13話 逆しま霊道、辿り目指すは神域行5

 ――同刻、央都南東、玖珂太刀くがたち山。


 御山の中腹まで届く轟音が、地を揺らして衛士候補たちの足を浚う。

 未だ戦場の経験に足りない少年たちが、転げずとも雑木に縋って周囲を見わたした。


「それでも衛士か、貴様ら!」堪らず浮足立つ候補たちの背中を、精悍な男性の叱咤が過ぎる。

「序列に従って、隊を組み直せ。――状況の把握っ」


「「「お、応!」」」


 その背中が八家第五位を与る当主、輪堂りんどう孝三郎こうざぶろうのものと気付くや、衛士候補たちの背中が伸びた。


 三宮四院へと連なることが赦されている八家は、護国を任じられた高位の家柄だ。

 八家内での序列が低くとも、武家華族の筆頭。その家名は高天原たかまがはら全土に高く響きわたっていた。

 特にこういった鉄火場にいて、八家の肩書は類を見ないほどにその効果を発揮する。


 騒めく周囲を引き締めるべく号声が飛び交う中、玖珂太刀くがたち山の本殿が覗き見える向こうへと孝三郎こうざぶろうは視線を向けた。

 視界に映る光景は、その半分以上を肋の梁だけ残した本殿の屋根。

 未だ周囲を満たす朱金あけこがねの輝きに、嗣穂つぐほの無事は確信しているが。


輪堂りんどう御当主さま、分隊整列が終わりました」


「よし。足並み揃え、麓へと下山して敵襲に備えろ。現場の指揮は上位に預け、できるだけ固まるなよ」


 派閥や家の関係を越えた広い集団を構築するほど、指揮能力は高いものが要求される。

 珠門洲しゅもんしゅうという括りでの結束は可能だろうが、ここに居るものはケガレ浄滅の経験も僅かな成人前の少年しか揃っていないのだ。

 覚悟も定まっていない若輩たち。馴れ合い以上の結束を求めるという無茶振りを、孝三郎こうざぶろうは早々に放棄した。


 分けた隊列を等間隔に散らし、広く薄く守勢に入る。

 選択した手法は、無難な下策の1つ。普段なら避ける選択肢だが、下手に動かして同士討ちを起こすくらいならと孝三郎こうざぶろうは思考すらしなかった。


「練兵、 、守備隊。……確か厳次げんじの奴、咲のあしらいが巧かったな。久方振りに顔を会わせて、酒の肴で手管でも訊き出してやるか」


 懇意にしていた隣領の次男坊が縁あって名瀬領の食客となっていたのは、4年前までの事である。

 腕は利いたが、不愛想。慣れる切っ掛けになればと、咲の守り役を与えたのが随分と型に嵌ったようだ。


 穏やかな物腰に成長した嘗ての青年を、記憶に浮かべた。

 咽喉のどの奥で忍ぶように笑いつつ、嗣穂つぐほの状況を確認しようと孝三郎こうざぶろうは――、


「――お父さま」


「咲か。用件は終わったのか?」


 背中に投げられた幼さを残す響きに足を止める。視線を巡らせると、人の流れる向こうから仔馬結びポニーテールを揺らした末の娘が小走りに歩み寄る姿が見えた。


「うん。……調べるものは終わったわ。

 この騒ぎは?」


「敵手の策略である事は間違いないだろうな。

 取り敢えずは防衛に専念させるが、頭数は兎も角、経験が心許ない」


 滑瓢ぬらりひょんが侵攻するならば、五行結界を前提にした防衛網の崩れた今が絶好の機会であろう。

 断言を舌に乗せた孝三郎こうざぶろうは、年齢12を数える己の末娘を見遣った。

