終 暮れ沈む静寂に、明け解けは舞いて1

 連翹山の中腹から麓までを、茫漠と覆い尽くす土煙。――岩すら踊るその只中を踏み潰し、巨きな蜘蛛の躯が這いずり出た。


 ダクダク。黝く膨れる腹部の蠢く度、赫く瘴気が大気をケガす。

 髑髏を象る頭部が鋏角きばの克ち鳴らし、高く在る周天を振り仰いだ。


 赫く複眼へ落ちる視界の向こう、触れるほどの距離で青天の彩りが移り変わる。

 白を透し、青を徹し。やがて沈む赤すらも通し、限りなく澄み渡った。


 ――その涯に広がる、星辰の瞬く夜天。

 それは神代の干渉から現世を護る霊亀れいきにのみ赦された、周天を書き換える埒外の神権だ。


 曲がりなりにも奉じていた神柱が来臨する気配に、蜘蛛の這いずりが鈍った。


 抉るように土煙を蹴立て、蜘蛛の躯が連翹山の麓で委縮する。

 蟲の視界が重なる向こうで、憎悪の対象夜劔晶が天へと掌を差し伸べた。


 ♢


 震える唇の紡ぐ、畏敬と言祝ぎ。

 北天から降ろした夜が、指の狭間から視界へ零れ落ちる。


「願い奉るは、磐生ばんしょう盤古ばんこ大権現だいごんげん

 その向こうで徹く、晶の願いに極限まで透き通る周天が応えた。

静寂しじまに微睡み給え、霊亀れいき冬濫とうらん玄麗媛げんれいひめ!」


 その瞬間、見える限りの現世そのものが、黒曜の神域へと染め抜かれた。


 現世の涯に広がるという、神威の欠片たる星辰が降り頻る黒曜の海。

 北天を司る霊亀れいきは、その只中で微睡んでいると云う。


 その眼差しは神代を映し、亀甲は現世にかる九重の天蓋。

 現世の果てまで微睡む神柱の裡こそ、現世の総て。

 ――畢竟。玄麗げんれいの神域とは、現世そのものを指すのだ。


 絶大な神柱のいます領域が、ただ静かに地を塗り替えた。


 晶が下した右手の指に、ふと冷たく白魚の如く細い指が絡まる。

 気付くと傍らでは、黒の単衣をひるがえした水行の大神柱が不安そうに黒曜の眼差しを向けていた。


「漸く、あれを呼んでくれたの、晶。――もう良いのか?」

「はい、玄麗げんれい。云いたかった事は伝えましたから。

 國天洲こくてんしゅうの境を越えた時から、ただ見守っていてくれた事。有難うございました」


「そうか。あれは、雨月かや?」


 気遣う玄麗げんれいの想いが、連翹山の麓で委縮する蜘蛛の巨体へと巡る。


 どうでも良いとうそぶいても、玄麗げんれいと雨月の付き合いは、三宮四院を覗いて随一に永い。

 永代に渡る付き合いからの僅かな感慨に、童女の大神柱は双眸を眇めた。


「はい。雨月が第一とうそぶいた挙句、世間体を取り繕った成れの果てです」

「他者に踊らされ、己が手綱を取っていると思い込んだか。

 操られた末が意図に縋る繰るもの・・・・とは、――相応しく哀れよな」

「……そうですね。はい、そうです」


 表面上だけ気丈を取り繕った晶の感情がぎこちなく、玄麗げんれいの指先へと伝う。

 怒りも憎悪も乗り越えた果ての、複雑に凪いだ感情。ただ・・人にのみ赦されたい交ぜのそれを慮ったか、玄麗げんれいは声も無く肯いだけを返した。


「――晶」

 誰かの駆け寄る気配に、晶と寄り添う玄麗げんれいの視線が肩越しへと巡った。

 晶の空いている傍らへ並ぶ輪堂りんどう咲の気配に、童女の指が不満気に強張る。

「先刻から、瘴気が濃くなる一方なの。神域で周囲を浄化できる?」


 少女の要請に晶は漸く、赫く煙る瘴気へと意識が向いた。

 麓に建つ家屋が、濁る視界の向こうで溶け崩れる。


 常世の毒に随まで蝕まれたか。音も無く次々と倒壊する光景に、晶は難しく首を振った。


「無理だ。不可能じゃ無いけれど、今はできない」

「どうして? 今すぐにでも対応しないと、廿楽つづらの中枢が使い物にならなくなっちゃう」


 神柱の威光を喪ったとしても、五月雨領さみだれりょう國天洲こくてんしゅうの要地であることに変わりは無いのだ。

