2話 日々は続く、埋火の如く2
百鬼夜行が明けた翌日。
蹂躙の爪痕がそこかしこに刻まれる大路を、晶は
疾走る脇で、怒号が飛び交う――。
「居たぞ。未だ息が有りやがる」
「気ぃ付けぇ! ――油ぞ持って来ぃ、火ぃ神柱さんで蒸し焼きにすっぞぉ」
燻る家屋の隙間から覗く梁の下、瀕死の
散り散りと渦巻く瘴気に中てられたか、刹那に燃え上がる火の粉。
―――
最後の足掻きか、腐臭を纏ったその躯が大きく身動ぐ。
死を臨む膂力に、大きく梁が悲鳴を上げた。
「うわあぁぁぁっっ」
「――退けやぁ、油ば撒くぞ!」
混乱を来す群衆を押し退け、口元を覆った男が油壺を投げる。
陶器の割れる音。――途端に、炎が周囲を舐めた。
五行の内、陽の極致に相当する火行は、破壊と浄化を司る。
在るだけで総てを灼き祓う炎は、経験のない央都市民にも可能な浄滅の手法だ。
本音を云えば清め水で浄化したいが、限りのある清め水を
―――
火焔に
やがて苦鳴も尽きたか、男たちが睨む先でその骸は青白く炎へと沈んでいった。
ほう。やがて誰からでもなく、周囲から安堵が漏れた。
誰からも嘲笑は上がらない。これまで五行結界に安穏としてきた央都の住民は、小型の
瀕死の
「暑苦しいわ。そろそろ口布は取っても、構わんか」
「止せ、
「……生きたまま臓腑が腐ったとな。くわばら、くわばら」
渦巻く熱波に耐えかねたか、男たちの一人が口布に指を掛ける。
途端に釘を刺され、渋々と指を離した。
――何よりも晶たちにとって予想外だったのが、瘴気に対する危機感の薄さであろう。
永く結界に護られ慣れた弊害か、瘴気に対する備えが一切無かったのだ。
清め水や備蓄が義務付けられているはずの回生符の欠乏。晶たちが考えもつかなかった事態に、市民は為す術も無く混乱に陥った。
――それでも。
取り敢えずの安全を確保できたか。そう判断を下し、晶は踵を返した。
「――聞いたか、華族
「ああ。家財で胴回りを肥らせて、山巓陵へ逃げ込んだとか。
宮さまにご迷惑をかけてまでの不平不満、何を考えているのやら」
「誰も居らんようになったとかで、
……は! 何のために、普段から踏ん反りかえっているのやら」
「守備隊も守備隊よな。百鬼夜行を前に、役に立たんと前線から外されたとかで」
「宮さまの御温情篤きは知っとうが。――こんば時に不満を抑えて、儂らも高税を納めているちうのにな」
晶の耳へ届く、吐き捨てるような呟き。
努めて感情を揺らさないように、晶はその場を後にした。
不満の漏れるうちはまだ良い。捌け口が機能しているという事は、作業に余力が残っているという事なのだから。
はあ。嘆息を吐き出し、秋の深まり切った高天を見上げる。
軽油の燃える重い熱波が、普段は袖を通さない晶の羽織を
瓦礫が続くだけとなった大路の
じゃり。瓦礫に硝子混じりの路面を踏む度、黒い精霊力が帯と連なり虚空へと散った。
意識がずれたか、晶の隠形が解けたのだ。
水気の精霊が気遣いを残しながら、少年の気配を解き放つ。それでも日常は忙しく、周囲は些細な変化に意識を向ける様子もない。
――それだけを救いに、やがて行き交う雑踏の渦中へと晶の背も呑まれていった。
♢
――
早朝の賑わいを迎えた教室の中、
眉間に寄る皺は何時ものこと、気にする素振りもなく眼前の椅子が音を立てて引かれる。
数少ない学友の
「よう」「ああ」
戦火を潜り抜けた友人へ手向ける、右手を覗かせるだけの気安い挨拶。
家格を気にしない。学院で得られたその友情は、諒太にとって貴重なものであった。
「生き延びたな」
