閑話 一時なれど、去りし日を惜しみて
ぱさり。机上に降り積もる書類の頂上へ、新たな書類が決裁の判を押されて投げられた。
軽く紙が雪崩れ、昼下がりの騒々しさが遠く掻き消す。
すっかり馴染みとなった
「嗚呼、もう昼かい。学徒の身上だけってのは羨ましいね」
「消耗した呪符や諸々の経費。仕事は山積みですが、彼らに預けられる仕事でもありませんし」
机一杯に広がった書類の向こう、
後から湧いてくる書類の束を一掴み、
「名前を出して招集した手前、仕事は私たちに集中しますしね」
「だからって余計な仕事まで回していないかい。ええと、要山の修繕に参道の整備って。
――絶対、僕の管轄じゃないよね?」
後輩たちの疲れに乗じ、誉は新たに渡された書類を摘まんだ。
緊急で作成されたのだろう。
「誉さまは自業自得でしょう。
「結局、晶くんに御破算とされたけどね。
何だい、空の位って。ちゃぶ台返しも良い処だろう」
百鬼夜行や神嘗祭が終わったとしても、上位の義務が尽きた訳ではない。
被害の補償に予算計上。寧ろ彼女たちの仕事は、生まれた嘆願の処理だからだ。
役人たちにとっても、この機会は随一と云っても良かった。
本来の書類とは、下位から上位に順の決済を経る。
稟議の俎上へ上げられるだけでも、数ヶ月と掛かる事が殆どだからだ。
だが、百鬼夜行からの復興が名目ならば、通常よりも稟議を通しやすい。
院家の代行権を有する3人が央都に詰めている現在ならば、更に稟議が通しやすくなっていた。
――とは云えど、彼女たちも人の身である。
似たような書類の連続に、処理よりも会話に傾きがちにあったが。
飽いた吐息から、気の抜けた囁きが漏れる。
「そう云えば、夜劔の当主殿は?」
「……何を企図しておいでですか」
「企むなんて人聞きの悪い。僕は何時だって、素直な
余りにも信用ならない台詞に、残りの半神半人2人が胡乱な視線を遣った。
静美の棘にも悪びれず、誉は明後日へと視線を逃がした。
嘘を吐けない体質はその通りだが、言質を赦さない限り意外と自由が利く。
言動の裏を読み解かないと、誉は決して気の抜けない相手であった。
沈黙に暫く。降参とばかりに、誉が両手を上げる。
「別に疚しい狙いは無いよ。
――
「……そうですか」
宴の最中で、夜劔晶と
内容の詳細は知り得ないが、晶と
「知りたい?」
「好奇心は否定しません」
静美の返しに、
特に隠すほどではないのか、誉も肩を竦めるだけ口を開く。
「彼から
そして、その決定を晶が下したものだと、相手には伝えない事だ」
「……それは、危険な賭けでしょう」
「だろうね。けど十中八九に賭けて、天山も縋らざるを得ないよ」
人間は誰しも、既に墜ちていようが命綱を探すものだ。
死ぬ間際であればこそ、生への可能性は甘美な程に輝くのだから。
「言い換えれば、一つ二つ抜けられるという事でもありますが」
「ああ、これは言葉が悪かった。雨月天山は確実に晶くんの罠に掛るよ。
――何しろ天覧仕合で現実を見ても、
「そう云う事ですか」
誉の断言に、静美も納得の表情を返した。
雨月家当主とは、院家もそれなりに会話を交わした間柄だ。
直前の当主である天山は、印象も特に残っている。
八家第一位を誇っていようが、雨月天山自身は凡庸の極みでしかなかった。
愚かとは云わないが、並から外れた感も無い。
それは、天山自身も強く自覚していたのだろう。
己こそして
凡庸の思い込みは、容易に頑迷さへと移ろう。
「春まで待ち、晶くんに裁可を委ねる。何故、彼が冬を直前に
数ヶ月の理解が、差を分け断つだろうね」