 瘴気で風穴ごと爛れ墜ちてしまえば、今後の統治すらも侭ならなくなってしまう。


「――其方を気遣っておるのよ、小娘」


 咲の要請は至極当然のもの。それでもできないと頑なに首を振る晶の傍らから、童女の応じる声が返った。


「その様子からして、神域へ潜ったことはあるまい。

 神域とは、大神柱の坐処いますところ。純粋なあれの領域を直視して、ただ・・人の身が無事で済むなどと思い上がるな」

「は、はい」


 大神柱から巡る鋭く黒曜の双眸に、少女が言を戻す。

 嫉妬混じりの言葉。それでも、咲への配慮は本物である事と、晶は理解していた。


 浄滅そのものである火行と比べ、水行は浄滅が低い。

 朱華はねずならば浅い顕神降あらがみおろしでも浄滅が叶っても、玄麗げんれいではそれなりの深度が要求されるのだ。


 水行を司る玄麗げんれいの神域は、無尽に沈む水底。瘴気を圧し祓う水気に曝されれば、咲や直利も無事では済まない。


 玄麗げんれいの勅言に同意を返して、晶は慎重に蜘蛛の胴体を晒した天魔へと視線を遣った。


「見える瘴気に手を取られていたら、結局はじり貧になる。

 ――それよりは、源泉を断つ方が先決だろうな」

「源泉って、天山の事?」

「ああ。胎から瘴気を噴き出している。隠れ潜む蜘蛛の本領を棄ててでも、瘴気を撒き散らす効率を選んだ辺り、あれが天山の奥の手と見て間違いない」


 怪異上位の穢レが畏れられる理由は、無尽蔵に瘴気を吐き出す点にある。


 土地に灼き遺った憎悪が、瘴気溜まりを呑み込むことで顕れる生きた災禍。

 それが有する瘴気の濃度は、土地神の神気にすら匹敵するのだ。


 晶の判断に、後方へ立つ直利が思案気に腕を組む。


「……つまり、出来る限り迅速に天山を叩き、瘴気溜まりを浄滅しなければならない訳か。

 骨を操る太刀の爪はどうする? 4対8本、あれら総てが天山並みの骨を繰るなら、此処ここの人手では対処に足りないが」

あれ天山は、己を指して雨月と名乗っていました。

 敗れた己自身すら躊躇なく棄てたなら、元が己の骨であっても執着はしないでしょう」


 天山の性格からして、土がついた手段ぶきを使い回しはしない。

 晶が知る限り、どれだけ厄介であっても、見下げた視線を撤回したことは無かった。


「――それに可能であっても、複数の骨を繰るは無理であろな」

 確信はできても確証の無い晶の返答に、傍らで玄麗げんれいが口を開いた。

 怪異の浄滅は晶の願いでもある。思うところはあっても、玄麗げんれいに断る理由は無い。

「元はただ・・人でしかない怨讐の残骸に、同時に複数の思考は難しかろう。

 こちらの手数に任せて本体を削れば、天山に骨を操る余裕なぞ残らん」

「手数に任せただけでは、時間も掛かります。瘴気の影響を考えると迅速に鎮めたいけど」


 童女の煌めく黒曜の双眸へと挑戦的に、咲は純白の薙刀パーリジャータを構えて晶へと寄り添う。

 その所作の意味に、判りやすく膨れる玄麗げんれいの頬。


 噛みつき合おうとする一柱と少女を背に、晶が天を振り仰いだ。

 斃すだけなら容易であっても、時間を掛けられないのは咲の云う通りであろう。


 だが最大の問題は、瘴気溜まりを呑み込んだあの胎だ。

 晶の見立て通りなら、あの胎は瘴気を無尽蔵に吐き出す風船そのもの。


 時間を掛けるのも悪手だろうが、下手に破裂させてしまうと、それこそ瘴気で周囲が汚染されてしまう。


 先刻に至ったばかりの雲雀殺しは、制御に不安が残る為除外。

 残る可能性と云えば、それこそ神器に依る神域特性を解放する位であった。


「ああ。神域解放を叩き込むとして、……後60秒は欲しい」

「判ったわ。――不破ふわ殿。私たちで征路を斬り拓きます、宜しくて?」


「構わない。あの瘴気濃度を突破できるのは、それこそ玻璃院流はりいんりゅう奇鳳院流くほういんりゅうくらいなものだろうしね。神域をそのまま降ろされるよりも、被害が少なくて済むなら有り難い」


