8話 斯くて現は、幽かに交われば1
「――胡乱だね、君」
弾むような口調に、晶の一歩が後方へと向いた。
巡る晶の視線が、感情を読めない笑顔を浮かべた少女と交わる。
何処か相手を玩弄するようなその微笑みに反発を覚え、晶は身体ごと相手に視線を向けた。
「……それは、俺の事を指しているのでしょうか?」
「うん、正解だ。知らないなら伝えておくけど、右府舎は男子禁制だよ。
弁えずに侵入しようとしたならば、無思慮無分別を誹られても文句は云えない」
彼女からの指摘に、思わず右府舎を流し見る。
晶たちの生きる時代、基本的に男子と女子の学び舎は分けるのが常識であった。
女学生との交流などは無く、晶たちも日常に同世代の少女を見かける経験は余り無い。
この時代に
そこに思考が至り、晶は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
「――序でに指摘させてもらうならば、隠形を仕込んだ男性が右府舎に向かって歩いているんだ。
傍目から見れば、不審者にしか見えないと思うけど?」
耳元に届いた囁きが、晶の足に後退を選ばせる。
二、三歩、仰け反る少年を、悪戯に笑む少女の視線が追いかけた。
「隠形? 俺がですか」
「気付かれないとでも? 普段は噂好きの精霊たちが、君の周囲だけ不自然に静かだ。
確かにこれなら、君と会話しても暫くすればその事実にすら意識しなくなるだろうさ。
凄いね。僕でさえも、擦れ違った際に戻った僅かな騒めきで辛うじてだ」
矢継ぎ早に畳み掛けられるその声に、晶は後退を強いられる。
僅かな後、背中に通路の柱を覚えて後退の歩みが止まった。
「ま、待ってください」
「待てないね。その
――君は誰だ?」
深まる笑み。だが愉快そうな響きが混じっていない事実に、晶は気が付いた。
真実を追求しようとする独特の口調が、晶に絡みつく。
言霊。その単語だけが、思考の裏に浮かぶ。
従えようと捕らえてくる少女の声に、半ば反射的に晶は抗った。
「……名は晶と云います。城代教諭に俺の事を確認いただければ、特に問題ないかと。
――右府舎には俺の教導が在籍していると聞いていましたので、挨拶に向かっただけです」
「
――へぇ」
一息に返された自身の言霊に、少女は目を瞬かせる。
明確に行使していないから拘束力が低いのは否めないとしても、言霊を返されたのは初めての経験であった。
――嘘を吐いた様子も無いから、言霊を破った訳でもなさそうだけど。
内心で疑問に思いつつも、真実の響きに少女は追及の矛先を納める。
それよりも彼女の興味は、
記憶にある響きのそれ。
――……見た分に、そこまで興味はそそられそうにも無いけれど、
「隠形はどういう意図かな?」
「それはこちらも意図していません。
――と云うか、貴女は誰でしょうか? 不審を問われるのは仕方ありませんが、名乗りもしないのでは失礼ではないかと」
問いに問いで返されて、少女は軽く肩を竦めた。
少女の事を知らないのは仕方が無いだろう。彼女の知名度は高い方であるが、幾ら何でも
笑みを収めて、少女は晶を見据える。
「……確かに、失礼したね。僕のことを知らない相手に会ったことが無いんだ。
僕は
「――失礼しました!」
笑むままに、だが奇妙に感情の浮かばない眼差しで告げられたその名に、晶の表情に警戒が浮かんだ。
四院の一角、
「知らないのは仕方がないよ。
これでも名が売れている方だけれど、
「どうして俺が
「流石に学院では、防人の偽装する意味がないだろう。出身なら歩き方だよ。
攻め足を重視した歩き方は、
立て板に水と語る誉は、破顔一笑して晶とは対面に建つ柱に背を預けた。
表面だけではない真摯な笑顔は、その言葉が彼女の本音であると無言のうちに伝えてくれる。
「その表情を見る分に、正解かな?
