2話 日々は続く、埋火の如く3
百鬼夜行の翌日。動員された衛士候補たちに被害があっても、日常は表面上の穏やかさを保ったままであった。
守備隊は云わずもがな。死亡率の低い防人や衛士であっても、
慣れぬ学友の喪失をそれでも、続く日常が構う様子は無かった。
短い哀悼を手向けに、死者はただ過去へと置き去りにされる。
日常の優先は生者の義務だと、口にしないだけで誰もが知っていたからだ。
だが、百鬼夜行の影が拭えた訳は無く、誤魔化しきれない現実が日常の随所で軋み上げていた。
最近では日常と変わり始めた、中央棟での昼下がり。
――夜劔晶と
「これが、俺の最後の隊服
「他には無いのね?」
「防人昇任の折りに頂いた隊服は3着です。
ものが簡単に縫製できないとあって、ここまで消耗する一方でして」
肩から大きく斬り裂かれ、細かい裂傷は無数に散らばっている。
……何というか。
無理に袖を通していると云うか、辛うじて身体に引っ掛かっているだけと云うか。
激戦を潜り抜けた隊服の末路を目の当たりに、咲も思わず頭を抱えた。
咲の隊服だってほぼ似たり寄ったりなのだから、何とも言葉が出ない。
彼女の場合は
同じ結果に陥っていないのは、純粋に元々の立ち位置が違うからに過ぎない。
晶の制服を、よく似た守備隊の隊服で間に合わせていたツケ。
修繕が追い付かない果ての惨状は、予備の隊服すら尽きた結果であった。
――と云うか、異常なのは晶の経てきた戦歴の方だろう。
央都に至っては、絡新婦の殲滅から大神柱ラーヴァナによる百鬼夜行の終息まで。
防人昇任から考えても、たった三ヶ月足らずの間。並みの衛士と比較すれば、戦闘の質と量は異常なまでの規模に上るのだ。
一戦につき、隊服が一着。そう考えれば妥当な結末か。
「大きな戦闘もそうだけど、普段の任務でも無傷じゃなかったしね。
裂傷なんかはどうしていたの?」
「……俺たち練兵は縦の繋がりこそ細いですが、横は意外と広がっています。
勘助が顔を繋いでくれた縁は、繕い仕事程度なら安く仕上げてくれるので」
練兵となるものは、基本的に地方から集まった子供たちだ。
縁も無く、財産に覚束ない彼らが頼るのは、同じ境遇に立つ練兵たち。
彼らの多くが丁稚となる職種は、知らぬものが想像するよりも遥かに多岐へ渡る。
反物問屋の丁稚である勘助は、似た職種である洋裁店との知り合いが非常に多いのだ。
「縫製問屋なんて、そこらにあるでしょう」
「
それに、隊服は頑丈です。畳針は当然、
「通常の戦闘は当然、瘴気にもある程度は耐える設計だしね。
だけど、これは手抜きじゃない? やっつけ仕事も良い処に見えるけど」
大きく解れた、肩口の縫い目をなぞる。
――指先に残る、
「随分と硬い糸ね。安物かな?」
「――晶さんが頼んだ店は、防人の隊服を扱った経験がないのでしょう」
「
頑丈ではあろうが、柔軟さを感じない危うさ。
思わず零れた咲の本音に、背中から応じる声が響いた。
聞き慣れた声に背筋を伸ばす。
2人が振り返る視線の先には、
「練兵の頃から世話になってきた店です。
安くても丁寧に仕上げてくれる、店主の
「防人からの隊服は、ただの衣服ではありません。
手触りこそ同じ布だと思われがちですが、素材からものが違います」
世話となった相手への酷評に、晶が不満そうな表情を浮かべる。
そこは疑っていないと応え、
「頑丈であるほど良いのでは?」
「戦闘であればこそ、確かに。ですが、程度や限度に差があり過ぎます。
恐らくその糸は、市井で入手できる最高強度のものなのでしょう。
洋裁店は、晶さんの依頼に頑張った方かと」
見た目や手触りが同じだからこそ、この陥穽に気付き難いだろう。
防人の隊服に施されている処置は、例えるなら鉄板を荒縄で結い付ける行為に等しいのだ。
鉄板を結わえた鎧は刃も矢も徹さず、一度の戦闘ならば容易く凌ぐだろう。
――だが、二度、三度と続けばどうなるか。
極端な強度の差は、摩耗を一方的に傾ける。
強度が充分であってもその結果、物の寿命は唐突に終わりを迎えるのだ。
「晶さんの戦闘回数は承知していた
急場凌ぎですが、新しい隊服は此方に」
「……ありがとうございます。その、代金は」
見慣れた装いの隊服が差し出され、晶は
隊服は最初にこそ支給されるが、維持は自己責任である。
本来、余程の理由がない限り、再支給も通らない。