 玄麗げんれいと咲の間にある無言の交渉を慮ったのだろう。苦笑を1つ寄越して、不破ふわ直利は晶たちの前へと足を踏み出した。


 その一歩から噴き上がる精霊光が、直利の薄皮一枚分を儚くも堅牢に護る。

 玻璃院流はりいんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝、――五劫七竈。


「私が先を征こう。追いてこれるかな、輪堂りんどう殿?」

「――御冗談を。譲られたら不破ふわ殿の立つ瀬が無いと、若輩ながら配慮したまでにて」

「それは手厳しい。ならば先達として、少々は泥臭く足掻かせて貰うとするか」


 挑発的な軽口は、死地に赴く少年少女への激励代わり。

 咲から返る減らず口も微笑ましく、抉れる後が残るほどに直利は地を蹴った。


 ―――嚇堕カタ堕汰々タタタッッ!!


 言葉はもう不要らなかった。

 晶たちの戦意には気付いていたのだろう。白く濁る髑髏の鋏角きばが、決戦の合図代わりに克ち鳴らされた。


「覚悟はしていたが、巨きいな」


 蜘蛛の巨躯を改めて見上げ、思わず直利は感嘆と呻いた。

 体高は恐らく、6丈6尺20メートル。小山と見紛わんばかりの巨大な髑髏の影が、瘴気の向こうから圧し掛かる。


 見える範囲からすら伝わる圧倒的な存在感に、それでも直利は間合いを詰めようと――。


「先手、いただきます!!」


 後方から駆け抜けた咲の声に、思わず苦く微笑みを返した。

 征路を疾走る少女の背に、晶と並び立とうとする無意識の覚悟を認めて。


 ――3年前。嬲られるがまま俯いていた少年の、大きく飛翔した軌跡の幻視。


 もう大丈夫だろう。足掻いていた雨月家門には申し訳ないが、晶にとって雨月は既に過去でしかないのだ。


 3年前、晶を過去のものと陪臣たちは嗤っていたが、現実はその逆、手放した瞬間から晶にとって雨月は過去に過ぎなくなったのだ。


 それを理解できぬままに、陪臣達を道連れに雨月と堕ちた天山はここで果てる。

 ――天山が名乗った通り、皮肉な事にここが雨月の終焉だ。


 ♢


 咲の足元で残炎が爆発する。その現実を置き去りに、咲は一気に加速。

 時を刻む速度で蜘蛛を支える前肢の爪へと間合いを詰め、薙刀を水平に薙ぎ払った。

 奇鳳院流くほういんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝――。


「乱繰り、糸車ァッ」


 金属質の響きと共に、乱れる斬撃が爆ぜる火花を残す。

 瘴気と精霊力が鬩ぎ合う狭間を斬り裂き、無傷の爪が咲を狙った。


「く」


 呻きを零す少女の刃筋が閃き、鋭く爪を弾き返す。

 莫大な質量が穂先から伝わり、逃した足元で爆発したように抉れた跡を残した。


「無事かい!?」

「大丈夫です! ――けど、硬い!?」


 気遣う直利が、もう一方の前肢の爪へと斬りつける。

 幾重にも連なる斬撃に、それでも傷一つなく払うだけの応酬が続いた。


「天山の体表を護る瘴気の濃度は神気に近い。生半可な攻勢より、回避に専念した方が良い。

 輪堂りんどう殿。我らの本分は時間稼ぎだ、深追いはするな」

「理解っています。……けどっ」


