7話 巡るは央都、万華の如く3
その学院を遠くから見ると、両翼を広げた鳥のように晶の視界に映った。
「男学部の左府舎、女学部の右府舎。後は教員が詰める中央棟だな。
部活棟や練武館は、中央の手前。
――悪いが挨拶の前に、俺の荷物を教室に置きたい。後輩も荷物は手間だろ、俺のところに固めるぞ」
「……助かる」
ぎしり。迅の申し出に晶が応諾すると同時に、帆布を縫った頑丈な荷袋が軋んだ。
中には数日分の着替えと日用品。詰めるだけ詰めたそれは、鍛えた晶の膂力をしても煩わしさを覚えるほどの重量を持っている。
置ける場所があるならば、晶としても有り難い限りであった。
校庭を脇に、尋常中学校とは規模の違う学舎へと向かう。
特に咎められる事なく、やがて晶たちはその入り口へと辿り着いた。
「今更だけどさ、俺はここの制服を持っていないんだけど大丈夫か?」
「良いんじゃないか? 防人の制服だって詰襟とよく似ているから目立ちゃしないって。
迅の指摘は尤もなものだ。正論を返されて、晶も肯いを返す。
靴箱の並ぶ入り口を通り抜けて、板床を鳴らしながら晶たちは学舎へと入った。
外見の真新しさと違い、廊下や教室の造りは尋常中学校のそれとあまり変わりがないように見える。
その事実に僅かな安堵だけを覚えて、晶は迅の背中を追った。
昼下がりの休憩時間なのか、三々五々、防人の制服に興味の視線を寄越す学生が過ぎて行く。
「こう云っちゃ何だが、随分と廊下は古いよな」
「歴史を感じると云ってくれ。
――
この辺りの事情は何処も同じか。10年以上を経て古びた外見の第三小角尋常中学校を思い浮かべ、晶は得心に頷きを返した。
やがて、学舎も中程を過ぎた辺りか。
廊下と階段の合流する辺りに差し掛かった晶たちの眼前に、階上から少年たちの一団が下りてきた。
見覚えの僅かに残るその顔触れ。
剣術の指導と称して振るわれた
――邪魔なんだよ。
何時かに嘲られた憎悪が、晶の視線を自然と足元へ向けさせた。
「――
「師匠について色々と回っていたんでな。教諭方からは睨まれるかもしれんが、良い知見は得られたさ。
――学院は大過なかったか? 雨月」
否応なく記憶を掻き毟る声と迅の遣り取りに、晶の視界が揺らぐ。
溢れだそうと暴れる
ただ無意識に、精霊へ願う。
何も考えず、
精霊にとって、
それは加護ではない。
――その瞬間、本来は干渉できない筈の人に宿る精霊までも、晶の意思に従って沈黙を守った。
「此方は特に何も。
――ただ、城代教諭が随分とお冠でしたよ?
「酷ぇな、こっちはこれでも公務だぞ。
学院にも許可は貰っている」
「だからと云っても、
バレてますよ。先月末の公務が央都だったこと」
惚けた迅の応えに、雨月
出身や派閥でしか固まらないのが学院の常であるが、人当たりの良い性格で他人と相対する
行き交う学生の表情にも警戒は少なく、洲や派閥すらも越えて関係性を繋いでいることが如実に窺えた。
「不味いな、本当かよ。
城代師範には、後で謝らんとな」
「何でしたら、此方からも口添えを考えますが?」
叱責は覚悟していたが、公務を言い訳にしていた事実がバレていたのは想定外だ。
渋る迅の表情に、
……だがその申し出にも、迅は頭を振って迷う事なく断りを入れた。
「要らねぇよ。――後輩に口添えを無心するなぞ、先輩としての立つ瀬がないだろ。
……お前にはそんな余裕が無いはずだが? 今回の公務で取り沙汰された話題の一つが、
「……それに関して、御心配をお掛けしたことは謝罪いたします。
瘴気は現状、小康状態を維持していますね。
原因が判明次第、雨月の総力を以て浄化に当たると約束いたしましょう」
「……それなら良いが。
何処も彼処も、不穏の種は尽きちゃいない。
――
心配する口調もそこそこに、迅は
――雨月郎党の顔触れに変化は無いが、雨月以外の
口にまでは出さなかったが、
そのやり口は、師匠である
基本的に対人の関係性は、維持し続けないと簡単に途切れてしまう。
それなのに
「先刻に申し上げた通り、そこまで深刻なものではありません。
状況が落ち着けば、現状の回復も容易いでしょう。
――それよりも、」
「?」
だが折角の探りも、感情も読めず逸らかされて終わる。
それも迅の予想通りであったが、追及はせずに迅は肩を竦めた。
代わりに
「そちらの方は? 学生ではなく防人の制服を着ているようですが」
「ああ。
「
♢
――びくり。怯懦から晶の肩が僅かに震えた事は、誰にも責める資格は無いだろう。
早鐘を割れ撃つほどに心の臓腑が昂り、脈打つ血潮の音が耳朶の奥を
緊張が痛いほどに思考を責める中、晶は
――一つ秒を数える間がこれほどに長く感じられたのは、晶の記憶でも何時振りの事であったろうか。
大丈夫だ。雨月は晶が死んだと信じ込んでいる。
そもそも、あの連中は晶の事をそれほど意識したことも無かった。
数えるほども会った事のない
必死に思考を宥める晶を余所に、
「ああ。一寸ばかり縁が有った。
急いで教諭の許可を貰わにゃいかん」
「そうですか。お名前を訊いても?」
「ああ。――名前は……」「雨月」
迅が口を開くよりも早く、階上から新たな声が降ってきた。
聞き覚えのあるその響きに思い至るよりも早く、相手が階段を降りてくる。
詰襟の制服が
「一組の担任が、俺のところまでお前を探しに来ていたぞ?
