閑話 足りて尚、足掻け

 ――神嘗祭を終えた翌日の早朝。

 晴れ渡った秋天も、暖を覚えるには高い。

 寂しく吹く木枯こがらしに、輪堂りんどう咲は服の上から襟を押さえた。


 隙間から染み込む秋気を締め出し、かじかむ指先に息を吹く。

 指の狭間で熱が踊り、刹那に白く散った。


 チンチン。乗客を乗せ終え、急くように路面電車トラムが鐘を鳴らす。

 速度を増し始めた車体の傍ら、行き交う雑踏に遅れて少女は足を止めた。


 ――央都の民も一時は危ぶまれたが、もう生活が立ち直りかけている。

 その感慨から人波を眺め、再び一歩。二歩三歩と、次第に小走りへ。


 最大の懸念であった神嘗祭は無事に、

 央都が日常を取り戻すと同じく、晶たちも又、日々へと帰りつつあった。


 被災の爪痕が残る休日の通りを足早に、咲は守備隊の練武館を潜る。

 名札の掛けられた前を通れば、やがて開けた引き戸の向こうから号声が響いてきた。


「攻め足ぃっ! 上段構えぇぇっ!!」

「勢ィ! 勢ィ! 勢ィ! 勢ィィッ!!」


 幼さを残した練兵たちが全身から汗を飛沫かせ、一糸乱れず基本の構えを繰り返す。

 五行の構えを、相生の順に一巡り。


 丹田を静めつつ、咲は離れた一画で木刀を振るう晶の傍らへと立った。

 お互いに慣れた定位置。誰も何も口にすることなく。薙刀と木刀の切っ先が、揃って天から振り下ろされた。




「ようし、素振りは終わりだ」

「「ありがとうございました!」」


 厳次げんじの解放を告げる声に、晶と咲が唱和で応じた。


 がらん。鈍く硬質な音と共に、晶の掌から丁種精霊器が転がり落ちる。

 肩から咳き込むような浅い呼吸いき。都度に滴る汗が、少年の視界を霞ませた。


「大、丈夫? 晶くん」

「――押忍」


 咲からのいきも、疲労が色濃い。

 傍らで帰り支度をしていた練兵たちが、怪訝な面持ちで2人を眇め過ぎた。


 彼らの疑問も当然のものか。傍目で見る分に、晶たちと練兵が過ごした練武の時間にそれほどの差は無いからだ。


「疲れただろう? 如何に普段、お前たちが精霊の加護に与っているのか。

 ――身に染みる最高の瞬間だ」

「確かに、そうだけど。……叔父さま、これ何の意味があるの」


 絶え絶えと、咲が抗議を投げる。

 外功を閉ざす隠形の応用。内功まで閉ざした状態での練武が、厳次げんじより課せられた内容であった。


 精霊や神柱の恩恵を喪えば、残るのは己の身体のみ。

 練兵たちであっても下位精霊の恩恵を与る現状、完全に無いのであれば差も出るのは当然の結果だ。


 答えは期待していない。だが咲の予想とは裏腹に、あっさりと厳次げんじは答えを返した。


「晶が精霊技せいれいぎを覚え始めた頃、お嬢とで腕相撲を競った事があっただろう」

「……咲に敗けた事も覚えています」

「純粋な鍛錬の差。と以前に説明したが、事実は多少違う。より正確には、加護を充全に扱っているか否かだ」


 樫の床材で鳴りあう軽い足音。少年練兵たちの挨拶が、三々五々と散っていく。


「防人の戦闘は、精霊力の行使が主となる。

 どこまでいっても、防人の強靭さとは結局、加護に依存するからだ」