「ご安心ください。晶さんの費用は、
僅かにあった気掛かりが、
安堵に受け取る隊服を、咲が傍らから覗き込んだ。
「
――良かったら、私の実家から送ってもらおうか?」
「来年の注文まで埋まってしまっていると聞いていますので、今から縫製しても間に合わないでしょう」
その提案に、
手間だけを指して言及するなら、咲の予想は正解している。
しかし
制服に求められる均一な品質を可能とする蒸気式の
金子の多寡ではなく、設備と技術が圧倒的に不足しているのだ。
「いいえ、違います」
その指摘に尚も、咲は含み笑いを返して見せた。
女性として一歩先んじることが出来た、得意気な笑み。
「兄、
多少の直しは必要でしょうが、晶くんには丁度良いかと」
「ああ。古着ですか、思いつきませんでした」
古着を指摘され、
三宮四院の一角を担う
平民の使い回す思考は、
「いいかな、晶くん。
兄さんは少しだけ
「構いません。ご苦労をおかけします」
防人として守備隊の月俸も入るようにはなったが、続く支出に晶の懐はうら寂しいまま。
有り難い提案に、晶も安堵を浮かべた。
「お話し中、失礼します。
――お見えになりました」
久し振りの穏やかな歓談は、
彼女の口調へ滲む、隠しきれない緊張。
拝礼のまま譲られた前を歩き、少女が音も無く会議室へと踏み出した。
その家格は比類なく。
「機会を設けて下さり感謝します。――
「いいえ、何ほどのものでも無く。
――私たちは、席を外した方が宜しいでしょうか?」
「結構です。是非とも、御同席のほどを」
雰囲気は穏やかなまま、互いの言外に含まれた響きは挑発のそれか。
儀礼でしかない譲り合いを経て、懐かしい想いを宿した少女が晶へと向き直った。
嘗ての
洲都
雨月天山は疎か、それ以外の雑音すら届かない。
――ただ流れるだけに任せた、穏やかな一日。
3年。短くない年月だが、成長する晶たちにはそれ以上の隔たりがそこに渡っていた。
優しい面影はそのままに、代えようもない気品を宿した一つ年上の少女。
「お久しぶりです、静美さま」
「……はい。ご無事で何よりです、晶さん」
嘗て晶と婚約関係にあった
会議室中央の机を挟み、向かい合わせに座る。
室内を占める雰囲気は緊張というより、それに近しい何か。
晶は勿論、静美も言葉を紡げないまま、暫しの沈黙が続いた。
互いに、その自覚はある。
――怖いのだ。
感情を言葉にした途端、何かが壊れそうで、取り返しがつかなくなりそうで。
それでも、漸く繋げたこの時間を、静美は無駄にすることが出来なかった。
ふ。短く吐く息に勢いを得て、決然と双眸を上げる。
「取り敢えず実務から入りましょう。
――晶さんは宜しいですか」
「はい、よろしくお願いいたします」
晶の同意を受けて、静美の後背に控えていた側役の一人が進み出た。
それが八家の一つ
知る術も無いままに、
「議題は主として、百鬼夜行の後処理に関連する対応です。
他の四院の動向が読めない現在、
「――百鬼夜行の際に晒してしまった私たちの隙、
その件に関しては、
些少も悩む様子を見せず、
「やはり、功罪論考は神嘗祭で行われますか」
「ええ。
――今代の
「面識はありませんが、珍しい気質の方なのですね」
柔軟とは変化でもある。
だが基本的に、三宮は変化を好まない傾向を持っている。その気質を良く知る
半神半人たる三宮四院の役目は、神代を繋ぎ止めるための
神代とは過去であり、極言、未来へと変化する現代に逆行する存在だ。
時代の変化を歓迎する三宮四院を見るのは、新しい物好きの
「話の判る方だと思いたいですが、大小の要項に対して、一切の言質を許さなかったのが気に掛かります。
年齢は私たちとも余り離れていませんが、腹蔵するものがあるのでしょうね」
「……
「いいえ。四院には、特に意識も向けていませんでした。
それよりも、各洲の武威を誰が担っているのか、天覧試合を控えて興味津々だったと」
表層だけ聞くならば、武芸の試合を愉しみにするだけの貴人。
しかし、時機が良過ぎる。
発言一つに何を狙っているのか、
何も考えていず、興味だけならばどれほど救われるのか。
「……
「俺が鐘楼山へと赴いた際に接触してきましたから、確実に」
先んじて報告を受けていた
そうでなければ、説明のつかない状況が重なったからである。
「
三宮。と云うよりも、高御座の媛君は