八家だからって、繋がりを勘違いされても困るんだがな」
「それは済まない、直ぐに向かうよ。
――
晶の名前にそこまでの興味も持っていなかったのか、
軽い足取りが、迷いも見せずに階上へと消えていく。
その様子を最後まで眇め見て、晶は大きく息を吐いた。
「ったく、面倒な。
――あれ?
「つい先刻だ。
……雨月と云い、俺はそんなに話題になっているのか?」
「知っている奴は知っている程度なんで、そこまでじゃないっすね。
ま、城代師範の心中までは判りゃしませんが」
呆れたように返る諒太の応えに、迅は慨嘆を吐いた。
それなりに噂が広がっているという事は、城代師範の苛立ちもそれなりには高いのだろう。
「それよりも、後ろの奴。
……
「お久しぶりです、
思わぬ相手からの助力に安堵を浮かべつつ、晶は諒太に会釈を返した。
「
――丁度いい。
「は!? 何を云っているんすか、先輩。
此奴は……」
咲に感情を残していないとはいえ、当の本人と組まされるのは不本意極まりない。
思わず感情を吐き捨てかけるが、その行き先を持てないままに諒太は
「何だ?」
「や、何でもないっす」
「変な奴だな。
――晶、行くぞ。教務室はこっちだ。」
「判りました。
――
つまらなそうな諒太の口調に首を傾げるが、言及する事無く迅は教務室へと足を向けた。
迅を追おうとした晶の背に、苛立ちとも違う感情が投げられる。
「……
その言葉の真意を推し測ることは難しい。
ただ晶に出来たのは、肩越しに軽く会釈を返す動きだけであった。
♢
「……まぁ、
簡素と頑丈を突き詰めたような机の上に、軽い紙の音と共に開かれた紹介状が置かれた。
「喫緊の状況へ対応する為、こちらの防人が
中学生でもある晶の学業に寛大な配慮を願いたいと、
「……その配慮とやらを
――晶と云ったか、姓は?」
視線を向けられ、晶は軽く頭を振った。
「平民なので、姓は持っていません」
「平民なら見做し防人か。出向が許可されるなら期待はされているんだろうが、
「晶は
守備隊の仕事があるんで、朝練などは除外すれば有り難くありますが。
――
「あれだけこれだけとか、都合のいい切り取りができるものか。
――それに、姓が無いのも問題だ」
飽く迄も華族でない事実を問題視する城代を前に、迅の代わりに晶が前に出る。
ここまでくれば、気後れするのも失礼になるかもしれないからだ。
「後見に
……威光は充分なはずですが」
「
体裁だけでも取り繕っておかないと、威光の陰で増長する輩が増えるぞ」
止まない愚痴は、半月も戻ってこなかった迅にも向けられている。
その辺りは理解しているのか、迅からの反論が上がる気配は無かった。
「……まぁ、
確か、
転校の手続きはそれからだ」
「「助かります」」
「足りない単位を補うのは良いが、授業進度の違いについては責任を持てんぞ。
……その辺りは、自力で何とかしてくれ」
「はい」
いくら許可が出たとしても、現時点の知識がどうにかなる訳ではない。
最悪、全く理解のできない授業を聴くだけの時間を、延々と過ごす羽目に成り兼ねないのだ。
城代の忠告は、それほど的を外したものでも無い。
それでも、躊躇いなく首肯を返す晶を認め、城代は立ち上がった。
「直ぐに授業も無理な話だろう、今日はこれで終わりなさい。
「――よろしくお願いします」
暫定の許可に、晶たちの頭が下がる。
踵を返して教務室を出ようとする二人に、城代からの声が投げられた。
「それから、
「……押忍」
呼び止められた内容に予想はついていたのだろう。
振り向く直前に唇を
その僅かな間に、晶へと視線を向けて前に退室を促した。
「
逃げていたツケは覚悟しなければならないだろうが、流石に叱責まで付き合わせるのは気が退けたのだろうか。
城代から叱責を受ける迅に苦笑を残し、その意図を汲んだ晶は教務室を後にした。
♢
迅と別れた晶は独り、杉板の屋根が渡されただけの通路を
天も高く晴れ渡る秋の気配。それは
「参ったな……」
思わず独り言が口から漏れた。
今から向かおうとしているのは、女学部のある右府舎だからだ。
咲との距離が意外と近く意識に昇っていなかったが、基本的に男子と女子の学び舎が一緒になることは無い。
本来、尋常校は男子のみであり、女生徒は女学校に進むのが一般であるからだ。
実のところ、この時代で曲がりなりにも共学制の体裁を整えている学校は、
当然の事、咲などの例外を別にすれば、晶も女生徒と接近するなどは初めての経験だ。
咲に挨拶だけでもと思ったのだが、右府舎の窓硝子越しに談笑する女学生の姿を見て、後悔に似た気後れを覚え始めていた。
通路を吹き抜ける微風の肌寒さも相俟ってか、怖気る感情は一層に寂しく晶の肌を撫でて過ぎて行く。
――と、
女生徒が独り、右府舎から中央棟に向けて歩む姿を見止めた。
会釈を交わす雰囲気も躊躇われ、晶は右府舎へと意識を戻す。
その時、
「――胡乱だね、君?」
笑いを堪えるような弾む口調が、晶の歩みに釘を刺した。
踏み出そうとした一歩を戻して、声の方向へと視線を巡らせる。
すれ違ったはずのその少女が、春に咲き誇る花のような爛漫とした笑顔を晶に向けてきた。
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