3話 明暗を指す、大斎の烏鷺3
ちゃぷり。視界が晴れ渡り、波打つ囁きが耳朶を打つ。
遠く山稜を背に、見渡す限りの湖が視界へと。
その中央に建つ四阿に居るのだと、暫くして晶は漸く気が付いた。
吹き渡る微風が、心地良く頬を撫でて過ぎる。
「変わらぬのぅ。
――と云いたいが、百鬼夜行の影響は深刻か」
「そのようですね、風が吹いている」
傍らに立つ朱金の童女が、周囲を見渡して眉を顰めた。
応じる
「特に壊れた跡はありませんが」
「
其方たちが視る光景の条理は、余り意味を成さん」
「――普通の風が迷い込んでいるのは、神域と現世が近しくなっている証左でしょう」
「原因は庚神社の陥落ですか。
申し訳ありません。己が不明を恥じるばかりに」
晶たちの後方に控えた
山ン本五郎左エ門にパーリジャータを奪われ、五行結界崩壊の発端を赦した責任は彼女も強く自覚している。
「庚神社を撃ち抜かれた原因は、寧ろ、
恐縮する少女へと首を振り、安心させるように
仕方が無いとは云えど、不用意に火行を先行したのは彼女たちの判断だからだ。
「それに裏要が貫かれた時点で、外殻は消えても本丸は無事でした。――影響が皆無とは云いませんが、直接の原因ではないでしょうね」
高御座の媛を名乗る土行の大神柱の要請により、粉々に砕ける水晶の欠片。
「真逆、」
「晶さんの想像通りでしょう。
恐らくですが、ラーヴァナを現世へ弾き飛ばすため、霊道の繋がっている山巓陵の最表層を破壊したのかと」
「――故に咲よ、気に病むことは無い。
あれは
くふ。
伸ばした腕の先までが乳白色に染まる中、晶の掌を暖かに指先が包んだ。
「どうした? ……随分と安心しているようじゃの」
「はい。ここまで静かな場所は初めてなので」
穏やかな晶の応えを耳に、咲は周囲を見渡した。
何時しか風も止み、凪いだ湖面が揺らぐ囁きを返すだけ。
確かに静かではあるが、人の気配がしない程度は珍しくもない。
「……普通じゃない?」
「――精霊の騒めきが聞こえないのですよ。
視線を巡らせる咲の疑問に、最後尾から答えが返った。
振り返る全員の視線を受けて、金髪碧眼の女性が柔らかく微笑む。
要山防衛に合力した報償として、それこそがベネデッタ・カザリーニの求めたものであった。
流石に許可が下りたのは、ベネデッタの一人だけではあったが。それでも破格の待遇である事実に間違いなかった。
「本来、精霊が満ちていなければ、龍穴の維持に届かないはずですが」
「土行の神柱が司る象は、万物にして基礎。
他行を模倣するその特性から、土行は単体で世界の維持を可能とします」
単独で五行の再現が叶う高御座の媛君は、神域を精霊で満たす必要を持たない。
土行の精霊が希少であり、その龍穴に精霊が存在しない理由だ。
「精霊の介在しない山巓陵では、殆どの加護に斉しく制限を課せられます。
――
「はい。
晶たちの先頭に立つ
皮肉を込めた釘刺しも涼し気に、ベネデッタは肯いを返した。
揺らめく乳白色が、やがて外界より渡る微風に浚われていく。
次第に明瞭となる視界に、先刻までは無かった透渡殿が映った。
山巓湖の
キ、キツ。足元に渡る檜の床が鶯の軋みを響かせるまま、迷うことなくその先へ。
「あら」
意外そうな紫苑の呟き。
同時に透渡殿の向こう側へ、突如として生まれる人の気配。
突然の対面に、両者の歩みが互いに止まった。
――亀甲紋に九重結び。
先頭を歩く少女の胸に揺れる、
その隣へ立つ年齢10ばかりの少女が、視線を上げる。
黒を基調とした単衣が踊り、双眸に黒曜の輝きが蘇った。
「晶!」
思いの丈を届けとばかり、叫んで一歩。
その先を遮る朱金の少女に、落ちる爪先が気配ごと凍てついた。
「妾の
「
勝ち誇る朱金へと、平坦な口調が迎え撃つ。
平穏の皮一枚で煮え滾る
「現世で
「現実を見遣れ。別に何処であろうが、妾の勝利に疑いは無いわ!!」
静寂は僅かな間。朱金と黒曜が舞い踊り、睨み合う狭間で鬩ぎあった。
内圧が膨れ上がり、透渡殿が持ち上がる。
「――おや」
爆ぜ飛ぶ神気が山巓陵を揺るがす最中、玲瓏と呟く声が響き渡る。
湖の
――鷹の羽紋の俵を囲み、尾を噛む虎の三つ巴。
先頭を歩く女性の胸元で揺れる家紋は、西部
その隣で歩を進める真白の佳人が、双眸を閉じたまま愉し気に微笑んだ。
「
「「
涼やかな口調のまま、
その後ろから
「現状を鑑みれば、無知を放置など愚策も良い処よ。
――そうは思わんか?