それよりも、向こうの仕儀が何処まで影響しているのか、それを早急に見極める必要があります」
静美は、この件に関する最大の懸念を口にした。
五行結界から最大の出力を得るには、三宮四院が対応する要山で
四院の内、三院までが央都の
上手く行ったからと云って、不満が無くなる訳ではない。
彼女たちの采配が何処まで関与していたか、その結果、不要な被害が広がった可能性もあるのだから。
特に
これらの埋め合わせは、彼女たちをして急務と云えた。
「
「
――対応の遅れに間隙を突かれたか、ラーヴァナが
状況を並べ、その場に座る全員が物憂げに溜息を吐いた。
上位の決定がそこに介在している事は、間違いなく断言できた。
「宮家の責任とだけ追及できれば、簡単だったのですけど」
「……難しいでしょう。仮に証明できたとして、結果論を成果と断じられれば、はぐらかされるのがオチかと」
「やはり、そうなりますか」
愚痴めいた静美の呟きに、
被害は広がったが、その反面で劇的に敵の攻勢が挫かれたのも事実なのだ。
庚神社は陥落されたが、その時点で要山に詰めていた他院は
裏要を崩された反動は相克の霊道を辿り、
一方の
到着が遅れた静美には
宮家が責任を認めたとしても、
「反対に宮家は、表立っての成果を主張できない立場となった訳です」
手詰まりに悩む
「つまり、誰かが言及しない限り、此方の失態も追及できません。
余程の事がなければ、この件は有耶無耶にされるのでは」
「だと良いのですが、追及の可能性がある相手は、三宮御覧に参加する華族総てです。
もし、誰かが何も考えずに責任を求めるならば、此方も対応する必要がありますので」
「されても問題はありません。
口伝に秘匿されている俺が策動の中核を担っていた以上、宮家は全力を以て出しゃばった華族を沈黙させようとするはずですので」
「……そっか。そのまま行けば、晶くんに注目せざるを得なくなるんだ。
前日程のお披露目を過ぎたら、一段落と勘違いしていた」
晶の断言に、咲が納得の声を上げる。
晶の才覚を隠し続けるのは無理があると、思い込んでいたが故の勘違いであった。
「問題は無いようですね。では次に、
……雨月の処遇についてです」
躊躇う
――その瞬間、例えようもなく場の空気が凍り付く音を、誰もが
「今更、聞きたくもないでしょうが、彼らの処分は晶さんにこそ委ねるべきと私たちは判断しました。現状の疑問に思っている事も、出来得る限り応じる用意があります。
時間を掛けたいと願われるならば……」
「――いえ、結構です」
云い募ろうとする静美を制し、晶は搾り出すように言葉を紡ぐ。
ずっと考えてきた。
憎しみも期待も、疾うに涸れ果てている。
どうしたいかとすら、考える事も億劫になっていた。
今も尚、袖を通しているこの隊服と同じだ。
摩耗して尽き果てて、襤褸切れ寸前のそれが晶の過去として絡みついているだけ。
それでも、決断を下す必要があるのだろう。
晶はこの機会を与えてくれた事に感謝と変えて、追放された幼い頃の決意を口にした。
「俺は……」
♢
「――晶さん」
「はい」
感情だけが永く思える、短いその時間はやがて終わりを告げた。
立ち上がって辞去を口にしようとした晶を、懐かしく引き留める声。
返そうとする踵を止めた視線の先に、躊躇うような静美の笑顔があった。
「暫く、宜しいでしょうか」
「――――構いません」
今の晶は、
気遣いから
許可を得たと席を戻した晶に倣い、静美も腰を下ろす。
「大した話をしたい訳ではありません。
――ですが、晶さんがこれまでの3年間何を見てきて何をしてきたのか。是非とも聞かせて欲しくて」
「……下らない、日常の話題が続くだけですよ」
「はい。それをどうしようもなく、一片たりと私も知りたいのです」
本当に下らないだけの3年間だった。
いじけて、挫けて。――逃げた先で、オ
うだついて、練兵仲間と笑い合って。
どうしようもなく幼かった、子供であったことに流されていた。
――掛け替えのない、
嬉しそうに聴き入る静美に、多少、盛った話題で晶は嘗てのように言葉を紡いだ。
――やがて、夢中となる2人を余所に、
懐かしさが見下ろすだけのその時間。
やがて来る終わりも名残惜しいほどに、尽きぬ話題が続いていった。
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