 学院から駆けてきたのだろう、僅かに粗く肩で呼吸いきをしている。


「事態に急いでくれたか」


「央都を隼駆けで抜けたわ。

 ――嗣穂つぐほさまは本殿?」


「うむ。此処ここからでも屋根が吹き飛んでいるのは見える。

 御山の結界は揺れていないからご無事ではあろうが、状況だけでも確認せんといかんな。

 ――咲よ、戦場の采配は頼めるか?」


「お父さま、嗣穂つぐほさまは女性よ。相手が八家の当主であっても、男性に弱味を見られたいとは思わないわ。――私が嗣穂つぐほさまの元へ行った方が良いわよ」


「む。確かにそうかもしれんが。

 ……だが、ここまで派手な蠢動、滑瓢ぬらりひょんの陽動かもしれんぞ。嗣穂つぐほさまの元に其方が侍るのは足手纏いになりかねんが?」


「私とて八家の末席。嗣穂つぐほさまと合流した後、霊道の近くで守りに入ります。晶くんも霊道を通って戻るでしょうし、合流するならそこが一番近いはず」


 そうか。首肯した孝三郎こうざぶろうの視界の端で、踵を返そうした少女の爪先が迷うように留まった。

 何か疑問に浮かぶものでもあったろうか。


 視線を向ける孝三郎こうざぶろうの先で、少女の視線が虚空へ泳ぐ。

 仔馬結びポニーテールの先が、少女の感情に釣れて僅かに揺らいだ。


「咲?」


「……何故」


 呆然と、戸惑うような独白。

 娘の疑念に、孝三郎こうざぶろうは周囲を見わたした。


 そこにはただ、緊張も無い閑な木立が広がっている。

 異常も見当たらない光景に、孝三郎こうざぶろうは娘へと視線を戻した。


「どうした?」


「――ううん。何でもないわ、お父さま。

 この段階で一枚が割れたことに驚いただけ」


 孝三郎こうざぶろうの問い掛けに、咲は先刻の戸惑いを感じさせない笑顔を見せる。

 雑念の混じらない笑みに、孝三郎こうざぶろうは取り敢えず追及を止めた。

 どの道、疑問にもならない呟きである。優先すべきは、直後にも起こり得る百鬼夜行の阻止の方だ。


 ――後で訊けば良いか。

 ともすれば忘れそうになる思考を辛うじて浮かべ、孝三郎こうざぶろうは踵を返した少女へと肯う。


「……そうか。嗣穂つぐほさまの安堵をたのむぞ」


「――はい。お父さまもご武運を」


 交わした言葉はそれだけ。

 最後の隊列が一際の騒めきを残す中、行き交う人の向こうへと末娘は紛れるように去っていった。


 仔馬結びポニーテールの揺れる娘の背中を見送り、孝三郎こうざぶろうは隊列の殿を追う。

 娘の動向にだけかまけている余裕など無いのだ、下山すべく身体をひるがえした。

 振り向く視線の先で、山から下りる風が金色に染まる。


「――お待たせしました、輪堂りんどうさま。誰かと話されていたようですが、何方どなたですか?」


「娘です。用が終わって、先刻にこちらへ到着したと」


 孝三郎こうざぶろうから返る応えに、ベネデッタは首を傾げて見せた。

 状況は少し置いて行かれているが、周囲に満ちる雰囲気は彼女の良く知るものである。


 ――血腥ちなまぐさく泥に塗れた、焦げつく臭い。

 戦場を目前にした、それ。


 幾ら八家であろうとも生死の保証ができない鉄火場を目前に置いて、父娘が交わす会話にしては随分と情が薄く思えたのだ。


「であれば、もう少し言葉を交わされても良かったのでは?