 静けさの戻る道場の中央で、淡々とした厳次げんじの口調が染みた。


 加護と一口に括れど、その実態は多岐に渡る。

 災禍の回避に傷病の低減、瘴気への耐性や精霊力の多寡に至るまで。上位の精霊であればこそ、その恩恵は無意識にも顕著に宿主を支えているものだ


「だが加護の強大さはそのまま、身体が覚えるべき痛みさえも肩代わりをしてしまう。

 ――晶。半年前まで、練武に血反吐を覚えていたのを忘れたか」


 厳次げんじの指摘に、晶も力なく首肯を返した。

 半年前と比べ、劇的に鍛錬の負担が減った現実が身に染みる


「肉体の低下は即ち、加護を享ける器の劣化に他ならない。

 加護を十全に享ける為にも、この鍛錬は重要視される」


 女性の身である咲は見逃されがちであったが、八家の衛士と立つなら今後は無視もできない分野だ。


 ――それは、八家へと昇任された晶も同じである。

 これまで晶は、強大な加護に任せた戦闘しか行って来なかった。


 莫大な加護に加え、視るだけで精霊技せいれいぎを修得する特技。

 これらを以てしても決して贖う事の叶わない、身体能力という現実。


 否応なく自覚せざるを得ない。――それは、己と云う限界だった。




 咲から遅れる事、半刻1時間後。

 奈切迅を連れた弓削ゆげ孤城が、練武館の門を潜った。


 休日ゆえか、周囲を窺っても人の気配は疎ら。

 鼻を鳴らして、迅が肩を竦めた。


「……もう、捌けたんじゃないですか」

「陽も昇り切ってない内に厳次げんじの奴がアガれば、明日は雪を疑おうか」


 何しろ、使用していない事実を言い訳に、守備隊の一室で寝泊まりしているのだ。

 騒動も一段落を越えた貴重な休日。友人が鍛錬以外で潰す光景を、孤城には想像もできなかった。


 簀子を軋ませつつ、引き戸を開け。


「勢ェリアアァァッ!!」

「――脇が甘いぞ、腰を浮かすな!」


 ――途端、飛び交う号声に、孤城は自身の想像が正答した事を理解した。




 木刀テイの刃筋が噛み、一合と持たずに片方が弾かれる。

 足ごと持って行かれるほどの威勢。刹那に浮いた踵を、鍛えた体幹だけで晶は耐えた。


 痺れの残る二の腕を誤魔化し、晶は素早く間合いを測る。


 ――3間5.5メートル


 ふ。呼気を残し、姿勢も低く晶から間合いを詰めた。

 ――対する厳次げんじは、上段に構える待ちの姿勢。


 厳次げんじの戦法は、基本的に一つだ。

 技巧を正面から打ち破る上段剛の太刀。余技など不要と言外に断じる姿勢は、防御は当然、回避も難しい。


 未熟な晶にとって、厳次げんじより先手を奪うことは絶対の条件であった。


 縮地と見紛う速度で、懐に飛び込む。

 真っ直ぐな勢いで左の踵を落とし、脇構えから平に薙ぐ。


 ――撃音。木刀が悲鳴を上げ、樫材の表面が削れた。

 斬撃が飛び交い、幾重にも鈍く刃金の噛み合う音が響く。


「速度に逃げるなっ、体幹で耐え貫かんかぁっ!」

「――破ァアァッ!!」


 太刀筋に甘さが浮く度に、厳次げんじから放たれる一撃と叱責。

 体格差からどう考えても無茶な指示に、それでも晶の威勢いきが喰らい付いた。


