閑話 答えは遠く、確証は結論に臨む1
――
改札を抜けた
「――変わらんなぁ」
「私にとっては初めての都ですので、何もかもが珍しいですが。
……特に、ここまで人が集まっているのは怖くもあります」
思わず漏れた直利の感慨を、背中で応える声が柔らかく跳ね返す。
苦笑に
「そうか。妙は
「はい。物の本にも書いてありましたが、祭りでもないのにここまで人が行き交う光景は、読むと実際に見るでは違いますね」
直利の妻である
当然、視界を一巡しただけで百を超える人の数を目にするなど、妙には初めての経験である。数の差に圧倒されて暫し、妙は僅かな恐怖を表情に滲ませていた。
「これでも
街道も通っているし洲鉄も整備されているけれど、やはり、ね」
「400年前の内乱が尾を引いているとは、随分と根深くあるんですね」
妙よりも遅れて改札を抜けた陰陽師の一団に指示を出し、案内に出迎えた役人に先導を預ける。
未だ竦むように足を止めている妙と肩を並べて、直利は苦く唸った。
「随分と被害が出たそうだ。
「直利さまに嫁ぐ前、
随分と怖く思っておりましたが、直利さまを見て安堵したことを覚えていますよ」
「あぁ、それは……」
軽く笑う妙を複雑に見て、そっと視線を逸らす。
その向こうで、筋骨隆々とした男性が新鮮な魚を大八車に乗せている光景が飛び込んだ。
荒くれを絵に描いたようなその男から、更に視線を外そうとする。
が、その先でも大なり小なり似たような男たちが行き交う姿が目に映った。
海外との玄関口が
洲鉄に運輸の現場を奪われつつも、それでも大量輸送に船は欠かせない。
海流に護られて波間も穏やかな内湾は漁業も盛んであり、見た目から荒くれた海の男たちの歩く光景は、
……当然、海の男たちは、妙が想像する通りの気性をしていた。
道なりに東へ少し歩けば、直ぐに海が見えてくる。
圧巻の光景であるし、観光に案内しようと思っていたのだが、この分では案内先を変えた方が良いのかもしれない。
観光先を悩みながら、直利は洲都にある
――屋敷では、直利の実兄である
♢
「義姉さん、これは?」
「奥に飾って頂戴! ああ、もう。時間が無いわ。
――あの
「払ってはいるみたいですよ。
義姉さんが神経質になり過ぎです」
直利たちが
怒号寸前の応酬と共に、直利も面識のある親族たちが陶器や掛け軸を持っては戻してを繰り返す。どうやら、直利が玄関に立っている事には気付く余裕も無いらしい。
唖然と見送る妙と肩を並べて、眉間に皺を寄せた直利は努めて冷静に声を掛けた。
「……義姉さん、何をしているんですか?」
「な、直利さん!? 何時からそこに」
驚く声が渡り、屋敷の住人が動きを止めた。
がちゃん。正月でもない騒動に静けさが襲い掛かり、反動からか壁に掛けていた額絵が落ちる。
どうにも締まらない再会に沈黙が残り、引っ込んでいたのか屋敷の奥から大柄な男性が姿を見せた。
「帰ってきたか。久しぶりだな直利、取り敢えず上がれ」
「――はい。兄さんもお久しぶりです」
華族とも思えないほどに質素な着流しに袖を通した男性。
父親の代から慣れたその臭い故か、不意に直利の胸に郷愁が灯った。
「この書斎も変わらないね。兄さん、あまり弄ってないだろ」
「うん? ……ああ。洲都に寄る度、お前には理想の書斎論を一席打っていたな。
――憶えていたのか」
「あそこまで堂々と歌舞いていれば、さぞかし煌びやかな錦の一枚は飾っているのかと。
――戦々恐々していたけど、その分、変わらない部屋が懐かしいよ」
当時を思い出したのか
生前の父が座っていた奥座に代替わりを終えた
「当主に座ってから、この屋敷を使うのもめっきり減った。
年に2度、座る機会が有るか無いかの部屋に金子を掛ける必要も無いだろう。
――息子の代に、その野望は任せるさ」
「確か、兄さんの演説を聞いた父さんが、やけに生温い視線を向けていたね」
そうだったか? 空惚ける
嘗て
書斎というほどにも広くないそこに、申し訳程度の座卓と筆が置かれるだけの質素な部屋。現在でさえ、新しいものと云えば卓上に転がる渡来ものの万年筆くらいだろうか。
落ち目であろうが腐っても八家。書斎の一つくらいは趣味に拘っても良かろうものをと、当時の
――いつもは厳しい父親であったが、息巻く兄を生温く応援しているところを思い出せば、嘗ては自身も同じ思いを決意していたのではないのだろうか。
直利もこの書斎を見て、今更ながらの父の想いに漸く気付くことができた。
「酒という訳にも行かんが、――まぁ、呑め」
「助かります」
脇に置かれた鉄瓶から湯呑に水を注ぎ、
僅かに潮が香る懐かしい清水が、長旅に疲れた身体に染み渡った。
「
だが、約定に応じて陰陽師を融通してくれた事、雨月当主どのに重ねて礼を伝えてくれ」
「確かに。
……上流に当たる
「なら良いが。……陰陽師たちは?」
