四章 帰月懐呼篇
閑話 嵐の去る後に、老躯は騒めく狭間を帰り
――
遠く鳴り響く汽笛を背に、それなりの老境だろう年頃の男性が改札を過ぎた。
冬支度の色を深めた山嵐が、乾いた首筋を総毛立たせて過ぎて行く。
懐かしい寒さに口元の皺を深め、老人は雑多に過ぎる人混みへと眼差しを眇めた。
移ろう歩みの遅い央都だが、繁華の赤線前にあって浮沈はそれなりに目立つ。
以前は無かった真新しい店が幾つか、老人の視界に雑然と軒を連ねていた。
木造のそれでは無く、煉瓦で装われた外海よりの壁。
舶来のものか。歪みの見えない板硝子越しに、透けた店内が垣間見える。
「……ふん。
皮肉に嗤って一歩。常よりも多い雑踏へと、老人はその足を踏み出した。
繁華を混沌と行き交う雑踏の熱気が、直ぐさまに老爺の身体を呑み干していく。
木材を山と積んだ大八車が、車輪を軋ませて老人を追い抜いた。
茫漠と蹴立てられる砂煙。鬱陶しく肩を叩き、袂から取り出した手巾で鼻腔を抑える。
「平民が我が物に高御座のお膝を闊歩するとは、守備隊の凋落も明らか。
儂が治安を掌握した暁に、このような無様は欠片として赦しもせん」
苛立ちに任せた悪罵から、その足取りを僅かに速めた。
――央都華族たる旧家の一角。
央都の上洛。西の大路から山巓陵のやや上へ向かった一画に、
大路の喧騒も遠く、至心は慣れた帰り道を悠然と歩いた。
正門を避け、黒渋塗りの板壁伝えに裏手へと抜ける。
御用門を軋ませる音が届いたか、初老の家人が顔を覗かせた。
「御先代さま、何時にお戻りで?」
「先刻だ。
「こちらは静かなもので。……御一報を戴ければ、迎えを手配致しましたものを」
嘗て仕えていた主人が見せた突然の帰還に意表を突かれ、屋敷へ向かう老人の後背に慌てて続く。
山高帽。次いで
「蒸気絡繰りはどうも好かん。頼まれれば乗りもするが、
――
「丁度、折り良く。本日の予定は夕刻の集会のみですので、御在所にあられます」
「ふん」
返事の代わりに鼻を鳴らし、屋敷の奥へと大股の歩を刻む。
薄暗い廊下を抜けて中広間へ。滑らかな音で襖を開けた先、
手から零れる書類を一瞥すると、何らかの陳情書か。
興味も薄く、広間の上座脇へ勢いよく腰を下ろした。
後方に控える
「これは父上。
「
――央都の百鬼夜行襲撃に案じられた
「それは、御立派に御座いますな。――ははぁ。その様子からして、大路の惨状をご覧になられましたか」
その呟きだけで気を取り直し、
至心からの応えを待つことはなく、半紙が捲られる音だけが響く。
そのまま暫く、壁時計の分針が一目盛りだけを刻んだ。
「――西の大路が、通りの向こうまで良く見えた。下民共が瓦礫へ群がる様の、何と浅ましい事よ」
「片付けに必要なのです。使ってやっている下働きに、不満も無いでしょう」
「弱腰だな、
激昂する自身の父親を、
云わんとしたい処は理解できる。旧家の共通認識として、大路の役割は華族の往来を支える為にこそ存在している。
山巓陵の北。上洛周辺に
神使や巫女の家系が多い旧家にあって、
古くは北面を護る衛士であり、
政争に敗け凋落の憂き目を
「近衛色軍や央都守備隊の堕落は瞭然に御座います。
特に近衛央軍。山巓陵守護を言い訳に、
「く。武威も与れぬ俗物に意見侭を赦したが、儂の不明よ。
守備隊の総隊長は、何処が与っているか」
「確か、 、二曲輪殿の直系次男では無かったでしょうか」
「旧家の誇りを捨てて西に
顎髭を撫でつけながら、至心は不満を肚に収めた。
旧家連中の犯した失態を巧く利用すれば、
至心の着眼は、
「そう仰るだろうと思いまして、神嘗祭で三宮御覧の折りに奏上奉ろうと」
「どれ。 、 、は、成る程。面白いな」
渡された半紙の束を一瞥し、至心は口元を歪めて嗤う。
書類に逐一、
功罪を論じる場に
二曲輪としては否定か封殺を仕掛けたいだろうが、三宮御覧の元で難しい事も想像に容易かった。
「軍権の手始めに、央都守備隊を二曲輪家より奪還いたします」
「
――儂も、三宮とのお顔合わせは久方振り。そうとなれば、偶の登殿も良いものか」
「父上が、ですか」
地方との結びつきこそ央都復権の要。そう断じた
そんな至心の姿勢を嗤っていた宮廷雀の囀りがどう向くか、
だがそれでもと、何時になく至心は登殿へと拘泥した。
「
それに
「それは、そうですが」
義理の父子が挨拶を交わし、教導の師として
演出としてかなりの期待はできるが、何処まで周知できるか不明だ。
だが、やらずもさて置き、やって喪うものもない。
その事実だけをして、
「……判りました。父上が出席の旨、宮家へ上申いたします」
「過怠なく済ませよ、
明るい展望からか、珍しく機嫌の良い父親の応え。
そう慮れば労苦も些少か、
旧家を下すための策動を事務的に済ませた後、
黒塗りの膳へ並ぶ、酸味の強い漬物と炭に焙られた鮎。
薄く艶の張った鮎の皮が、音も小気味良く噛み砕かれた。
脂の乗った旬の身を愉しむ父子の会話はやがて、百鬼夜行の被害へと移る。