「……ええ、脱帽です」
嫌味の覗かない視線に、晶は茶化した仕草で帽子を取った。
影になっていた目元が露わとなり、誉が内心で首を傾げる。
晶の所作に、どうにも既視感を覚えたからだ。
気の
背を預けていた柱から離れ、誉は右府舎に足を向けた。
「僕が呼んでくるから、少し待ち給え。君の相手は
「どうして、俺の相手まで?」
「女学生で教導に入れるほどなら、衛士候補で確定だろう。
――ああ。隠形は解いた方が良い。礼儀だし、相手が女性でなくても気分のいいものじゃない」
気遣いのある誉の忠告に、晶は首肯を返す。
だが正直なところ、隠形と口にされても思い至る節が無いのが問題であったが。
隠形を解けるように、駄目もとで晶は内心で願ってみる。果たして。
「ああ、精霊の騒めきが戻ったか。うん、そちらの方が良い」
どうやら、それで正解だったらしい。
首肯を一つ。誉は右府舎へと消える。
少女の追及が無くなったからか、解放感に晶は大きく安堵の息を吐いた。
「晶くん!?」
「お久しぶりです。咲お嬢さま」
柱から背を離し、待つこと暫し。
焦りに急く声と共に、右府舎の入り口から咲が駆け出てきた。
周囲の視線を気にすることなく、晶の近くへと身を寄せる。
「何時、央都に?」
「つい先刻です。一週間前、百鬼夜行が
咲の問いに答えようとした晶の口元へと、少女の人差し指がひたりと当てられた。
鋭い視線が後方へと巡り、右府舎の入り口に立つ少女へと向かう。
「――
「気にすることは無いよ。右府舎に侵入されて騒ぎになるよりか、僕が骨折りをすればいいのだから。
やはり、咲くんの良い人か。僕は目を瞑るけど、逢瀬は程々にね」
「違いますっ!! 彼は……」
「判っているよ。ただ妙な噂が広がる前に、適切な距離は守った方が良い。
――何処にだって人の耳目が有るのは、身に染みているだろう?」
笑いながらも、通廊を覗ける右府舎の階上を一睨みした。
きゃあきゃあと姦しい笑い声が響き、数人の少女が窓の向こうへと引っ込む光景が目に飛び込む。
知り合いなのか、眉間に寄る皺を抑えながら咲は呻くように嘆息を吐いた。
「慌て過ぎました、気を付けます。
誉さまは……」
「僕は所用で
暫くは戻れないね」
「そうですか、無事をお祈りいたします」
「有り難う。
――まぁ、手間が掛かるだけで、子供のお遣い程度の用事さ。
社交辞令と理解はしているのだろうが、咲の言葉に明け透けな笑顔を浮かべる。
嫌味の無い、不思議な魅力に満ちた笑顔。
最後に一瞥を晶へと残して、誉は颯爽と踵を返した。
歩み去る足取りも迷いなく、彼女は中央棟へと姿を消す。
充分に距離を離したことを確認してから、咲は漸く肩の力を抜いた。
「ふぅ。悪い人じゃないんだけれど、誉さまを相手にするといつも気が抜けないわ。
晶くんも気を付けて、あの人は言質を取るのが得意な方なの。
会話をするなら、出来るだけあの方から距離を取った方が良いわ」
「判りました。……ですが、随分と警戒されていますね?
流石にもう、聴こえないと思いますが」
「
少なくとも、あの手妻は行使できると確認もしているの」
咲の言葉に、晶は自分の発言を思い返した。
致命的な事は口にしてないと思うが、言葉の端や所作から素性を言い当てた手管は目にしている。
何を見抜かれたのか、当の晶をして判断もつかなかった。
「確かに鋭い方でした。四院の方には縁がありますが、その中でも特に一筋縄ではいかないと思います」
「そうね。
――それよりも晶くん、どうして
央都に来ることは、
咲が受けていた連絡は、晶が近衛か守備隊で身を寄せる所までである。
だからこそ学院が終わった後に、
しかし、突然に晶が
「……
中学校の授業単位だけでも、どうにか誤魔化せるよう取り計らってみると」
「……ああ、
普通なら有り難いけれど、よりにもよって学院を紹介するなんて。
――良い、
「判っています。……先刻、擦れ違いました」
擦れ違う状況を想像し、咲の顔色が青くなった。
伝え聞いているだけであるが、晶と
加えて、雨月は晶の生存を知らないはずだ。
擦れ違い程度ならば、本来は気を保たせるほどの問題でも無い。
だが、
――血縁なのだ。相手も晶も否定はするだろうが、この世で最も強固な縁の一つで彼らは結ばれている。
それは好悪の
「……どうなったの?」