「それを理解して、放置しましたか」
「止める義理は無いだろう。
――それに、
「
理解できないものに対して、牙と変わるだけ」
「確かにそうですね」
捉え切れない誉の微笑みに、
雨月には、何時だって引き返せる瞬間が与えられていた。
しなかったのも、結局は雨月の判断でしかない。
これ以上は、口出しするのも野暮でしかなかった。
「雨月郎党の事は、それで良いさ。
――それで」
「はい」
「晶くんは呼んでくれないのかい?」
「残念ですが」
表面上だけにこやかに、誉のおねだりへと
「数日前に、晶くんは央都を発っています。
咲さんを付き添いに、
呆気とした誉への、意趣返しに悪戯な笑み。
漸く引っ掛けられたことを理解したのか、誉は苦笑だけを返して留めた。
「これは参った。学院にずっといるものだと勘違いしていた」
「晶さんの隠形は、
「――それに、晶さんは学院に馴染んでいました。
ここに腰を落ち着けるのが自然だと、誰もが勘違いするほどに」
一本取ったと笑い合う
その視線は手元の書類へと、万年筆の先が停滞する間もなく紙の上を踊っていた。
「晶さんが
「
守備隊も引き継ぎがありますし、霜が過ぎる頃には」
「そうですか」
静かな鉄砲百合から返る、可憐と綻ぶ笑み。
「
「ええ、ごゆっくりと。――時間を埋めてください」
霜月を越えれば、間も置かず雪の季節だ。
学生たちの息が白く染まり、冬の到来を遠く、足早に告げていた。
♢
――
―――
騒めく獣声を背に残し、晶は暗闇に塗り潰された斜面を滑り降りる。
一拍残して転び出た
追われる焦躁が、久しくない笑みを口元へと刻む。
だがそれさえも心地良く、晶は
「
「――勢子班っ、笛を準備!」
晶の声に応じ、高台から勘助が号声を上げる。
追い込むための楯班は見えない。だが、当初の作戦を信じるまま、晶は荒れ肌の急斜面へと足を蹴った。
少年の体躯が虚空を踊り、引き攣れるように
純度も桁違いの
「月辿り」
精霊光の軌跡が虚空を踊り、その一つに晶の脚が落ちる。
黒の輝きが儚く砕ける刹那を足掛かりに、晶の身体が再び夜空の高くを舞った。
眼下を奔る、獣欲の濁流。理性も無い殺意を視界に収めて、晶は精霊力を解放。
抜刀した精霊器の切っ先が、黒曜の瞬きに染まった。
その輝きは夜天よりも深く鮮やかに、視るものたちを圧倒する。
「――
―――
幾重もの波紋が衝撃を伴い、獣我の最中を撃ち抜いた。
大量の土砂と
団子となった
白く吐息に宿る、朱金の輝き。
それを合図に、斜面の上で
夜劔晶と
――やがて、透徹と澄み渡る輝きが2つ、解けるように妙覚山の一角から夜気を払った。
「「
暗闇を裂く声が、鋭く重なる。同時に振り下ろされた刃金の切っ先は、灼熱を伴って
着地の勢いが余ったか、2人の足が斜面の中程までを滑り切ってから、漸く止まる。
精霊力が生んだ熱波に煽られ、咲が遠くを見据えた。
「……これで最後?」
「未だです。楯班の追い込んでいた群れが、合流していない」
肩を並べた咲に、晶は警戒を口にする。
楯班が、夜闇の向こうで
残る最後の予定地点には、槍班が今かと待ち構えるだけ。
山肌を落ちる勢いで先行したとはいえ、そろそろ合流してもおかしくない。
燻る炎の向こうから、勘助の下りる姿を見据えた。
「勘助、予定は」
「もう来ている。――打合せ通り、手出しは無用だぞ」
派手な火行は、必要以上に
特に晶たちの火力は、他の防人を裕に圧倒しているのだ。
桁違いの炎が
「それは良いが、正規兵も他に駆り出された今、ここには俺と咲しかいない。
――余計な、 、 」
―――
云い募ろうとした晶を遮り、やや離れた斜面へと