 その程度の時間、私も待つにやぶさかではありませんが」


「気遣い無用にて。

 ――カザリーニ殿も、後方へと退いていただければ有難いのですがね。

 正直、要人を戦場で連れて歩くなど、万全を期しても避けたい事態と思いませんか」


 ――頼むから、大人しくしていてくれ。


 言外に孝三郎こうざぶろうが言い放った要請を、ベネデッタは薄く微笑んで固辞をした。

 百鬼夜行に興味は無いが、これに助力した実績を恩として売れるならば話は別だ。


 珠門洲しゅもんしゅうに央都へと供出できる戦力が揃っていない辺り、ベネデッタの申し出を無碍にすることはできない目算もある。


「我らの責任で、友邦の窮地へと手を差し伸べるだけです。

 ご安心を。聖アリアドネの威光は、海を隔てても健在であると証明いたしましょう」


「結構。ならば当てにさせていただく。

 ……ですが無駄になるとも思いますがね。儂の前に百鬼夜行など、集る羽虫ほどの脅威も無い」


「随分と自信をお持ちの様子。

 遠く響く八家の威名なら、期待できますね」


 交わされる軽口の応酬に、気分も軽く急斜の坂へと躍り出る。

 砂利を蹴立てる音は、最後の数名が去るまで止むことは無かった。


 ♢


 朱金あけこがねの輝きが残留する中、嗣穂つぐほは久しく覚えていない頭痛から眉間に皺を寄せた。

 漸く開いた双眸に、吹き飛ばされて乱雑に散らばる祭壇が映る。


 ――否。それよりも、随分と視界が明るい。

 光源を追って見上げる天井が、梁を残して吹き曝しとなっている。何らかの直撃を受けたその代償を目の当たりに、嗣穂つぐほは眼差しを見開いた。


「く。――ご無事ですか、あか・・さま」


「やって、くれおったわ、滑瓢ぬらりひょん

 妾の神気をかすめ盗って、相克の霊道に刺し込むとはな」


 神柱であっても隠しきれない苦悶が、可憐に響く朱華はねずの声を否応なく彩る。

 その言葉に嗣穂つぐほは、今度こそ何が起きたかを理解した。


 五行結界を支える相生と相克の霊道。この2つは密接に影響し合っているが、それでも別の輪環を成す霊道である。

 制御を担う相克の霊道が潰されれば、暴走した龍脈そのものが五行結界を直撃するのだ。


 堅牢無比を誇る五行結界を支える龍脈が、そのまま反転して要山を支える神柱を撃ち抜く剣となる。


 そんな分かり易い弱点だが、当然にして容易く刺せる構造にはなっていない。

 基点を結ぶ要山を除き、相克の霊道は結界の外縁には接していないのだ。


 五行結界へと侵入し、要となる神域を陥落する。

 ――ただ破るだけでは不可能な難行。


あか・・さまの神気を……?」


「然り、手管は理解した。

 妾の神域に保管したパーリジャータ。恐らくあれの権能は、対となるもう片方と霊道で結ぶものだろう。流れへの干渉など、表層だけを捉えた偽りよ」


「咲さんに預けた方の神器!」


 苛立つ朱華はねずの説明に、嗣穂つぐほの理解も追いついた。

 朱華の神域万窮大伽藍には、朱華はねずの神気も満たされている。

 干渉のできない霊道越しに咲のパーリジャータへと神気を流し込めば、単純に振り下ろすだけでも神器の権能そのものに近い威力と化す。


 杭の見た目、戦闘に向かない権能。五行結界の内部ならば、滑瓢ぬらりひょんもパーリジャータの奪還を控えるだろうという安易な想定。

 その判断は明確に、嗣穂つぐほたちの失態だ。


「咲の無事は祈るしかあるまい。

 ――五行結界の強化に入ったのは妾だけであった事実が、不幸中の幸いであるな」


「はい。最後の連絡で降りた神柱は、高御座ははさま、しろ・・さま、あか・・さま。暴走した神気は、あか・・さまだけ。

 偶然。では、無いですよね」


 嗣穂つぐほの確認に、朱華はねずの同意が返った。


 五山に三宮四院が揃った状態でこそ、滑瓢ぬらりひょんの策動は完全な威力を発揮する。


 しかし、滑瓢ぬらりひょんの脅威を充分に訴えたにも拘らず、三宮の動向が今一つ鈍いまま。

 要山へ四院も揃わぬうちに、それも日天が高い時刻で百鬼夜行は起きた。


 結果として朱華はねずの神気が相克の霊道を陥落し、五行結界の外縁部を剥がすだけに留まっている。僥倖と安堵するにはこの結果、央都にとって都合が良過ぎる。


「ここまで偶然が揃えば、それはただの必然よ。

 ――指し手は大方、高御座ははさまか」


「やはり央都は、滑瓢ぬらりひょんの神託を享けていましたか」


「であろうな。滑瓢ぬらりひょんの策動が巧妙ゆえ、下手に読めば敗北まで導きかねんと護りに止めたのだろう」


 心身を貫いた衝撃が去り、嗣穂つぐほは立ち上がりながら回生符を励起させた。

 青白い炎が朱金あけこがねの神気に染まり、身体に残る違和感が消えてゆく。


 呪符組合じゅふくみあい伝えに、晶から回収した玄生の呪符。

 特に朱華はねずの神気で認められたそれは、現状の嗣穂つぐほにとっても貴重な癒しを齎した。

 青白い炎に慰撫されるにつれ、嗣穂つぐほ咽喉のどから安堵が漏れる。


滑瓢ぬらりひょんは霊道に侵入を果たしたでしょうか」


「――鐘楼土行は中央の神域に引っ込んだであろうし、玖珂太刀くがたち山の結界は妾の神気を正面から受けた。

 手札を切った滑瓢ぬらりひょんにとって、ここで勝負に賭けぬは愚策であろう」


 朱華はねずから返る応えを耳に、嗣穂つぐほ顕神降あらがみおろしを行使した。

 五行結界が揺れた現状、神域である本殿を護る意味は既に薄い。滑瓢ぬらりひょんが霊道に侵入を果たしたと想定するならば、護るべきは霊道の方だからだ。


 じゃり。朱華はねずを宿した嗣穂つぐほの足が、本殿正面の砂利を踏み躙る。

 玖珂太刀くがたち山でも山頂に近いそこは、戦場の気配も未だ遠い。

 僅かに腰を落として跳躍。

 激甚に引き上げられた脚力は、嗣穂つぐほの身体を虚空へと泳がせた。


 玖珂太刀くがたち山の中腹にある、鳥居の連なる参道に繋がる一画。その狭間を蒼く染まった眼差しで見据え、白衣しらぎを纏った少女の身体は踊るように落ちていった。


 音も無く少女が足をつけたその広場は、相生と相克の霊道が交差する結界の基点。


「この周辺、探れる範囲には誰も居ませんね。

 ――輪堂りんどう当主の采配でしょうか」


「寧ろ、助かるであろう?