「気付かれませんでした。……
「――そう、良かった。
これ以上を口出しするのは、
話し込む二人の頭上から、半鐘が響き渡る。
時間が無くなった事を悟り、咲は授業に戻るべく踵を返した。
「詳しい話は放課後にしましょう。
晶くんはどうするの?」
「これ以上はどうする事もできませんし、俺は授業が終わるまで待っています。
放課後は、
「知り合ったのは聴いていたけど。何だ、随分と仲良くなっているのね。
……丁度良いわ、私も守備隊に行く。
少し変化した雰囲気に戸惑う晶を放置して、咲は校舎の中へと戻った。
奈切迅は、女性ではない。
他人、それも男性と
だが、咲の知らない部分で晶の関係が広がるところを目の当たりにして、焦りに似た感情を覚えたのも、又、事実である。
咲が経験したことのない、口にし難いその感情。酷く稚拙で原始的なその焦りは、
――知るものが見れば、嫉妬と呼べるそれに似ていた。
♢
事前に話を通していたお陰か、割と簡単に教諭の許可は下りた。
直前に交わした晶との遣り取りを思い返しながら、誉は中央棟の玄関へと足を向けた。
「――誉さま」「うん?」
呼び止める若い声に、誉は思考を中断して振り向く。
視線の奥には、何かと関係のある雨月
「
「ええ、級長の面倒なところですね。
……誉さまは欠席ですか?」
このところ騒動が尽きなかったが、現状の
――だが、その苦労が透けて見えてこない。
相手の様子に、どうにも追い詰められているようだと誉は内心で推測を立てた。
華族の浮沈は、信頼関係によって成り立っている。
その信頼は多くの場合、血統や土地、歴史などの動かせない事実によって維持されているのだ。
だが、所有する土地を大きく瘴気で蝕まれてしまった場合、信頼を維持するためにそれらを取り繕う必要がある。
傾いた家系に信頼は生まれない。信頼を補うためには多くの場合、資本をばら撒く必要が出てくるからだ。……そして多くの場合、資本の復旧が叶うよりも先に、身代をさらに傾けてしまう結果に終わることもだ。
……しかし、それらは全て
誉の関与すべき領分ではない。
そういった諸々を喉の奥に押し込んで、誉は快活な笑みを
「公務だよ。最低でも一週間は戻らないかな。
生徒会は副会長に任しているけれど、
「判りました、無事のご帰還をお祈り申し上げます」
「
初年度前期の成績は土を付けられたけれど、後期はそうも行かないよ」
思惑を隠したまま応酬する言葉の端々は、主に競い合っている成績の内容についてである。
歴代最優秀を維持し続けていた少女の記録は、初年度前期だけとはいえ僅か5年の後に目の前の少年によって破られることになったのだから。
その事実に対して特段に拘りは無いとはいえど、誉も
だが、拘っていないというならば、
誉の揶揄に揺らぐことなく、その眼差しが誉のそれと絡み合った。
「真逆、点数比べに一喜一憂するほどでもないです。
誉さまと云う目標あっての結果でもあるでしょうし」
「なら遠慮する必要も無いかな。
――
「はい、お気を付けください」
軽く会釈を交わして、
一歩、明るい外に足を踏み出す。秋の日差しを受けて、誉は目を眇めて天を仰いだ。
名も知らない鳥の泳ぐ影が、高天を見上げた誉の瞳に落ちて映る。
「……そう云えば、奇縁もあるものだね」
「何か?」
その呟きを耳に拾ったか、廊下の向こうに消えようとした
その怪訝そうな表情に、意趣返しも上手く行ったかと誉は微笑む。
「現在の学院には、四院の直系が3名も在籍しているっていう事実に気付いてね。
学院の歴史もそれなりに永いけれど、ここまで重なったのも初めてだそうだ」
「そうなんですか」
気のない
だが、たった数ヶ月の生まれ、日付の掛け違いがあればこの3名ですら邂逅することは無かっただろう。
「残念だね。ここに
「……皆様方を敬服する身としたら、余り想像したくありませんね。
四院がぶつかるなど、周囲が平地でも被害は莫迦になりません」
「
まぁ、一筋縄ではいかない素直さが、君の魅力でもあるが」
所詮、秋の空に思わず口を衝いただけの言葉だ。然して残念にも思う事なく、誉は掌を振って今度こそ秋晴れの下へと消えていった。
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