断る理由が無くなり、渋りながらも朱華はねずが肯いを返す。


「……善いであろ、妾も晶を説得してみよう。

 冬を越えれば、可能な限り早く潘国バラトゥシュへと向かえるよう手配する」

「素晴らしい取引でした。

 ではこれにて失礼を。私たちも鴨津おうつへ戻り、何時でも出向できるよう艦船ふねの準備を進めさせていただきます」


 朱華はねずの同意に笑顔を返し、揚々とベネデッタは辞去の礼を口にした。

 姿を消した異国の神子を見送り、溜息交じりに嗣穂つぐほは口を開く。


「宜しかったのですか?

 断言を景気よく交わしていますが、どうにも胡散臭い相手です」

「構わぬ。向こうの要求は今一つ読めぬが、妾も断言を避けた故な

 ……潘国バラトゥシュで何が起きているのか、大事にならなければ善いが」


 呟く朱華はねずの蒼い双眸が、蒸気に薄く煙る華蓮かれんを映した。

 闊歩する人の営みは外海の不穏も遠く、文明開化を迎えた新時代を謳歌する。


 ――統紀3999年。師走の忙しさが、緩やかに人の歩みを急がせる日の一幕であった。


 ♢


永くお付き合いいただき、ありがとうございました。

帰月懐呼篇を、これにて了とさせていただきます。


最後の方は遅れに遅れた事、申し訳ございませんでした。

一ヶ月、プロット調整の時間を頂いた後、閑話を挟んで再開いたします。


読んでいただける方々のお陰で、僕も書き続ける意欲が維持できています。

今後ともよろしくお願いいたします。


宣伝です。

泡沫に神は微睡むの4巻が9月10日に発売予定です。


 今回も、SSを書かせていただきました。


 テーマは夏祭り。

 メロンブックス様で、晶と咲。

 ゲーマーズ様で、晶と朱華となっています。


拙作WEB版を楽しんで頂けたら、是非とも手に取っていただければと願います。

三章前半をベースに、ほぼ新規で書き下ろさせていただきました。


どうかよろしくお願いいたします。

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