閑話 彼方に追い求め、それでも貴方を

 たん、たたん、 、たん。小気味良く。間を空けて、また小気味良く。

 水面みなもを叩く音に、玄麗げんれいは彼方に向けていた視界を現世へと戻した。


 黒曜の輝きを宿した瞳が虚空そらを彷徨い、


 薄く瞬く双眸を振り、傍らに座る少女に寄せる。


「……静美?」


「お傍に。……また・・珠門洲しゅもんしゅうに意識を投げていましたね」


 静美の口調に滲む心配の影に、玄麗げんれいの口元が拗ねたように尖った。


 五行運行にいて水行を支配する玄麗げんれいは、相克関係にある火行に対し圧倒的な優位性を保持している。

 ここ最近、玄麗げんれいは水気の龍脈に自身の神気を通し、珠門洲しゅもんしゅうへと伸ばしていた。


 本来、神柱の支配が及ぶのは自身のくに、その境までである。

 だがそもそも、龍穴から始まる龍脈とは、全てを巡りまた戻るものだ。


 特に水気の龍脈は、水脈と並行して高天原たかまがはら全土を巡っている。

 その事実を利用して、玄麗げんれい華蓮かれんの水脈を走査する事で晶の影を探っていた。


 ただ神柱にとって、この行為は自身の体内を直に開いて観るに等しい。

 特に、支配権の外部に意識を伸ばすのは、筆舌にしがたい負担となる。


 ――それでも躊躇う事なく、玄麗げんれい華蓮かれんに侵入するべく行為を繰り返していた。


「晶は大きな水脈に触れていないようじゃ。

 あか・・が上手く隠しておるな」


くろ・・さまが意識を伸ばしている事は、」


「気付いている。……が、あか・・は放置するであろう」


 玄麗げんれいの断言に、静美も無言で同意を返す。

 奇鳳院くほういん伝えであるが、晶の帰属する意思は明確にされている。


 口惜しいが認めるしかない。神無かんな御坐みくらを巡る争いに王手をかけているのは、朱華はねずの方だ。

 これ以降で状況を巻き返すために、義王院ぎおういんは政治も感情にも失着を赦す訳にはいかなかった。


 云わばこれは、何方どちらが先にこの問題を央洲おうしゅうの裁可に持ち込むのか、その我慢比べをしている段階なのだ。


 この段階ですら無為に潰してしまえば、國天洲こくてんしゅうの言い分は完全に目が無くなってしまう。


 ……特に、晶の感情面だ。

 晶は義王院ぎおういんに謝罪をしたいと口にしていたと云う。

 つまり、國天洲こくてんしゅうに対する晶の感情に清算をつけてしまう事を意味している。


 晶の抱いている気掛かりは、詰まるところ義王院ぎおういんへの負い目だ。

 これを失わせる事なく維持していけば、義王院ぎおういんへの帰参を願えるかもしれない。


 その為にも絶対に、晶より先に義王院ぎおういんが謝罪をしなければならないのだ。


 ――それだけが、義王院ぎおういんに残っている勝利への可能性であった。


藤森宮ふじのもりみやに裁可をたのみますか?」


「止めよ」

 三宮の中でも、裁定権を司る藤森宮ふじのもりみやにこの問題を持ち込むことは自然な流れではある。

 だが、玄麗げんれいは短くそう断じて返した。

「三宮のなかでも陽の相を担う藤森宮ふじのもりみやは、陽の極致たるあか・・と距離が近い。心情からしても、あれが不利へと傾く可能性が高い。

 大事にはなるが、持ち込むならば月宮つきのみやが最善よ。

 ……雅樂宮うたのみやは、現世の分野で頼れんしの」


 対して、陰の極致である玄麗げんれいは陰の相を担う雅樂宮うたのみやと非常に近いが、祭祀権を司る雅樂宮うたのみやにこういった方面での口添えは期待できない。

