3話 明暗を指す、大斎の烏鷺4
「これより、大斎を開催とする」
高御座の媛君が告げる声に倣い、
幾重にも絹が細々鳴り、家紋を示す旗が僅かに揺れる。
捲られる最初の頁へと万年筆が落ち、さらりと淀みなく紙面を滑らせる音。
「予定通りに神嘗祭を迎えた由、――先ずは四院の尽力に感謝を。」
「「是非も御座いませぬ」」
一斉に唱和して返る四院当主たちの声に、周は内心で安堵を吐いた。
その中でも、三宮四院八家のみで年次の大綱を決定する初日程は、八家へ連なるものにとって最大の特権とされていた。
だがその名目も、真実を知るものたちからすれば余禄でしかない。
三宮四院八家だけで顔を会わせるこの日のみ、
神代契約の要となる八家本来の役目。神嘗祭の初日こそ、人と神柱の立つ距離が限りなく狭まる瞬間。
周は脇息へ頬を突く高御座の媛君へと、視線を戻した。
例年なら高御座は一切の口を挟まないが、今日に限って鷹揚に口を開く。
「大斎に先立ち、アリアドネの神子を歓迎しよう。
――前へ」
「御前、失礼します」
青天の霹靂とも云える出来事に騒めきが抑えきれない中、ベネデッタが高御座の前へ用意された几帳へと腰を下ろした。
「御目通りが叶ったこの善き日、永く途切れぬ縁として祝福を」
「うむ。其方の願い通り、百鬼夜行助力の報償として大斎の前に交渉を持った。
異存は無いかな」
「はい。……過分の配慮、感謝いたします」
――相手は神代すら知る大神柱。流石に手強い。
低姿勢を相手にすると、誰しも景気よく振舞わざるを得なくなる。
眼前に座る金色の神柱は従容とベネデッタを受け入れたものの、返す言葉だけでそれ以外の色気を撥ね退けたのだ。
利益を優先した初手を素気無くされ、微笑みを崩さずベネデッタは内心で歯噛みした。
各洲と随従する華族たちは以降の1年、決定された大綱に沿って大枠の行動を決める。
ベネデッタが最も重要視したのは、大綱の内容がこの1年で変更されることは無いという事実。
ベネデッタ主導の下で
そうすれば、
その為にも
大前提となる目的だけは達成されたものの、それ以外に色気を出すのは難しくなってしまっていた。
「軍事。それも
――鉄の時代、それほどまでに脅威と気付いたかや」
「嘗て西巴大陸の神柱は、100数余柱も龍穴を満たしておりました。
……ですが現在、把握できる限りでは80余り柱までにその数を減らしています」
であろうさ。金色の双眸が憂いに伏せられ、桜色の唇から納得の呟きが漏れた。
鉄の時代とは、ただ龍穴が塞いだだけの現象ではない。
精霊が神柱と共に消失し、世界の循環が緩やかに停滞するのだ。
1年2年で影響の出るものでは無いが、それは緩やかに、そして止めどない綻びとして現世に現界する。
最大の問題は、西巴大陸の神柱総てがアリアドネ聖教の眷属神となってしまっている事だ。
大陸中から集約された霊気によりアリアドネ自身は盤石を保っているが、眷属と変わった神柱自身の総量が変わった訳ではないのだ。
――如何なアリアドネであっても、西巴大陸総ての神柱を支えて存続など出来はしない。
龍穴の減少と同時に
神柱の崩壊が何を招くのか、それは高御座の媛君をして未曾有の災害であった。
「其方たちが鉄の時代と呼ぶそれは、私たちが
我らの加護が消え、やがて万死に沈む世界の理よ」
「この現象、御存じでしたか」
「然り。ラーヴァナめも、随分な置き土産を遺してくれた」
ラーヴァナ。その響きに、会した一同へと騒めきが奔る。
幾度となく聞いた堕ちた神柱の名前は、退けて尚、脅威を宿していた。
「鉄の時代はラーヴァナの罠と?」
「奪われた
その事実をしても、高御座の想像は一定の真実を射抜いていた証拠だろう。
西巴大陸を平定したアリアドネは、既に支える神柱の総量が限界に来ていたはずだ。
後は、何も無くなった己の龍穴へと戻れば良いだけ。
そうなってしまえば、止めるものは字義通り誰もいないのだから。
しかしその策も、晶が
「寸前で、危機は回避された訳ですね」
「さてな。――
なれば何れ、同じ事は起きるであろう」
高御座の媛君が告げた預言に、ベネデッタは僅かに唇を噛んだ。
神柱の預言を享けるまでも無く、論国を始めとして既に拡土主義は西巴大陸の政治構想へと組み込まれている。
今更、
「であれば、この交渉こそ我らの救世たらんでしょう。
高御座の媛君よ。何れ覆う鉄の時代を回避するため、恩寵の御子たる晶さまを西巴大陸へと送っていただきたい」
「……黙って聞いていらりゃ、西の多情が晶に色目を遣っただけかや」
勢い込むベネデッタの口を、晶の傍らから
言葉は無いまま、
「止めや、
「如何な
アリアドネは、妾の庭先を幾度となく荒らしてくれた。此度の弄言も、聞く価値すら覚えぬ」