 大気を圧し爆ぜる激しい撃音が飛び交い、それでも精霊力は一切が凪いでいる。

 精霊だけ静かなままに、その試合は熱量を帯びて続けていた。




 手合わせの順番がきて、咲と入れ違いに。

 漆喰で壁に背中を預けて一息を吐いた晶の隣に、男性の気配が立つ。

 人払いをしていた道場に、誰かが入ってきたことは気付いていた。


 それが、ここ最近で良く知った相手である事も、同様に。


「精霊を極限まで抑えて、身体を鍛錬する訓練。……奧伝に到る辺りで重視されるが、もうその段階に至っているとはね」

弓削ゆげさま。阿僧祇あそうぎ隊長に御用ですか?」

厳次げんじは序で、今日は君の用向きだ」


 弓削ゆげ孤城の視線が、晶から離れていない事は気付いていた。

 三宮四院であれば勿論、八家であっても神無かんな御坐みくらの魅力には抗えないものか。


 垂涎の価値を有する少年を前に、口調だけ穏やかに高天原たかまがはら最強は口を開いた。


陣楼院じんろういん家は神楽かぐらさま共々に、急ぎ伯道洲はくどうしゅうへと帰参なされた。

 ……真崎さねざきの一門が蝕まれていた事実に、華族の実態を把握するためだ」

しろ・・さまの金睛でも滑瓢ぬらりひょんを看破できなかったのですか?」


 伯道洲はくどうしゅうの大神柱。月白つきしろが有する双眸は、全てを見透す金睛である事は有名な事実である。

 伝え聞いた限り、その両眼は虚実を見漏らした事がなかった筈だ。


「金睛であれ万能じゃない。

 何せ真崎さねざき家には噂の一つも無くてね、怪しむ事も無かっただけだ」

「神託を誤魔化す手法。厄介なものですね」

「そこまで大掛かりなものじゃない。真崎さねざき之綱ゆきつなの在任こそ永いけど、領の運営は至極真っ当に過ごしていたからだよ」

滑瓢ラーヴァナが真っ当に、ですか。

 ――否。ああ、そう云う事ですか」


 ラーヴァナの成りすましにしては、意外過ぎるほどに大人しい評価。

 疑問を浮かべ、晶は頭を振って思考を切り替えた。


真崎さねざき家は、山巓陵に侵入するための経路だったからか。

 万一にも疑われて、八家の資格なしと評価されれば目も当てられなくなってしまう」

「報告に依れば、ここ最近は所用で領を留守にしていたことが増えていたらしい。

 その時期が『導きの聖教』の活動時期と重なっている。恐らくは、神父ぱどれとして聖教を率いざるを得なかった時だね」


 伯道洲はくどうしゅうからすれば、『導きの聖教』は洲を越えただけでしかない。

 朱華はねずの神託も、ベネデッタたちのも曖昧では精彩を欠いていた。


「ともあれ、央都での所用が終わり次第、私も伯道洲はくどうしゅうに帰還する予定だ。

 最後程度、君と阿僧祇あそうぎに顔を会わせておこうと思ってね」

弓削ゆげさまには、色々とお世話になりました」

「何の。不謹慎かもしれないが、ここ暫くは実に痛快だった。

 ――あぁ。訊いておこうと思っていたことが、あと一つ」


 用は終わりとばかりに、壁から背中を離した孤城が振り返る。

 意外なほど真摯な口調に、隠しきれない好奇心が滲んだ。


「はい」

佳月煌々かげつこうこうとは結局、如何なる技術だったんだい?