崖の際に林立する木立の合間を縫い、誘導された
槍衾と立つ牙の切っ先が練兵の層を突き破る様を、晶は幻視した。
「云わんこっちゃない!」
「駄目だ、
焦る晶の一歩を、勘助が鋭く制止。
踏み止まる晶の後背で、勘助が続く号声を放つ。
「網を張れ!」
隠れていたのだろう。
―――
くぐもる悲鳴と共に先頭がもんどり打ち、頭から転がって網に絡まる。
一匹が絡まれば、残りは雪達磨式だった。
次から次へと。やがて大きな団子と化した獣と網が勢いを止める頃、練兵たちが槍を手に突き立てていく。
戦闘の終結が判断されるまで、幾許の時間も掛らなかった。
気を利かせたのか、咲は軽い挨拶だけ向こうへと歩いて行った。
内心で感謝を向け、晶は勘助へと肩を並べる。
視線の先では、網と
「あの網、凄いな」
「……お前が央都に出向した頃、
今日の山狩りに習熟が間に合って良かったよ」
網を始め各種の罠で
これが可能となれば、直接の被害を避けて
それでも汎用とされなかった理由は、明確である。
網が
事実、初日から網を喰い破られた事実が、記録として残っていた。
その瘴毒を、精霊力も経ずにただの縄が耐えきる。
晶の目にも、その威力は輝かしく映った。
「これが有れば、普段の任務も楽になるか?」
「……難しいな。ある程度は瘴気に耐えてくれるが、限界はある。
一度の戦闘で整備は欠かせないし、何より高価だ」
瘴々と音を立て、網の端が崩れる。
その光景を目の当たりに、晶たちと網の間隔を開けていた理由を理解した。
火行は、そのものが浄滅の威力を宿す。
炎を前に網が耐え切れるとは、晶も楽観はできなかった。
「暫くは、防人様方の手よりも多い山狩りで、騙し騙し慣れるしか無ぇよ。
今日を参加してくれて助かった。冬前の山狩りで被害も少なくて済んだしな」
「……追いきれなかったか」
「楯の奴等で1人、瘴気を
――瘴気を吸って平然としているなんて、やっぱりお前くらいだな」
無理に明るく、勘助が笑いを浮かべる。
晶が離れていた数ヶ月、被害もそれなりに増えたのは聞いていた。
少し参っていたのか、それでも口調だけは気楽そうなまま。
「帰郷するって聞いたけど、何時だ?」
「
2人肩を並べ、眺める視線の先でやがて、清め水から青白く浄滅の炎が立ち昇った。
瘴気を舐めるように、
晶と
今年の天覧試合では、前回の首位と準位の決着予想が白熱していると聞いていた。
不穏な話題が続いたからだろう。
お祭り騒ぎの熱狂を控え、
「……
「ああ」
練兵ならそうだろう。短く晶も肯いだけを返す。
「還れるお前は幸運だよ」
「どうだろうな。……俺は憎いのかもしれない」
誰もがそうだが、晶にとっての故郷が一層に歪んでいたのは、言葉の端々から気付いていた。
「憎くても良いさ。憎い奴は何処にだっている。
けど、故郷ってだけじゃないだろ」
「そりゃあな」
「だったら、良い奴だって同じくらい居ると考えようぜ」
勘助は晶の背を追い抜き、
ぬるりとした腐臭に
この感覚は、既に日常の一つとなっていた。
「故郷にとっちゃ、お前はただの一部だってだけだ。
――故郷に着いたら、きっとそれが判ると思うぜ」
2人、協力して死骸を穴に放り込む。
振り掛ける清め水から立ち昇る炎が、一層に高く燃え上がった。
後に続く言葉は無かった。
――数日後。
晶は咲を伴って、
寒さが厳しさを増した、その日の早朝の事。
乗客が立てる雑踏の中、高く、汽笛だけが寂しく鳴り響いた。
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