 祭祀とは、神域との繋がりだ。現世との関わりは、最小限に止める事が常識だからだ。


 月宮つきのみやへと志向する玄麗げんれいの判断は、そう的外れなものでは無かった。

 だが月宮つきのみやの裁可とは、上位意思としての最終的な判断の事だ。これを外してしまえば、義王院ぎおういんに外交的な決着手段が無くなってしまう。


 その果てに有るのは、内乱と隣り合わせの強硬手段しかない。


 朱華はねずもそうだが、玄麗げんれいの判断が慎重になるのも頷ける。


「では……」


「暫くは華蓮かれんの水脈を揺らすだけに止める。

 これで、奇鳳院くほういんあれの本気が伝わってくれれば良いが」


 要は、こちらの本気を誇示して相手の出方を待つのだ。

 水は生命にとって必要不可欠な要素である。脅しであると確信していても、これを絞められてしまうと相手も交渉の卓に付かざるを得なくなる。

 だが多くの場合、この手段は仕掛けた側にとって悪手で終わることが多い。


 相手の生殺与奪を盾にする。

 相手にとってそれは、手段を選ぶ必要のない正当な・・・理由になってしまうからだ。


「僭越ながら難しいでしょう。こちらが先に手を出したという、論拠を与える事に成り兼ねません」


「晶は向こうに居るのじゃぞ! それも、あか・・の下であれのことを忘れたいと思っている」


 さわ。玄麗げんれいの感情がささくれ立ち、空間がしなんだ余波に水面みなもが騒めいた。

 大きな山場を越えたと云え、未だ安定を取り戻せていない玄麗げんれいの感情は、僅かな事で決壊する可能性を大きく秘めている。


 下手な発言は逆効果と、敢えて静美は事実を口にした。


「はい。ですので、私たちのできる最善手は一択しかありません。

 神嘗祭かんなのまつりよりも前に晶さんと出会い、こちらから先んじて義王院ぎおういんの手落ちを謝罪します」


 晶が感情の清算を願っているというならば、清算が出来ないようにすればいい。

 単純に、何方どちらが先に云ったか。というだけのつまらない問答であるが、交渉上の誠実さを求めるならば決して軽んじる事のできない要素でもある。


 その事に関しては自覚もあるのか、顔を背けて玄麗げんれいは肯いだけで応えて見せた。

 うなじ越しからも判るほどのふくれっ面に、理性は理解できても納得には遠いことは窺える。


 それでも返る事のない不満は、黙してなお彼女の同意を暗に示唆していた。


「ありがとうございます。

 晶さんとの同意が得られて後、奇鳳院くほういんとの交渉に入りましょう」


「……うむ。

 雨月は晶が誅を下すとして、周囲の痴れ者はどうなっておる?」


 雨月とは別腹と云わんばかりに、いとけなかんばせに凄惨な笑みが浮かんだ。

 晶を害したものは、玄麗げんれいにとって獅子身中の虫に等しい。

 雨月の末路は止められたが、その周りを賑わせている寄生虫程度は掃除しておきたかった。


 晶の追放が発覚して以降、晶の冷遇に関わったものたちの洗い出しは既に大方を終えている。

 晶の感情に整理をつけるため、雨月への手出しをしていないが、それでも周囲の掃除までしないのであるのは義王院ぎおういんの不手際と誹られかねない。


 ……神嘗祭かんなのまつりの辺りまでに決着をつける心算つもりでいたのだが、


「本命となる対象は、洲議の井實いじつ央洲おうしゅう旧家の御厨みくりや弘忠ひろただ。残る一人の御厨みくりや至心ですが、居場所が問題で手出しの方法に迷っている状況です」