 君があれを看破し得たのは、正直、予想外だった」


 精霊力を瞬時に加速させ、水行の精霊技せいれいぎを瞬時の行使へ至らしめる雨月の異伝ことのつたえ

 断片的な雨月颯馬そうまの会話からは詳細を詰めきれなかったと、孤城が告げた。


「答えたくなければ――」

「単純に云えば、現神降あらがみおろしを直接、精霊器へと叩き込む技法です」


 引き下がろうとする孤城の言葉尻を捕らえ、晶は言葉を紡いだ。

 僅かに迷う。それでも孤城なら、時間を掛けても真実へ辿り着くだろうから。


 颯馬そうまも迂闊であろうが、衆目に晒し過ぎた。

 この精霊技せいれいぎは、多くの意味でその転用が難しい。――情報を素直に開示する事で、晶は恩を売る方を選んだ。


「前提情報として、現神降あらがみおろしの行使に火行と水行の違いは無かった事です。

 ……つまり内功としての精霊力に、五行の違いは無いのでしょう」


 それは、神無かんな御坐みくらとしての晶だからこそ、気付けた事実でもあった。


 精霊技せいれいぎは大きく、内功と外功の二系統に区別されている。

 精霊力が五行の質を帯びるのは、この内、外功として精霊器に注がれた時点からだ。


 重厚く、揺らがない水気の質は、そのまま精霊技せいれいぎへ転用するのは不向き。

 故に、精霊器から放射して加速させることで、精霊技せいれいぎとしての安定と威力の増加を図っているのだ。


 加速と云う1点だけ見れば、佳月煌々かげつこうこう現神降あらがみおろしに違いは然程ない。

 そこに在るのは外功と内功の違い。即ち、精霊器と肉体の違いだ。


 佳月煌々かげつこうこうとは、気付きの問題でしかない。

 現神降あらがみおろしとして加速させた精霊力を直接、精霊器へ注ぎ込むだけの気付き。


佳月煌々かげつこうこうとは云わば、精霊器を対象にした現神降あらがみおろしです」

「聞くだけは簡単だが」

「誰もが知っている単純な術式ですから。ですが運用は繊細過ぎて、課題が山積みです」


 加速させた内功を、外功へと転用するのだ。

 そのままの精霊力が残留していた場合、加速した精霊力と干渉して暴発が起きる。


 行使した最初、暴発は晶も初めての経験であった。


「その程度は、私の技量が問われるだけだ。

 ――感謝する。新しい時代が見えた気がするよ」

「いえ。弓削ゆげさまであれば、より運用も洗練されるかと」

「さてね。……それは君の役目だろうと、私は予想しているが。

 ――不破ふわ殿との会話で、君が話題に上ったよ」


 孤城が話題を変え、先日に会った不破ふわ範頼を思い出す。

 初めて会ったが、懐かしささえ覚える口調。己が教導の師であった、不破ふわ直利の実兄だ。


「何と、 、」

「八家の中で最も年齢が近い同士。過去を別に、友誼を交わした仲でね。

 彼が君を心配していた。400年前の出来事で、彼も君を他人事と思えないのだろう」

「そうでしたか」

「互いに思う処は有るだろうが、忠告は素直に聞いておいた方が良い。

 ――一旦は、華蓮かれんへと戻るのだろう?」


 図星を指され、晶は苦笑した。

 廿楽つづら華蓮かれん何方どちらに郷愁を残しているのか、天秤さえも己の心の裡で揺らいでいるだけ。

 結局、答えすら晶にも見えないのだから。


 何時の間にか、厳次げんじと咲の手合わせも終わっていた。

 用事を済ませるべく、孤城が厳次げんじに向けて一歩――。


「――そう。佳月煌々かげつこうこうの礼に、一つ」

「礼など不要ですが」

「まぁ、聞いておきなさい。知識には知識を返すが、順当だろう?」


 有無を云わさず、孤城が言葉を紡いだ。


精霊技せいれいぎは大別して、初伝、中伝、奧伝と分かれているのは知っているね。

 ここには厳然と、法則性が与えられている」

「威力や難易では?」


 それも一つ。単純な晶の発想に、孤城は肯いを返した。


 精霊技せいれいぎとは極言、武術に精霊力を乗せる技術だ。

 主としてその発現は、武技の伸長を目的としている。


 威力は勿論、射程や範囲。武技の何を伸ばすかで、精霊技せいれいぎの伝は決定されるのだ。


「初伝では、基本的に伸ばすものは一つ。中伝は二つ以上か、一つを極める」

「奧伝は?」

「己が五行を極める」


 短く返された言葉に、晶は己の掌を見下ろした。

 奧伝の一つである彼岸鵺ひがんぬえの行使は、未だ鮮やかに晶の心の裡で燻っている。


「奧伝の次が設けられていないのは、此処ここが最終地点と誰もが確信しているから。

 ――だが精霊力は本来、限界が無いはずだ。それでは、余りにも情けないと思わないかい」

「奧伝の次があると?」

「私も、そして野心あるものはそう思っている。――それこそが、未だ見ぬ極伝の技術」


 子供の如く瞳を輝かせ、眼前の高天原たかまがはら最強が声を弾ませた。

 己が五行を極める事で奧伝に到るなら、その次は――、


「五行を越える。それこそが精霊技せいれいぎの目指す極致」


 この領域に至ったものは存在しない。だが、最も近いとされている精霊技せいれいぎが二つある。


「それこそ、雨月の佳月煌々かげつこうこうと私の天籟てんらい何方どちらも、既存から外れ掛けているからね」

佳月煌々かげつこうこうを知りたかった理由ですか。

 ――あれは現神降あらがみおろしの応用に過ぎず、期待外れで申し訳ありません」


 晶の呟きに、孤城は苦笑を浮かべた。

 未だ気付いていないだけ、晶は既にその片鱗を有している。


 もしかしたならば、晶こそ極伝に手を掛ける最初の一人になるのかもしれない。

 戸惑う晶を見下ろして、今度こそ孤城は身体をひるがえした。

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