「西の大路は見たが、八の
「はい。五行結界の護持は万全と油断したが故、余計に被害は広がったようで」
「――
「冬支度を目前に控えているので、下民共の住まいを優先すると。軒先までとなれば、宮大工を総出にしても来年は掛かるでしょう」
後ろ向きともとれる
その不満からか、老人は口元を歪めた。
「下で這いずる地虫風情が優先とは。央都で
「お気持ちは分かりますが、
石蕗め等も抗弁されたようですが、
軍事権を統率する
「
しかし、その価値すら理解できぬ虫に向けてられてもな」
「父上の御意見は尤もですが、こればかりは如何ともし難く。
――百鬼夜行の顛末は、五行の要山に気を取られたようで。結果として山巓陵への侵攻は防げたようですが」
「となると、要山の守護を放棄した近衛の面目は丸潰れか」
「ご賢察の通り。近衛央軍は疎か色軍すら、山巓陵で震えながら終了の報を聴いたと」
央都が誇る近衛は
至心が掌握していた数十年前まで、近衛は評判に違わない内実を誇っていた。
――しかし、今回の
「今回の件で、石蕗めは大きく信用を落としただろう。
早い内に近衛を奪還し、綱紀粛正に着手せねばなるまい」
「父上の軒昂ぶり、雨月天山殿も安堵されるでしょう。
――過日、
「神嘗祭には会わねばなるまいな。儂よりも、
「そちらは充分過ぎるほどに。初めての顔合わせでありましたが、
「そうか、そうか!」
伝え聞く噂話は、ここ百年で届かないほどに讃えるものが多い。
八家と旧家の血筋が撚り編まれた
噂を装い旧家の間に流布し続けた、その努力が結実した格好だ。
央都内部の権力争いにしか能がない旧家であればこそ、この類の俗説を無類に好む。
一縷の望みを賭けて家督を譲った
――お陰で、石蕗から近衛実権を奪還するも、目前に期待できる。
己が老躯の朽ちるまでに回天の芽を。一時は半ば諦めていた野望を目前に、老境も終わりに近づいた至心は白米を大きく口に含んだ。
活きの良い鮎の脂を、新米の甘みと共に深く味わう。
老人とは思えない食欲に箸先が踊り、山菜の漬物へと。
ふと浮かび上がる気掛かりに、至心の箸が止まる。
「……そう云えば、
ここ最近、その辺りの進捗を聞かないが」
「ご指摘の通り、それに関して芳しくはありません」密かに悩み心中を突かれ、
「
――ですがここ最近は、連絡を入れようにも梨の礫。
不満の残る応えに憂う息を吐き、至心は思案を遊ばせる。
「所詮は辺土の俗物か。……
「御懸念は御尤もにて。ただ、その辺りは問題ないでしょう。
苦く深読みした至心の危惧に、
――万が一に露見したとても、央都へ水脈を売り渡す事を
あれにとって水脈はその程度の価値であり、燦然と輝く洲議の頂しか見えていなかったのだから。
それは一側面に
「――水気の龍脈に細工を施せるのは、もう少し遅れるか」
「今暫しの辛抱を。これに成功すれば、陰陽省を抑える事が叶います」
水脈は確かに。だがその裏で、水脈は水行の龍脈を兼ねている事実も併せ持っていた。
土克水。水行に克ち得る
ともすれば
手に入れた水脈に孔を穿つ事で、
私的に利用できる水気の龍脈。それは央都に在って、陰陽師たちが求める垂涎の代物だ。
それこそが、水利権を欲した
目論見が完遂した暁には、石蕗家すら
胸の空く想いと共に、山菜の漬物を口に運ぶ。
からし菜の刺激と共に広がる、独特の苦味。なんとも苦手な味わいに、至心の口元が不機嫌に歪んだ。
「――余り旨くないな」
「意味の方が重要ですので、味は態と落としてあります。そう聞けば、味わいも深く思えるかと」
からし菜に混じって覗く、濃い緑色の菜物。
――その正体を悟る。
「そう云う事か。
くつくつと
えぐ味の強い青臭さが、
「――
最悪あっても、井戸の完了は
「出来た孫よ。雨月は当然、これで
――百鬼夜行の顛末は知らされておるか?」
元とはいえ、近衛総代の意地は健在か。鋭く問われて、
「鐘楼山から侵入した百鬼夜行は二つ。その意図は詳らかにされていませんが、何らかの謀で動いていたのは
「一直線に、
せめて、
「そちらも混乱しているようで、申し訳なく。……ただ、近衛に残した遠縁が
――水行の要で
く。息子の伝聞口調に、至心の
賦役が伝わらないならば、残る可能性は
至心にとって、該当する人物はたった一人。
「
「勇み足ですよ、父上。――向こうも忙しい最中、頼みだけは入れておきましょう」
「それで良い。旧家の言葉を容れぬなど、華族として言語道断よ。
請われれば、多少の無理も通すのが当然じゃ」
小気味良く首肯を返して、
残る会話は、日常に細々としたもの。
――
それは、神嘗祭を控えた、肌寒い日。
数年ぶりに
本来であれば、容易く通る程度の我儘。
だが、想定とは裏腹に、些細なその願い出の返答が返ることは無く。
無慈悲に数日を過ぎる後、状況が変わる事の無いままに神嘗祭を迎えた。
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