 爪が高く瘴気の奥へと消え、地面毎、耕すように突き降ろされる。

 その度に爆ぜ飛ぶ土塊つちくれを頬に受け、忌々しそうに咲は応えを返した。


 回避し、至近へと墜ちた爪を払う。

 蜘蛛の素早さと手数は圧倒的。晶の神域解放を信じていない訳ではないが、一撃で確殺する為にも、せめて前肢の2本程度は持っていきたいのが本音であった。


 ―――ァァァッ。


 爪を突き立てるだけでは埒が明かないと、痺れを切らしたか。

 骨の鳴る嘲笑が咲たちの頭上から降り、蜘蛛の巨躯が僅かに沈んだ、


「何?」

「不味い。――退避!」


 直利の警告と同時に、天魔が高く跳躍。

 瘴気を颶風ぐふうと捲いて、蜘蛛の前肢へと瘴気が澱と凝った。


 精霊技せいれいぎは飽く迄も、ただ・・人が行使する事を前提としている。

 運体法から精霊力の行使までその通りに。仮令たとえ、天山の意識が遺っていたとしても、蜘蛛の関節で行使できる道理はないはずだ。


 だが、天山の持つ剣理の才覚が、その矛盾を無視して見せた。


 両の前肢に備わる爪の先端から連れる、幾重もの凝る瘴気の波紋。

 精霊技せいれいぎ、――清月鏡せいげつのかがみ


 万物を微塵に蝕み尽くす猛毒の鎚が、佇む咲たちへと雪崩れ落ちた。




「丁度、良かった」

 逃げ場はない。絶体絶命の窮地へ追いやられ、しかし咲は明るく笑ってみせた。

「――逃がす心算つもりが無いなら、貴様も大きな的でしかないわ」


 瘴気もその精霊技わざも関係ない。咲が持つ神器から、朱金あけこがねの輝きが瞬いた。


 薙刀パーリジャータの権能は流れの制御。蜘蛛の質量を地面へ逃したように、本来は攻防に柔軟な権能である。

 だがそれは、奉じてすらいない神柱の神器だ。咲にとって権能すら侭ならないのが、正直な現状である。


 それでも、奥の手が無い訳ではない。山ン本五郎左エ門が見せたように、咲の薙刀パーリジャータは、遠く朱華はねずの神域にあるもう一つと繋がっているのだ。


 歓喜の声を上げたエズカ媛の神気に、咲の双眸がすみれに染まる。

 中段から刃筋を上へと立て、全力で大神柱の神気を制御。桜色の唇から朗々と、未だ拙い呪歌が零れた。


「――生老と、夜舞う鷹の、残り羽よ、尽きと高みで、冷たく墜つは」


 ちる波紋の雪崩れを、咲の刺突が真っ向から迎撃。薙刀から生まれた莫大な熱量の波濤が、前肢2本と髑髏の半分を消し飛ばす。

 奇鳳院流くほういんりゅう精霊技せいれいぎ、奧伝、――彼岸鵺ひがんぬえ


 朱金に逆巻く灼塔を見上げ、咲は残心から納刀。満足そうに大きく呼吸いきを一つ残した。

 その傍らに寄りそう晶の気配。恥ずかしそうに触れる手の甲の感触に、思わず微笑みが零れる。


「後はお願い」

「――ああ。決着をつけるよ」


 少女の肩を追い抜く少年の背。その手が高く、天へと翳された。


 ♢


 ――それは降り頻る星辰の護り手。現世を隔てる九重の天蓋。


 指の狭間から零れる夜天の彩りが、巡るように彩りの波紋を浮かべる。


 ――黒曜の微睡みを護る盾。


 彩りに移り変わる世界最大の神器周天そのものを掴み、晶は天から引き摺り降ろした。


「天を透れ、――九蓋瀑布くがいばくふ!」


 ―――、汰、!!