「お互いに。――お前も怪我が無さそうで何よりだ」
軽い応酬に鼻を鳴らし、背凭れへと背を預ける。
教室に視線を巡らせると、常とは違う空疎な空間の点在に気が付いた。
周囲の誰もが、そこへ身体を割り込もうとしていない。
「……どれだけだ?」
「5人ほどか。鎧蜈蚣の強襲に、運悪く足を掬われたらしい」
昨日まではそこに誰かが立っていた。その事実に未だ、慣れていないのだ。
諒太がそう気づくのに、然程の時間も要しなかった。
衛士候補とはいえ、
土地神の篤い加護と永い年月で磨かれた戦闘の技術から、衛士の欠員は近年では遠いものであった。
「……化生風情に後れを取るとは、随分と情けないものか」
「
――郷里も遠い。加護が薄い中、よくやったと思うよ」
「ふん」
その口から漏れる悪罵に籠められた、慣れないまでも深い哀悼。
視線を背ける諒太に、辛うじて気付けた豊彦は慰めを口にした。
「衛士を突端にした局地の一次戦線を仕掛け、二次で防人を前面に包囲戦線の構築。
三次で回復した衛士を投入し、殲滅戦で止め。
「ただの昼行燈じゃなかったか」
「腐っても八家の長って事だろ。――咲嬢に聞かれでもしたら、
「貴重な衛士に被害を赦したんだ。この程度で済んだら御の字と、向こうも覚悟しているだろうさ」
流石に窘める囁きに、それでも諒太の舌鋒が止むことは無い。
殊更に止める
「そういう
「事前の予定通り
諒太が口にしたのは、公表される予定の事実のみ。
友人に返せたのは、機密や口伝に関連するだろう事を避けた曖昧な解答だけであった。
「随分と転戦したな。幾ら八家とはいえ、精霊力も続かんだろ?」
「俺が実際に太刀を振ったのは、緒戦と茅
寧ろ、
「……へぇ」
飄然と返されたその応えは、諒太を良く知る豊彦にとって意外なもの。
何しろ
一旦、懐を赦せば情に篤いのだが、それまでの態度に棘と毒が多すぎる。
――しかし、一夏を越えて何が有ったか。
普段と変わらない。しかしそれまでの態度は、大きくその鳴りを潜めていた。
周囲で諒太の成長に気付いたものは、寧ろ少ない。
だが、集いつつある声望は、確実に彼の近傍を厚く頼もしく変えていた。
これなら学年次席に甘んじてきた今年も、来年には期待が持てる。
そこまで思考を及ばせて、豊彦は口元を歪めた。
――そうなるためには、新たに生まれた問題が多過ぎる。その代表的とも云うべき悩み。
窓の外。学院の正門の方から届く学生たちの波が揺れた。
うねるようなそれは、異物を視界へ収めた感情以前の戸惑い。
やがて人の流れが避けるように、羽織を纏った少年が足を踏み出した。
防人である事を示す無地のそれは、衛士候補だけが所在する
――誰かは知っている。
功を重ねて遂に姓まで賜り、華族へと成り上がった平民の雄だ。
華族でも上位だけが集う日常に、やがて埋没して覚えも無く風化するだけ。
――その同情が止む間も無く、晶は静かな頭角を現わし始めていた。
これまでは大人しくしていたからか、気に掛ける事も無かったが。
「……
「何だ」
「あれは、どうする
友人の指す先を辿り、言葉の意図を悟った諒太が唇を曲げた。
一陣の風が
晶の羽織も
過日の激戦を物語るような、裂傷が奔るそれ。
無言の内に有って尚、それは圧倒的な説得力を以て少年の経た歴戦を主張していた。
平民から頭角を現わし、防人へ登用される制度が在る事は知っている。
見做しと呼ばれるそれは過去に幾度か成立を見ても、現代では有名無実と化していた。
何故ならばそれは、防人になれたのであって華族と為れた訳ではないからだ。
辛うじて防人を認めたとしても、華族が連綿と続けてきた