 ここは妾たちの戦場じゃ、雑音が紛れるだけ動きの邪魔になる」


 麓で爆ぜる精霊力と瘴気の鬩ぎ合いが、遠く離れた嗣穂つぐほたちの立つ中腹まで百鬼夜行の気配を届けている。

 麓の戦況に戦力を集中しているように見えるが、その実、麓からの参道が集まるこの小さな広間こそが真の主戦場。


「他のものならそうでしょうが、輪堂りんどう当主ならば戦力としての実力は充分です。

 ……神気の揺らぎも感じませんが、滑瓢ぬらりひょん何方どちらから顕れますか」


「相克を陥落おとしたならば、相生を通るしか方法はあるまいさ。

 予想は当たったの。――来るぞ」


 短い朱華はねずからの警告。相生の霊道に繋がる参道が、水底の輝きに沈んだ。

 何処までも深く滄溟に揺れる、海底わだつみの輝きが嗣穂つぐほの視界を奪う。


「!」


「―――卑。やはり一筋縄でいきませぬか」


「久方振りですね、滑瓢ぬらりひょん。ここに来たという事は、頸を落とす覚悟も出来たという事かしら」


「―――玖珂太刀くがたち山は次いでの寄り道に御座います。目的を控えた今、隅で震えるだけならば見逃しますぞ」


「――ほざけ」


 その奥から迫る斬撃。しかし嗣穂つぐほへと到達する寸前で、抜き放たれた匕首と激突した。

 火花を散らし喰い合う刃金越しに、嗣穂つぐほと能面の視線が交わる。


 ちょび髭だけが特徴の、平凡な男を模した能面。華蓮かれんで刃を交えた時よりもさらに薄く感じる印象に、それでも負けじと嗣穂つぐほは匕首を斬り抜いた。


 平凡な見目を裏切る軽い身の熟しで、能面の男が飛び退る。

 間合いを赦す心算つもりは毛頭に無く、呼気を吐きながら嗣穂つぐほは大きく踏み込んだ。

 奇鳳院流くほういんりゅう精霊技せいれいぎ、初伝、――燕牙えんが


!」


 届かぬはずの間合いの外から、炎を纏った斬撃が鋭く虚空をわたる。

 間合いを無為にする精霊技せいれいぎは、後退を図った滑瓢ぬらりひょんの喉元へと迫った。


 ――四院の直系。かんなぎと云えども、未だ甘い。


 能面の奥で口元が嗤いを刻み、呪符と同時に得物である鉈刃を縦に振り抜く。

 斬撃が海底の輝きを伴い、炎の象る飛斬を迎え撃った。


 激突。轢音が辺りに響きわたり、神気を練り上げた燕牙えんがが脆くも砕け散った。


「……それが貴方の神気ですか、滑瓢ぬらりひょん


「さぁて、どうでしたかなぁ。随分と懐かしい輝きでありますが、……身共の記憶に残っていませんので」

 惚けながらも、腰を低く構えを直す。

何方どちらにせよ、退かぬならば攻めるまで。此度は身共も退く心算つもりは御座いませんので、安心して頂きたい」


 嘲弄と共に宣言する。その吐く息も終わらぬうちに、地を這う低さから能面は間合いを詰めた。

 ――虚を突かれたか、嗣穂つぐほの初動が僅かに遅れる。


 掴んだ絶好の勝機に、能面の咽喉のどが思わず震えた。


 ♢


 嘲弄するその声を耳に、能面の奥で滑瓢ぬらりひょんの口元が焦りを嚙み殺す。


 ――事実、己が退くことは既にできないのだ。

 ここまでに滑瓢ぬらりひょんは、長い時間と膨大な手間を費やしている。そしてこれをもう一度、最初からやり直す余裕すら残っていない。


 退くも破滅しかないのであるならば、進むしかない。

 それでも滑瓢ぬらりひょんの脳裏には、拭いきれない疑問が残っていた。


 返ってきた感触から、山ン本五郎左エ門が亡びた事は確実だ。

 滅びる事は予定のうちだが、この段階で到達するのは予想外でしかない。


 ――百鬼夜行神柱堕としの進行する速度が、ここに至って未だ加速を続けている。