「居場所、と?」


珠門洲しゅもんしゅう鴨津おうつに、剣術の指南として招かれていると。

 央洲おうしゅうの華族が珠門洲しゅもんしゅうに逗留となると、國天洲こくてんしゅうだけで強行するにも限界があります」


 央洲おうしゅうは無関係としても、珠門洲しゅもんしゅうは今回の顛末に一枚噛んでいる側だ。

 國天洲こくてんしゅう央洲おうしゅうの華族を謀殺するならば、その背後関係を間違いなく探りに来る。

 奇鳳院くほういんに知られても問題は無いが、これを元手に何らかの譲歩を迫られる可能性は充分にあった。


「厄介な場所に逃げ込んでくれようたか。

 ――燻り出すのか?」


「いいえ。央洲おうしゅうに戻るように誘導して、そちらで対処します。

 ……井實いじつは洲議ですので、叩けば埃に苦労はしないでしょう」


「洲議か。随分と妙な連中が、ここ最近で幅を利かせてくれたな」


 現世の運行に干渉できない玄麗げんれいが、忌々し気に呟く。

 義王院ぎおういんにとっても、この辺りには妥協せざるを得ない事情が潜んでいた。


 洲議に期待されている役割は、三宮四院が下した決定の補佐である。

 文明開化以降、急速に発展した産業技術は、利便性をもたらすと同時に単一の意思決定では制御が取れないほどに複雑化したからだ。


 しかしこの立場、公然と利権の分配に噛みやすい。

 旨味が多くある上に、権利も膨大。汚職と腐敗の代名詞となるのに、そう時間は掛からなかった。


「政治の澱みを胎に煮詰めたならば、後は処分してやるのが役目かと。

 残りも・・・、ある程度は整理する予定です」


「それが善かろう。

 ……問題は、洲の外も晶の追放に噛んでいたことじゃな」


 返す言葉も難しく、静美は眉間に皺を寄せた。


 御厨家みくりやけの現当主である御厨みくりや弘忠ひろただは、雨月天山の妻、雨月早苗さなえの弟にあたる。

 落ち目であろうとも央洲おうしゅうの旧家。流石にこれを根絶やしにするのであれば、央洲おうしゅうが黙っていないはずだ。


「不幸中の幸いですが、晶さんに関与していた洲外の関係者は御厨家みくりやけの縁者だけでした。

 最悪でも、旧家の一つを沈める程度で事は済むはずです」


「ならば良いがの」


 短く応える玄麗げんれいの憂いには、不満が色濃く浮かんでいた。


 央洲おうしゅうの華族でも、特に央都の中央を固める華族を旧家と呼ぶ。

 嘗ての御厨家みくりやけは中央で隆盛を誇ったというが、昨今の変化に付いて行けず凋落もいちじるしいと聞いている。


 単純に考えるならば落ち目の華族一つだが、旧家同士の関係は複雑怪奇だ。

 何所で如何、関係が繋がっているかは、当家同士でないと知り得ないほどであった。


 前当主である至心だけなら兎も角、現当主にまで手出しをすれば、旧家全体が敵に回る可能性がある。

 御厨みくりやの一族に関して、これまで手出しを控えてきた最大の理由がこれであった。


央洲おうしゅうで手出しをするならば、それこそ藤森宮ふじのもりみやの黙認を得なければなりませんね。

 ……できれば現当主御厨弘忠前当主至心、両方を同時に押さえれば最善ですが」


「いいや静美、二兎を望みすぎるな。一匹ずつ、確実に、魂魄ごと、磨り潰せ」

 きり。宣言と共に、玄麗げんれいの感情に瞋恚しんいが覗いた。黒曜の瞳に赤黒い輝きが混じり、童女の姿をした神柱が神罰を断じる。

「――嗚呼、口惜しや。國天洲こくてんしゅう侵入はいったならば、あれが直々にでもくびってやろうものに」


 嘆く呪詛に反応して、周囲の呪符が幾つか灰と変わった。

 この様子だと数刻は荒れるだろうか。そう目算を立てて、静美は慎重に鎮めの呪符を取り出す。


 安定と不安定。交互に浮いて沈む玄麗げんれいの感情は、未だ尚、決壊する水際で危うい均衡を保っていた。


 ♢


「はあぁ~あ。漸く、一段落ついてくれたか」


「騒ぎが起きて数日経っているのに、未だに足並みが揃わないのかい?」


 万朶ばんだが引き起こした騒ぎから数日後、本部に呼ばれていた厳次げんじは屯所に帰かえして大きく安堵を吐く。

 華蓮かれんの守備隊と縁のない孤城こじょうは、苦笑を浮かべて厳次げんじの労苦を労った。


 厳次げんじが久方振りに自身の席へと勢いよく腰を下ろす。

 ぎしり。途端に、安物の背凭れが悲鳴を上げて抗議を返した。

 椅子の悲鳴を抑え込むように、背筋を伸ばして天井を仰ぐ。


「百鬼夜行の被害は、館波見川より郊外に集中していたしな。あの時も洲議の連中は、対岸の火事を眺める気分で復興の金勘定をしていただけだ。

 ――今回は、上位華族が住む周辺から中央までが喰い荒らされた。他人事じゃいられん上に、責任の押し付け合いで血眼だ」


「組織運営に綺麗事を持ち込む心算つもりは無いがね、現在はそんな状況でも無かろうに」