だが晶は違う
文武の両方を加味して尚、隙も見いだせないほどに晶は異質であった。
防人と見做されただけの平民が、己たち以上の戦功を立てた。
その事実に直面し心穏やかにいられないのが、皮肉にも晶と同じく
「……放っておけ」
「
――だがあれは、間違いなく異常だ」
豊彦の不安を、それでも諒太は短く一蹴した。
主家である
上意が下した結論に、後で異を唱えるのは不敬に過ぎる。
無理があると理解しつつも、受け入れられない現実から豊彦は言を断じた。
既得権益とは華族の歴史そのもの。
それは慣例であり、縦横へ複雑怪奇に絡み合った血の縁が繋いだ結晶でもある。
央都華族のそれが顕著であるが、大なり小なり華族と云うのはその側面を持ち合わせているものだ。
晶という異質は、華族が築き上げた既得権益に風を通す、明確な蟻の一穴となってしまう。
豊彦の怖れは、現実の質感を伴って形になりつつあった。
「豊彦、云いたいことは理解してやる。……不安もな。
だが恩賞を以て戦功に報いなければ、華族として以上に俺たちの在りようを歪めるぞ」
2人の間を、視線が飛び交う。
暫しの沈黙。――やがて豊彦が、両手を上げて降参の意を示した。
「……良いさ。まぁ今日は、
「……他言無用にしておけ、どんな厄介を引き寄せるか判らん」
「気付かせた奴が良く云う。……忠告は受け取った」
「済まん。だが手出しをしない限り、晶が此方に牙を向けることは無い。
それだけの理性はあるし、恩義も覚えてくれている」
「なるほど、訳ありか。なら忠告だ。
先刻に平民を避けた奴等だが、
何を知っているかは知らんが、奴等からの追及は覚悟しておけ」
「
豊彦の何気ない忠告に、諒太は鋭く視線を向ける。
だが、
「向こうは関係がないって思っていたんだがな」
「さてね。俺たちには訳も分からんことだらけ。
――特にあれは別格だが」
再度、指された指の向こうへと視線を遣る。
今度はより遠く、右府舎の入り口まで。
今度こそ、諒太も眦を鋭く眇めた。
己たちの主家である
両者の間に横たわる緊迫した
まるで戦かと思える数十秒足らずの沈黙はやがて、両者が同時に目を逸らして終結を迎える。
遠く左府舎の窓越しにまで伝わる緊張は、その瞬間に淡雪と溶けて消えた。
知らず溜息が、2人の
「……何が有ったか知らんが、何処も彼処も問題続きだよな。
昨日は夜に突然、昼間になるとか。天変地異も疑ったんだが、誰も言及すらしないときた」
「何を期待しているか知らんが、俺だって知っている事は僅かだ。
神嘗祭を前にして、誰もがひりついている。父上なら兎も角、
――豊彦」
「何だ?」
「お前の実家は、商会も手広くやっていたよな。
――その伝手で、
「今の雰囲気で向こうへ接触するのは、どう考えても不味いぞ」
諒太の視線に、豊彦は思わず渋る表情を浮かべた。
何が火種になっているか判らない現状、この行為は文字通り進退を賭ける覚悟が要求される。
「別に
向こうの誰かと世間話をして、近況を俺に教えてくれたら良いだけだ」
「それだけなら、まぁ……」
世間話だけなら。難しい表情のまま、豊彦は肯いを返した。
窓の外を眺める2人の背で、引き戸の開く音が響く。晶だ。
傷だらけの隊服に注目を集めつつ、晶は自身の席へ腰を下ろした。
誰も何も、晶へと話しかけようともしない。
晶という異物を抱えたまま、上位華族だけが集う教室は日々をまた始めようとしていた。
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