 即興で修正しても追いつかないほどの速度が、策動を後押ししているのだ。

 順調と評するには異質な速度。ちらりと見上げた日天は、余りにも高さを残している。


 このまま順調に進んでしまえば間違いなく、夕刻よりも早い段階で、高御座の神域に到達してしまう。


 未だ観経童子の手札を伏せているとはいえ、ここまでの異常。裏で高御座のヒメ君が糸を曳いている事は確信できた。


 ――身共の出自。よもや高御座め、突き止めていたか。


 滑瓢ぬらりひょんが司る象は、強く水行と結びついている。

 陰気の極致である水行は、夜にこそその本領を発揮することが叶うのだ。


 だが、それも誤差に過ぎない。

 策動の加速は同時に、滑瓢ぬらりひょんの象の再現を後押ししている事実にも重なるからだ。


 嘗ての落日に成し得た己の荒行、九法宝典。

 炎に炙られる苦痛を信仰へと換えた御業の元では、多少の不利も無意味となる。


 ――未だ高御座を斬り落とす、回天の道筋すべは残っている。


 己が神器の誇る神域特性の解放。

 それさえ成し得れば、滑瓢ぬらりひょんの勝利は不動のものとなるのだ。


 一抹の不安を能面の奥で押し殺し、滑瓢ぬらりひょんはゆっくりと足を踏み出した。


 ♢


 水底の輝きを伴った斬撃の回避に動かず、ただ嗣穂つぐほはその凶刃が迫る様を見据えた。

 ――別段に自棄となった訳でもない、必要が無いと気付いただけである。


 視界の端で相克の霊道が、奥も見通せぬ闇に染まった。

 陥落した霊道の繋いでいた先が三津鳥居山ならば、通る相手は決まっている。


 霊道の奥から踏み出した脚は、頼りなく強化も出来ていない。

 それまでの連戦を証明するように、宿していた神気は欠片も残さず尽きているからだ。


 一歩。踏み抜く足元で、落ち葉が僅かに舞う。


 二歩。瞬時に満たされる神気が、その跡に残炎を落とす。


 三歩。朱金あけこがねの輝きが燃え散る落ち葉を置き去りに、大地を縮める速度が神柱に愛された少年と能面の間合いを熔かす。

 優先すべきは、視線の先に立つ朱華はねず嗣穂つぐほ。――その喉元へと迫る、能面の凶刃が刻む軌道。


「―――非!?」


 虚を突かれたのか吃驚に詰まる能面を見据えて、神気を満たし終えた少年は虚空に手を差し伸べた。

 心奧に納められた二振りの片方を掴む。


 ――其れは、日輪を蝕む影。落日に願う再生の焔。

 ――紅蓮の柘榴ざくろが沈むは、衰亡に謳う刹那。


 その唇が告げるは、神柱の鍛えた神器うつわを願うみことのり


「斜陽に沈め、――落陽らくよう柘榴ざくろ!!」


 昼日中にあって薄暗いその広場を、何処までも昏い灼光が切り拓く。

 少年の身体が鉈刃の軌道に割り込み、踊る神器の斬道が鉈を半ばから断ち切った。


「これはしたり。――追いつかれましたか」


「ああ。追いつかせて貰ったぞ、滑瓢ぬらりひょん

 ――ここで止めだ」


 流石に悔しさを押し隠せなかったか。平凡な男の能面の口調に、どうにも似合わない憎悪が滲む。

 鉈刃と呪符を両手に構え、能面はその矮躯を虚空に踊らせた。


 対峙する少年の掌中で呼応する落陽らくよう柘榴ざくろが、朱金あけこがねの輝きを一際に上げて猛りを刻む。

 嗣穂つぐほの後背に立つ朱華はねずの表情が、押し隠せない歓喜に綻んだ。


「――晶!!」


 玖珂太刀くがたち山から下りる山風が、一陣の旋風を捲いて虚空を踊る。

 共にひるがえる晶の羽織が、背中で大きくはためいた。

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