「明日には龍脈の浄化に取り掛かってもらう。瘴気の濃さから概算して、浄化の完了に半月は掛かる見通しだ。
――大丈夫。
「そうか」
直利の慰めに、
瘴気の問題は、拗れる様相を露わにする前に落ち着きを見せてくれた。
現状は小康状態を保っているというところだろう。これなら、秋の収穫を乗り切ることができる。
木行の衛士でありながら陰陽術に強く傾倒して、遂には
性格の良さも相俟ってか、何かと厄介事に首を突っ込む巡りを持つ弟を、
「時に直利、雨月の次期当主、……
「ああ。別に話題にする事でもないから、手紙にも報せを入れなかったんだけど。
何か不安でも?」
「不安というかな、少し変だと思ってな」
「変? ……というか、面識を持つ機会はあった?」
鉄瓶を傾けて自身の湯呑に水を注ぎながら、
面識は無い。伝え聞く限り、悪評も無い。
「三年前だ、親父の死に目にお前を間に合わせてやろうと、天山殿に書状を送ったんだが」
「ああ……」
思い出す。本当に運が悪く、雨月の前刀自と
つまり、雨月晶の追放と
非常に繊細な時期。情報の漏洩を怖れた天山に譲歩して、
「仕方がないよ。雨月刀自は寿命だし、父さんの方は……」
「そこは良い。そもそも、手紙を出した時点で死に目に会えるかは疑問だったしな。
……だが、後から思い返して、疑問に思った事がある」
「何処か、不思議な事があった?」
「直利。お前の今の立場は、かなり曖昧だったはずだ。
それなりに信頼関係を築いたとは云え、
幾度となく
雨月は
殊、この件に関しては、妻の妙にも随分と肩身の狭い思いをさせている。
何とか解消をしたいのだが、どうにも話が進められてこなかった。
「このままでは、問題になるのが判っているんだけどね」
「そこだ」
差し挟まれた呟きに、直利は視線を上げる。
湯吞から水を含みながら、
「過程はどうあれ、
雨月の事情を慮ったとしても、信用されていないという結論に辿り着くのは難しくない」
「
「だが一方で、お前は八家筆頭の、それも次期当主の教導に就いている。
……これは重要だぞ。ここの教導って事は、将来の重臣を約束しているようなものだからな」
確かに。別段に興味のない選択肢であったから気付かなかったが、直利の血筋は八家第八位の
「しかも、次期当主の教導という事は、それなりに経験も重んじているはずだ。
天山殿の性格からして、認めざるを得ない実績が無ければ、選択肢の一つにも挙げないだろう」
「…………………………」
当然にして、会話から見えてくる性格は把握していた。
良くも悪くも、八家筆頭
直利が教導を
だが、天山の性格からして、そこに前例が無ければ怪しむべきであるのも事実であった。
黙り込まざるを得ない直利に、気にしていないとばかりに
「――済まんな。正直、ただの愚痴だ。
真逆、洲の外に撥ねてまで陰陽術を修めに行くなんて、親父も思っていなかったからな。
死に際にまでお前の事を心配していた、その意趣返しだ。
……そこまで深刻になるな」
「済まない、兄さん」
「落ち着いたら、墓参りで高邑領に顔を見せろ。
線香の一つも上げる事は赦さんと、天山殿も狭量は抜かさんさ」
「そうだね」
「今日は佳乃が張り切っていてな。……先刻の騒動もそれだ。埃を払って、埃を立てていれば世話も無いと思うが。
市場まで鯛を買い付けていたから、今夜の飯は豪勢だぞ。期待しておけ」
笑いながら立ち上がった
その姿が、先日に交わした天山と自身に重なる。
――自然、気にも留める事が無かった小さな疑問が、直利の口を衝いた。
「そう云えば、兄さん。
――
「……その言葉、何処で聞いた?」
痙攣したように、障子に掛かる手が止まる。
平坦さを僅かに帯びた声音に気付かず、直利は口を続けた。
「天山殿からだよ。訊き返すと誤魔化されたけど、少しだけ気になってね」
「道理で。
……また珍しく、迂闊なことだ」
「知っているの?」
直利の口調に探る気配は見当たらない。
嘘は口にしていないと判断して、
外に向かう足を戻して、直利の対面に座り直す。
「
本来ならば口に出すことは罷りならんが、特に
「……かなりの厄事かな」
天山の口調からはそこまでの深刻さも窺えなかったが、
「相当にな。――だが
何しろ、400年前の内乱の発端がこれだ」
「そこまで。……知らない方が良いんじゃないか」
「正直に云えば、――判らん。
賽の出目を、良いように当てろと云っているようなものだ。
……だが、
愚痴混じりに応えを返しつつ、迷いを残した口調で
余程の事かと、直利も姿勢を正す。
――深刻な表情を浮かべた
♢
――同日、
かちゃり。陶器が触れ合い、紫苑が詰める執務室を豊かな
「紅茶とは、随分と匂い立つ茶ですね。味に癖がありますが、苦味も少ないし
「ランカーの
私は珈琲党なので詳しくはありませんが、論国が入れ上げる理由も理解できます」
「御冗談を。論国が欲しいのは、金の鉱脈ではありませんか?
