序 暗闇だけが知る、ただその想う行方
――自分には兄が居るのだと云う。
雨月
口を潜める陪臣たちから漏れ聞こえた、
どうにも察するに、陪臣の子弟たちにまでも周知の事実であるらしい。
好奇心から情報を探り、程なくして
――
――
表に顔を出すだけ恥の、祖母に護られたただの愚図だとか。
その陰口が耳へと届く度、母がどれだけ肩身を狭くしていたか。
羞恥から視線を下に、肩を震わせる母。その背に
それこそ、雨月
兄を憎しと、一層に文武へと打ち込む。自身に宿る
『北辺の至宝』が市井の噂に通じる頃、天山は
その蠢動を頑なに赦さなかったのが、死の床にあるまで刀自を護った雨月房江である。
祖母である雨月房江の溺愛ぶりは夙に有名であった。
陪臣たちの嘲弄は公然と囁かれても尚、軽く受け流すほどに。
――何時だったか。
――
そう
「其方の訴えは確かに。ですが、刀自としてその主張を受け入れる訳にはいきません」
「何故でしょうか。文武に劣る無能の穀潰し。生かしてやっているだけでも業腹でしょうに、父上の温情を無下にされるとは」
滔々と説く、
天山からも受けた記憶の無い否定から、毅然と座る少年に不満が浮かぶ。
その様子を目の当たりにしても、雨月房江の眼差しに揺らぐものは滲まなかった。
「陪臣たちの囀りは、確かに私も知っています。
――それを推して尚、其方を嫡男と承知する事は無いでしょう」
「長子継承ですか。愚鈍を庇った処で、その先など望めないと思います」
――亡くなった今でも苦手な、房江からの否定。
「長子よりも能力を優先すべきは、私も意見を同じくしています。
故に其方は、雨月継嗣として相応しくないと判断しました」
「……精霊にすら見放された
何れ
俯く少年を見下ろし、僅かな思案の後に房江は口を開いた。
「理由は3つ。晶は雨月である以上に、
「認識を違えておられるようですね。
それは互いの契約からも明らかでしょう」
「
――
晶が生まれた時点で、
――生まれていない以上、契約の対象として
永く刀自として座る、雨月房江の才覚は伊達で無い。
天山の頭を悩ませる最大の問題を指摘され、
雨月当主の心痛を和らげてやるのが、雨月家中の役目であろう。
それでも天山を蔑ろにしてまで、孫に感ける呆け老人と
だが、続く房江の言葉は、
「ですがこれは、
2つ目の理由からすれば、然程に難しくないでしょう」
「……では、2つ目とは?」
「純粋に能力の差です。其方たちは軽んじていますが、私が見る限り其方と優劣を充分に競っています」
「お言葉ですが、あれと僕を比べるのは余りにも侮りが過ぎるでしょう。僕の成績は――」
「知っていますよ。上級小学校へ入学して以来、一期たりとも首席を落としていないとか。其方の実力は勿論、重ねてきた努力も間違いなく歴代の雨月係累より優れている」
「では!」
だが房江の視線は公人のそれに近く、冷ややかなものが揺らぐことは無かった。
「そしてそれは、晶も同じ事です」「――!」
揺るがぬ響きが伝える晶の成績に、
血が滲むほどの屈辱に耐えて、
「今期は落としましたが、それまで首席の地位を逃したことはありません。
――落とした理由も、剣術の全国大会への推挙を他人に譲ったからです」
「大方、怯懦の風に吹かれたのでしょうが」
「雨月当主から、出場の許可が下りなかっただけです。
間違いありませんよ。私もその場に居合わせたのですから」
未だ幼い少年の思考が激情に染まり、言葉が上滑りに受け入れられなくなる。
「3つ目の理由は、晶ではなく其方自身の事です。
其方は――……、――」
滲む記憶の彼方。それはもう聞く事のかなわない、祖母から告げた心尽くしの警告だったのだろう。
♢
荒く砂利を蹴立て、少年は踵を返した。
薄く茜が去る中、屯していた雨月陪臣たちの只中を突っ切る。
「
「
驚く少年たちに応えず、
脇目に広がる
眇め見る向こうで、衛士の羽織と女性の姿が精霊力と共に踊る。
その後背が、
きり。
あの瞬間は有り難いとしか思わなかったが、この事実を知るにこうなる事も織り込み済みかと邪推もしたくなる。
「
「……無視しろ、どうせお零れしか残っていない。それよりも先刻の光景を見たか」
雨月家宰である酒匂甚兵衛の直孫であり、
流石に無碍と切り捨てる訳にもいかず、
「あの莫大な精霊力か? あれほどの隠し玉を
「だろうな。耳に届いていれば、どの家であっても雨月の不興を免れん」
「どういう意味だ?」
「こちらの温情を良い事に、雨月の恥が巷間へ醜聞を撒き散らしてくれた。昨今の雨月家冷遇、仕組んだ下手人は奴だ。
――総員、傾聴。事前の予定通り、
呆気に取られる
肯いを返す
その事実に満足だけを返し、
「事前の班編成はそのまま。
周囲から起こる戸惑いと反駁を断ち切り、