「これは其方の問題に非ず、
――
「……鉄の時代が本格的になれば、
どうか御再考を」
「不要」
云うべきは告げたと、高御座は金色の瞳を伏せる。
無言の内に交渉の終了を告げられ、ベネデッタも軽く一礼だけを返した。
確約こそ貰えなかったが、晶の勧誘に対しての不干渉は前進であろう。
その事だけが今回の収穫と、ベネデッタは次に打つ手を思考しながら立ち上がった。
これ以降で扱われる情報は、基本的に機密相当のものが続くからだ。
一つの洲につき、凡そ
「
雨月が八家の座より欠落至りました事、
「宣言を預かりましょう。八家一同に、異論はありますか?」
これもまた報告済みか、それとも全員が事情を通達されていたのか。
全員の視線を一点に集め、挙手をしたまま老人が立ち上がる。
十代の砌より、
「八家第六位、
――発言を宜しいでしょうか」
「
静美の視線が老躯を射抜いた。
常人なら逃げの一手を打つほど鋭い眼光もどこ吹く風と、好々爺然とした微笑みを少女へ返す。
「異論など畏れ多い。
ただ、
「――神嘗祭の初日程に、八家当主が中座など赦される訳も無かろう」
老人の思惑を探るべく
「
此度の神嘗祭を際に、当主の座を退くと決意したまでに御座います」
証拠とばかりに、老人が傍らを手で示す。
紹介された壮年の男が、座るままに深く一礼をした。
「八家の方々へのご報告が遅れました事、謝罪いたします。
此度より
「三宮四院の方々には報告を済ませております故、ご安心を頂きたく」
腹蔵するものを窺わせない晴れやかな笑みが、老人の口元を彩る。
「暫くは
「……食わせものめ」
引き留める声もないまま
鮮やかに辞去した
♢
「
気付いた次の瞬間、雨月天山は螺鈿の間へと足を下ろしていた。
定期的な整備は欠かしていないのだろう。滑らかな藺草の感触が、天山の足裏を迎える。
己のこれまでの人生、裁いてきたことは多々あれど、裁かれた経験は天山に無い。
天山の人生で最大の恥に浮足立ち、2、3よろめいて腰から崩れ落ちた。
「父上!」
「
己を案じる、一人息子の声。
声に
下座のそれも最下段に座る息子の姿に、安堵を浮かべて立ち上がる。
「父上に比べれば何ほどの事も無く。
「判っておる。奴ばらめ、のうのうと
助力の願えそうな相手となれば、――
400年前の内乱仲裁より、雨月家と
助力と
「主家さまの信頼は、相当に貪食されている様子。
奴を誅滅せんとした僕を捕らえたのは、
「そうなると
――奴が精霊無しと、能く説明はしたか」
天山の疑問が重ねられ、
その様子からして、説明はしたものの聞く耳を持たれなかったといった辺りだろう。
「……そうか」
気落ちする息子を慰めるように、天山は短く慰めの言葉だけを掛けた。
「誅滅と云うことは、奴と戦ったのか」
「呪符で
「そうか。――次は勝てるか?」
「はい!」
天山の探るような問いに、
この時点までの晶の戦闘手段は、
焦りから神器を抜刀しかけたが、相手は精霊器も持ち合わせていない哀れな残り滓だ。
冷静に対処すれば容易く勝利も手にできると、
その言葉を満足気に、天山は一筋の光明を見出した。
雨月家が晶を追放した理由は、大きく別けて3つ。
勉学に乏しく剣技に遅れが目立つ。何よりも、精霊が居ないその体質。
そのどれもが、雨月当主としての資格を有していない事を示していたからだ。
「ならば最悪、奴の無能を晒し上げて、我らの正当は主張できるな」
「――それは、止めた方が宜しかろう」
穏やかな口調が、天山最後の希望に水を差した。
天山の視線が周囲を見渡し、やがて
「
「八家から外れた其方たちじゃ、誰も其方たちの罪科を説明しておらんと思っていれば。案の定よのう」
その場へと、
緩やかに胡坐を掻く老人は、穏やかに白が目立つ顎髭を
「我らの罪科、だと? 無能を一匹、雨月から放逐しただけの話。当家の勝手を、何故ここまで咎められねばならん」
「無能であればこそ、確かにその主張も通ったであろうさ。
――そう。無能でないからこそ、誰もが其方たちを咎めているのだ」
漸く、天山の思考へその事実が結びつく。
精霊無しという事実を、雨月天山は散々に繰り返して主張をしてきた。
居合わせた全員が、その事実を耳にしている。
その上で誰もが、驚きも見せずに天山の訴えを切り捨てているのだ。
「我らが何か、知るべき真実を喪っていると」
「さよう。漸く見る目を戻したな」
天山の呟きに、之綱が含みのある嗤いで肯定を返した。
「慶べ、雨月当主。其方に八家として生き残る可能性を教えてやろう」
皺の目立つ
「――
螺鈿の間へと、何処か薄暗く気配が落ちた。
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