 辛辣な孤城こじょうの評に、厳次げんじは軽く肩を竦めた。

 云いたいことは理解できるが、この件に関しては上層の連中の言い分もある。

 前任の万朶ばんだが問題を起こしたため、次の総隊長はかなり肩身の狭いことが確定しているからだ。

 この状況で総隊長の座を望むのは、貧乏籤以外の何物でも無い。


「同意はするが、云わんでくれ。

 伯道洲はくどうしゅうでは、この辺りはどうなっている?」


「洲議の中には、甘い汁を期待する連中が多いことは確かだ。

 ……陣楼院じんろういんの目を掻い潜れると、思い上がれる連中が少ないのは救いかな」


「それは羨ましい。此方は精々、後任の守備隊総隊長どのに期待しよう」


 軽く肩を竦める孤城こじょうに、厳次げんじは演技ではない羨みを向けた。


 それよりも、と源次は話題を変える。

 友人の表情かおに何かを察したのか、孤城こじょうも表情を引き締めた。


「今回の一件、首謀は神柱ほどの力を持った強大な化生だそうな。

 孤城こじょうどのは聞き及んでいたか?」


奇鳳院くほういんさまから、それとなくは。

 ――私も予定を繰り上げて、奴を追う事にするよ」


「それは心強い。実は、奇鳳院くほういんさまより直々に勅旨を享けてな。俺も、晶を引き連れて央都に向かう事になった」


「……だろうね」


 予想していた結果に、孤城こじょうは軽く肯いを返す。

 奇鳳院くほういん嗣穂つぐほと晶が央洲おうしゅうに向かうと宣言を耳にした際、孤城こじょうも使者と云う立場を存分に利用して同行を願い出たのだ。

 だが、許可が下りるまでの微妙な逡巡に、指摘しないまでも孤城こじょうは意識していた。


 弓削ゆげ孤城こじょうが晶の正体に気付いているのか、疑っているが確信も無い。

 下手に突いて刺激する事は藪蛇に為り兼ねない。

 ……恐らくは、その辺りで迷ったのだろう。


 だからこそ、阿僧祇あそうぎを晶の潜在的な護衛にする事で牽制しようと判断したか。


 悪神を追おうと云うのだ。孤城こじょうと云う戦力を考えるならば、他洲の関係者であれど充分に歓迎されるはずである。

 この反応を見せた時点で、孤城こじょうは晶の正体にほぼ確信を得ていた。


 だからこそ、得られた機会は存分に活用する。

 他洲の関係者と云う事実を意識しないで済む今のうちに、無碍むげにできない信頼関係を築くことが、孤城こじょうにとって最優先事項であった。


「――そう云えば、晶も同行する件だが」


「……随分と、目に掛けられているみたいだね」


「それ自体は有り難いが、ちと悩みがあってな」

 溜息を抑えきれず、厳次げんじは白湯の入った湯呑を掴んだ。

 既に冷たくなったそれを、一気に呷る。

「――現在、晶は中学校に通っているんだが、今回、央洲おうしゅう行きの終わりが見えん」


「ああ。公欠で授業に付いて行けなくなる可能性が在るのか」


 孤城こじょうの指摘に、厳次げんじは言葉も無く頷いた


 学生の身でありながら、守備隊の防人も兼任しているのだ。練兵ならまだしも、兼業できる仕事量では本来ない。


 護国の要と立つ以上、学生の事情が使い潰されるのは仕方がないかもしれない。だが、厳次げんじ忸怩じくじたるものを心の底に覚えていた。


「どうにも、央洲おうしゅうの守備隊か近衛辺りに放り込もうと、考えておられるみたいだが。

 ……もう少し、奴の学歴にも配慮してほしいと思ってな」


「成る程ね。

 ――そう云う事なら、私が一肌脱ごうか」


「うん?」


 ボヤキ程度の厳次げんじの愚痴に、孤城こじょうは得たりと快諾を返した。

 学生の授業に詳しくは無いが、孤城こじょう高天原たかまがはらの全土で仕合を求められることが多い。


 当然、相手の素性は確かだし、仕合の結果として伝手も多い。

 その事実は央洲おうしゅうでも変わることが無く、得られた伝手の中には学院の長であるものの名前もあった。


 この辺り、華蓮かれんの上級学校を卒業している厳次げんじには、手の届かない伝手である。


「要は授業を受けた体裁が欲しいんだろう? 何、央洲おうしゅうで教職に就いたものに心当たりが有る。短期の転校扱いで良ければ、多少の無理も聞いてもらえるさ」


「……それは助かるが、良いのか?」


「構わないよ。奴には昔、無理をたのまれた貸しがある。この程度の面倒は義理の支払いにも入らんさ」


 然して難しくも無い程度の無理、軽く請け負って孤城こじょうは立ち上がった。

 ――奈切迅なきりじんも晶との友誼に随分と馴染んでくれている。その事実一つだけ取ったとしても、この返礼は孤城こじょうにとって安いものであった。

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