西巴大陸で需要が高まっていると聞きましたが」
紫苑の指摘に、眼前の少女が肩を揺らして笑みを浮かべる。
誰が、何を、何処まで知悉しているか。何気ない会話の端から、相手の底を測り合う。
年端も行かない眼前の相手は、それでも手練れの政治家であると、紫苑は気を引き締めた。
「否定は致しませんが、それだけではありません。
……我らは神柱の威光を遍く示すべく、異教の民と云えど慈悲の光に照らし出さねばなりませんので」
「ええ。先月の一件は、私たちも
――ベネデッタさん」
「私が
――『アリアドネ聖教』としては無関係ですが、ヴィンチェンツォ・アンブロージオが逸った顛末は聞き及んでいます。
紫苑の向けた強烈な皮肉を敢えて流し、ベネデッタ・カザリーニは含みの無い微笑みを浮かべた。
「これは細やかな疑問なのだけれど、どうやって
「アンブロージオ卿が引き起こした騒動の補填に、かなり色を付けましたので。
……随分と信頼関係に思うところがあったのでは? 二つ返事とまではいきませんが、拒否もされませんでした」
そうかしら。微笑みだけで情報を聞き流す体裁を保つ。
この面倒な時期に良くもまあ、しれっと顔を出せたものだ。
変な関心を保ちながら、紫苑は目の前に立つ金髪碧眼の神子を見つめた。
「
……随分と大盤振る舞い、
「
「ああ。
ソルレンティノ卿は、首尾よく排除出来ましたか?」
「滞りなく。
こちらの水差しに対する意趣返しか。公然と島国扱いに不満を覚えたが、事実は事実。
表情に引き攣れを覚えただけで、話題を流す体裁を保つ。
――
「如何でしょうか? 将来に向けた投資として、
「……随分と、こちらを買っておられるのですね。西巴大陸としては、
「
……ですが、神域に対する知識の深さは別です。鉄の時代が幕を掛け始めている昨今、神代を維持する知識は、私たちにとっても絶対に必要となるものです」
「……目的はそれですか」
「はい。
――確かに。
紫苑は、内心で納得に唸った。
ただでさえ、海外との正式な交流は
「……良いでしょう、
「感謝します。
――ああ、そうだ、」
「何か?」
「留学が決定した暁には、学生の指名はできるのでしょうか?」
「拒否権はありますが、問題は無いかと」
俗な意見に意図も掴めず、紫苑は当たり障りも無く肯った。
その応えに満足したのか、ベネデッタは綻ぶような花の笑顔を見せる。
「素晴らしい。
――晶さんを
「……既にその提案は断ったと、聞き及んでいましたが」
留学をしつこく盛り込んだ本当の意図はそこか。挑発紛いの露骨な勧誘に、紫苑の口元が苛立ちに引き攣れた。
これからの晶に、女性の影が絶える事はない。これで異国の貴種までもが食指を伸ばしてきたら、
「
晶さんの恋模様に一際の彩りを添えるだけ。……まぁ、
「重ねて念を押しますが、決めるのは晶さんです」
「当然です。自由恋愛こそ次代の在り様、――
随分な綺麗事を、綺麗事で糊塗してくれる。紫苑は内心で吐き捨てた。
本心で口にしている事は間違いない。ただ、自由恋愛の選択肢を与えるように見えるだけで、その内実、選択肢は一つしか用意されていないだけだ。
だが、それは
選択肢を極端に多く出せば、人間は常に慣れた選択肢に落ち着こうとする本能が働く。
結果の狭い選択を数回繰り返せば、結局は同じ結果に落ち着くのが人間というものである。
恋は過程だが、愛は結果だ。
最後の結果は、既に掴んでいる。そうである以上、
「良いでしょう。
「ありがとうございます。……
紫苑から返る表面上だけの肯いに、これまた表面上だけでベネデッタは応じる。
そうとは見抜けないほどに歓迎を糊塗した笑顔を交わし、国家の威信を背負った2人は和やかに交渉を続けた。
♢
過去の失態から落ち目でありますが、
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