「だからと、率先して手を突っ込もう気にはなれんわ。
――
青を基調とした着物を
東部
その隣に立つ女性2人の胸元で、青く錦糸に縫われた家紋が揺れる。
――竜の爪。掴むは結び
東部
神気が四方で渦巻き、台風の目の如くその中央だけ静けさが渡る。
そこに立つ全員が油断なく睨み合う中、慎重に
「四洲総てが通廊で顔を合わせるとは、これも高御座さまの差配でしょうか」
「この惨状を見れば、致し方無しかと。
神域の深部を乱すよりは、
「――これは一体、
「控えよ、
彼女の疑問に応える静美の後方より、堪えぬと云わんばかりの疑問が上がった。
晶の記憶に刻まれたその声音は3年前より褪せる事無く、晶の感情を掻き乱す。
意図をと問われ、
「さて、私の仕儀とは?」
「知れた事。そちらに雨月家の嫡男が同道していると聞き及んでいますが、
――雨月家
「さて? 雨月家の嫡男と問われても、
天山に伝わっている情報は、雨月
三宮四院は嘘を吐くことが出来ない。
だが、同じ院家である
だが、嘘を吐けない前提も、届いた情報自体が間違っていればその限りでは無い。
最初に聞いた相手へと、天山は鋭く視線を巡らせた。
「……嘘は口にしちゃあ無ぇぜ、雨月殿。
俺が伝えたのは、御子息が
その先に立つ
「だが、居らんではないか。知っているなら、真実を伝えて貰いたいものだが」
「おいおい。忘れてやっちゃあ、薄情にも程があるってもんだぜ。
――雨月殿の子息なら、そこに立っているだろうに」
「な、に、 、 ?」
予想もしなかった返答に、天山の
巡る視線が晶の周囲を幾度か往復し、
――やがて、感情すら乗らない晶の視線と交わった。
「真、逆――」
呆然と、やがて天山の形相が嚇怒に歪む。
その醜態も何処か他人事に、いっそ穏やかな心境で晶は言葉を紡いだ。
「お久しぶりです、雨月天山」
「――死なずの挙句、生き汚くも神域を
嘗て、忌々しく名まで与えた存在が、我が物顔で
その現実を目の当たりに、天山から激情の侭に精霊光が散った。
周囲からひた隠しにしてきた精霊無しの存在を、
――間違いなく、在りもしない雨月の風評が撒き散らされている。
思い返すのは、
練り上げた精霊力が猛るままに、懐へ忍ばせた精霊器に手を掛ける。
「おっとぉ。殿中だぜぇ、雨月
――その狼藉は、見逃せんなぁ」
「貴、様、 、
引き抜こうとした脇差と、
天山の手元から噴き上がる精霊光が、
暫く耐えるが、練り上げた精霊力の拮抗も尽き、天山は弾けるように距離を取った。
無能の精霊無しなら一撃で済むが、
「警告だ
そうすれば、 、」
「――何と吠えた?
厳然と童女の神柱から返る声に、天山の舌の根までが否応なしに凍てついた。
言葉を喪った雨月当主を、
「分を弁えるのは貴様よ。この神域は、野良風情が立って赦される場所ではないぞ」
「……が、か」
牙を剥く
平民であれば潰されるほどの重圧を、全精霊力を防御に回すことで必死に過ごす。
惨めに床へと平伏させられた天山を、
「……のう。
儂、一寸だけ怖い」
「お言葉ですけど、400年前の
――と云うか、
「あ。それは禁句だと云うたであろ。
持ち出すのは卑怯と、儂は思うのじゃが」
「
その光景に引いた青蘭の呟きに、
基本的に爛漫な青蘭だが、故にこそ激情にも流され易い。
過去に起きた荒神堕ちは三度。
「お主、真実に儂の巫か?
――翠も何か、云ってくりゃれ」
半泣きになりながら、
何処か子供っぽい主従の会話。額に手を当てた翠は、渋々と口を開いた。
「誉。この状況を他人事にしないで。
間違っているとは云わないけれど、状況を作った原因の一端は貴女の判断よ」
ちらりと視界を巡らせる。南北の喧騒は、予想通りの推移を見せていた。
――理想を云えば、もう少し場も落ち着けば良いけど。……捕らぬ狸かな。
問題は
孤城へ視線を向けると、僅かに返る肯い。
その瞬間、渡る風が渦巻く感情を浚った。
静寂が場を支配し、――金色が四洲の中央へと爪先を落とす。
熔ける黄金の輝きを宿した眼差しが周囲を巡り、晶へと見止めて微笑みを浮かべた。
我に返った晶が、周囲を見渡して驚愕した。
十字路であった透渡殿が、何時の間にか幅五つ分も広がった一本道に変わっている。
「さて。子等も落ち着いたね。百鬼夜行を越えて一堂に会せた事、先ずは言祝ごう」
無駄に場を賑わさないとばかりに、巫女衣装に似た単衣を
その後背を、
やがて気配が遠ざかり、残るは
足を踏み出した
神威の圧力が薄れる。安堵の侭に息を吐いた天山が、静美たちの後を追うべく立ち上がろうと、
「私は、
――静美から冷然と投げられた支配の言霊に、再び天山は床へと膝を衝いた。
「義、王院さま」
「――ここから先は、八家当代のみの参加が赦されている。
八家の役目を捨てた其方に、立ち入る資格はない」
「お待ちください。私共は――」
「
――
螺鈿の間は、山巓陵でも使用されることの少ない広間の一つ。
――その主な目的は罪人の処断。
揺らがぬ圧力は
♢
先導する金色の先が、やがて晴れる。
その視界に映った光景は、意外なほど質素な内装をした大広間であった。
各洲の家紋が縫われた旗の間を進み、高御座の媛君が広間の奥座へと。
控えていた三人の女性が、軽く頭を下げて歓迎の意思だけを寄越した。
一同を睥睨し、熔けるほどの微笑みを金色の神柱が浮かべる。
「不純物に聞かれる
脇息に頬を預け、高御座の媛君が口を開いた。
漸く待ちに待ったその瞬間。
「これより、
厳粛な雰囲気の中、
――
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