砂利の敷かれた悪路を危なげなく、その視線は北を向いた。
露わとなる状況から、
想像が確かならば、雨月の状況は愚鈍の僻み嫉みから崩されようとしている。
「少し落ち着け。お前が前列で指揮に立たんと、
「どうせ
背中から追いつく
返る親友の表情は、理解が追い付かないか呆けたもの。
無理もないか。あれは常に俯いていたから、顔立ちを直視することも稀だった。
――認めたくは無いが、血縁だという証明か。
遠く、父親である天山も想起できる印象に、反吐が出るほどの嫌悪感を覚えた。
「どんな手管を弄したか、
状況は理解したな。ここで奴を浄滅してやらんと、雨月数代に渡って祟るぞ」
「――間違いないのか? お祖父さまから聞いた限り、周辺の領地ですら跡を辿れなかったんだぞ」
戸惑う
一応は嫡男である。誰に迷惑をかけないようにと領外で野垂れ死ねるよう重ねた心尽くしは、雨月当主の慈悲溢れる英断と陪臣たちの間で口々に讃えたほど。
3年も生き延びたのは誤算だったが、それでも概ね想定通りに事は動いていたのだ。
「見間違えもない、――しかも精霊無しが精霊力を扱っていた。大方、小賢しい邪法邪道の類で、
「それは、……不味いな」
「不味いなんてものじゃない。思えば静美さまは、父上に聞く耳すら持っていなかった。裏で奴が茶坊主よろしく囀っていたとなれば、筋も通る」
晶と静美の仲が天山の想定を超えて強かったのは、新たに直面した雨月の悩みだ。
晶の排除より始まった雨月冷遇。その総てが、元凶の
「だけど、精霊力を宿した手段は? 精霊が無い事を証明すれば良いなんて、単純な状況でも無くなっているぞ」
「……前雨月刀自は呪符の大家として雨月家に招かれたと、
呪符を構成する真言は、人に模したものが基礎となる。
何故ならば、精霊力を保持するためには、本来、生きた器が必要となるからだ。
費用の嵩む技術ゆえに廃れたはずだが、
晶にとって最も必要な、精霊力を貯め込む側面。
――だが人間を呪符にするなど、間違いなく
相手が
思考が漸く追いついたか、
「真逆。公になったら、雨月の醜聞では済まないぞ」
「――だからここまで焦っているんだ。
邪法遣いを懐に囲っていたと公的な記録に刻まれでもすれば、雨月家を越えて
硬い表情で肯いを返す
♢
茜の空は既に終わりも近く、その深みを増していく頃。
視界の後方へと流れる木立を追い、
上位精霊を宿しているとはいえ、全力の強行軍で山を幾つか超えたのだ。
「
「後少しは振り絞れる。――構うな、
「奴の
――遅れるなよ」
粗い
そのまま一息に、
騒ぐ精霊を抑え、視界に広がる向こうを見渡した。
何が起きているのか。茅之輪山からの鳴動が一際大きく響きを残し、静けさを取り戻す。
焦る感情に押されるまま、
――
艶を迎えた、声なき囁き。
滅多にも口を開かない自身の
「どうした?」
珍しい相手からの助言。
だが、問い返す
だがその真意すら抑え込み、
木立から差し込む茜が、夜天へと落ちる。
――その寸前、移ろう空が晴れやかな青を取り戻した。
「!」
思わず足が止まる。澄み渡る中天に、
優しく微風が舞い、僅かな後に青天はやがて元の暮明を思い出す。
視線を巡らせるが、周囲は深く夜闇を返すだけ。
隠す気配も無い大気の揺れに誘われ、
遠く山道に広がる闇の向こうで、何者かの下山する気配が近づく。
少年と少女。
僅かに談笑する気配。仲睦まじい姿に、
――精霊器の
溢れる瑠璃の輝きを統御し、迷うことなく居合抜きに太刀を斬り抜いた。
尾を曳く精霊力をそのままに、爆圧を伴う飛斬が夜気を裂く。
「「な、」」
虚を突かれたか、少女の初動が致命的に遅れた。
練り上げる精霊力も拙いまま、
「咲――!!」
少女を背に庇い、賢しくも少年が
閃く呪符が励起、黒い水気が凍てつく衝撃に変わる。
激突、轟音。地響きが茫漠と視界を奪うも、構う事なく
少年の眼前へと躍り出る。
徒手の相手であろうが構う事なく、激情のままに八相から斬閃を放つ。
「父上の恩情を足蹴にご満悦か、
――
「雨月、 、颯、馬ァァァッ!!」
3年振りに相手を認めた兄弟は、受け入れ難く憎しみを籠めて。
爆ぜる精霊光に煽られながら、互いにその名前を叫んだ。
♢
此方の方での宣伝を忘れていました。
カドカワBOOKS様の周年記念として、泡沫に神は微睡むのSSを上げさせていただきました。
書籍に関わらず楽しんでいただけるよう、仕上げてあります。
時系列にすれば、1章と2章の間に成ります。
カクヨムに載っているので、合わせて楽しんでください。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。
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