 取るに足らないはずの小娘が放った彼岸鵺ひがんぬえに髑髏の半分までを喪い、それでも天魔は晶への憎悪に猛った。

 瘴気の糸を幾重に生み出し、晶を囲うように縛り斬る。


「――気が済んだかや?」


 大気が腐り落ちる音が過ぎた後、晶が平然と視線を寄越す姿が天魔の視界へと映った。


 冷酷な。それまで心地良く向けた事はあっても、向けられた覚えのない視線。

 指先を天へと向けた晶に代わり、玄麗げんれいの勅言が響いた。


「妄執に振り回されるも、飽いたであろう? ――黄泉で長蟲と這いずっておれ」


 絶縁の言葉を理解しているのか、それとも妄執の残り香ゆえか。

 蜘蛛の肢が数歩だけ後退。


 ―――嚇堕カタ、汰、

「神域解放」


 その惨めな末路を、感慨も無く晶が眺める。

 少年の指先へと、九蓋瀑布くがいばくふの護りを反転させた剣が生まれた。


 刃渡りは3尺6寸1メートル10センチ寂炎じゃくえん雅燿がようによく似たその劔は、ただ護りの権能を反転させた器に過ぎない。


みつるまま、流れる天の、影落とし、在るが侭にと、月日かげらう」


 希う晶の声に従い、透き通るその刀身に夜が生まれた。


 玄麗げんれいの神気とも、世に在る神代のそれとも違う。九重の天蓋の向こう、黒曜の海に降り頻ると星辰の輝き。


 天蓋から滴る雫を映した理外の剣こそ、玄麗げんれいの神域解放。

 ――現世に赦された存在で、この一撃に耐えられるもの・・は存在しない。


 無駄な力も無く、たった一振りの斬撃が髑髏の残った部分へと突き立った。

 虚無に近い重圧が渦と逆巻き、斬閃の軌跡に沿って髑髏の頭部から胎まで抉り潰す。


 瘴気溜まりすら喪い、蜘蛛の巨躯が崩れ落ちる。

 轟音と共に瘴気が散り始め、それでも妄執から残った肢が蠢いた。


「もう死のうが、……どうする晶?」

「止めを刺します。これが最期ですから」


 瘴気が黒の神気に燃え尽きる中、晶は躊躇う事なく理外の剣を振り上げる。


「――待って欲しい」


 振り落とそうとした刹那。背後からの制止する声に切っ先が止まり、

 ――双眸を眇めて、晶は肩越しに視線を巡らせた。


 佇む少年の姿に溜息を一つ、剣の切っ先を下げる。


「……何の心算つもりだ? 雨月颯馬そうま

「待って欲しいと云った。――どうか暫く」

「理解しているはずだ。ここまで堕ちた以上、雨月に先は無い。

 事後処理も考えたら、直ぐにでも浄滅させてやるのが温情だぞ」

「判っている。

 ――だから、自分の手で処断の機会を頂きたい」


 苦しそうな、それでも意外とも云わないその決断に、晶は颯馬そうまへと向き直った。

 読めない意図に困惑するが、それでも利点は多い。


「親殺しを引き受けると?」

「夜劔殿にも断る理由は無いだろう。後に転封される華族が前領主を手に掛けたとあらば、統治に影を残すはず」


 颯馬そうまの聡明さは、晶も多くを認めていた。

 的確に晶の懸念を突いたのは、断らないと確信しているからだろう。


 ――だからこそ躊躇う事なく、晶は布津之淡を己の心奧から引き抜いた。


「貸してやる。――後で返せ、雨月颯馬そうま

「感謝申し上げます。――夜劔晶殿」


 兄だった少年から、嘗て弟だった少年へと。差し出された布津之淡の柄を受け取り、2人の肩がれ違う。

 言葉も無く一礼だけ。互いに視線を交わす事すら無かった。


 ♢


 少し前まで己のものだったその神器の、慣れた感触を確かめる。

 それでも感慨は少なく、颯馬そうまは蜘蛛の残骸の前へと立った。


 ぐずり。腐臭を漂わせた奥から、瘴気を纏った肉塊が転び落ちる。


「やはり、居られましたか。――父上」

 ―――颯馬そうま颯馬そうまカ。雨月の、雨月の至宝よ。


 意志も無く。只、妄執だけを繰り返す天山だった人形。

 天山の性格を熟知していた颯馬そうまも、それが潜んでいるのは気付いていた。


 ―――来い、颯馬そうま。儂と一つニ熔け合い、今度こそ、あの穢レ擬きもどきを誅滅するのだ。

「もう充分でしょう。五月雨領さみだれりょうも、廿楽つづらも、天命は雨月を必要としていません」


 無駄と理解しつつ、それでも颯馬そうまは言葉を重ねた。


 雨月がもう終わると誰に忠告しようとも、聞く耳を持つものがいなかったが。


 天山に忠告を重ねても、己を持ち上げるだけ。

 ――何時からか、気付いてはいた。


 雨月天山は、雨月颯馬そうまを見ていない。父親が幻視ていたのは、やがて訪れる輝かしい雨月の将来でしかなかったのだ。


 こんな破滅を迎えて尚、有りもしない栄光に縋る父親に、颯馬そうまはただ涙だけを落とした。

 それが父親にしてやれる、最後の送るもの。


「神域解放」

 ―――颯馬そうま颯馬そうま。貴様もか、貴様も儂を見下すか!!

「磐響き、さざと流るる、一葉を、削りて落ちる、白波の涯よ」


 散。渡り始めた風と共に、静かな衝撃が閃いた。

 指を伸ばす肉塊が、息を呑むほどの静寂に動きを止める。


 ―――颯っ、 、 、


 音は無かった。ただ天山の頸がずれ、湿った音と共に地面へと落ちる。

 緩やかに崩れ始めた怪異の残り香を見送り、重く重く、颯馬そうまは己を取り戻した実感を得た。


 ♢


 今章も残すところ後1話。

 長くかかりましたが、よろしくお願いいたします。


宣伝です。

 来月、9月10日に、拙作「泡沫に神は微睡む」の4巻が発売決定しました。

 待って頂けた方、待たせて申し訳ございません。


 ほぼほぼ、内容が新規となります。

 楽しんで頂けたら、嬉しく思います。


 今回も、SSを書かせていただきました。

 テーマは夏祭り。

 メロンブックス様で、晶と咲。

 ゲーマーズ様で、晶と朱華となっています。


 購入して頂けるなら、是非とも何方かで購入いただけたらと思います。


安田のら

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