4話 不穏を食みて、生きどまる2
薄く夕闇の静寂だけが支配していた空間に、橙色電灯の光が満ちた。
硝子張りの本棚と
家人の気配が感じられない豪奢なだけの殺風景な書斎が、無言の照明に浮き上がった。
――と、
その部屋の主である老齢の男性が額に汗を滲ませながら、乱暴な足音と共に戻ってきた。
「くそっ、
何故、今更になって儂の排除を決めたっ!?」
尽きない
「――全くですなぁ。
当方の手抜かりは無かったと存じますが、何処で虎の尾を踏んだか。
……
「心当たりなぞあるか。奴らが拘っていた練兵からは、手を引くことを約したばかりだぞ!
洲議や周辺華族にも、充分に身銭を切った。理屈が通らんだろう」
理由を訊こうにも、伝手のあった影働きや耳に聡い洲議連中からも距離を置かれてしまい、自身の安全を確保するべく必死に自宅へと戻ってきたのが現在であった。
とは云え、
「
――それで、如何なされるお
「……最早、
証券や貯め込んでいた隠し財産を机にばら撒きながら、
捲土重来を見据えるにも、相応の基盤と云うものが必要となる。
多くの場合はそこに財力が求められるが、
寒いだけの懐では、今後を望めるほども無いからだ。
しかし、これまで
畢竟、万朶に残された選択肢は、有りっ丈の金子を掻き集めて逐電する
――と、
「……っ」
不意に襲われる耳鳴りに、
鼓膜を揺らさない静かな
「なんじゃ?」
「隔離の結界に
――これは、逃げられませんなぁ」
焦る
「
貴様らの思い通りになって堪るかぁっ!!」
「おや、逃げられるので?」
「当然じゃ!
――
場違いな程に穏やかな囁きにそう応じて、
――儂は今、
本家からの絶縁を受けてから今の今まで、
……では、今も言葉を交わしている相手は、いったい誰だ?
何処までも自然な違和感が、自身を逆撫でることなく意識の外へと浚おうとする。
疑問までも薄れそうになる感覚を必死に繋ぎ止めながら、
電気式の灯明に強く照らし出され、それでも、その一角だけは
……何時から居たのか、その奥に座る誰かが
「誰じゃ、貴様」
「―――卑。流石に
「儂が問うておるっ! 答えよ、誰じゃあっ!!」
「恐や、怖や。誰じゃと訊かれてものう。
朧に影から滲み出るその姿恰好に、
能く知っていた。当然だ。生まれた時からの付き合いだ。影から生まれたその
「儂、じゃと……!??」
「然り、能く出来ておるじゃろう? お主の分には特に手間を掛けたからなぁ。
何しろ、上位精霊を宿しているのに実力はそれなり。現実に至らぬのに、分を弁えるを知らん。ここまで条件が揃った凡愚は、身共の記憶にもそうは居らんからの」
否。影から露わになるそれは、皺の一本まで精巧に彫られた木彫りの面であった。
「
充分に遊ばせても
「愚弄してくれるなよ、
感情すら覆い隠す面の奥から嘲弄が漏れた瞬間、
引き抜かれた精霊器が炎を捲いて、机上の書類が火の粉に呑まれる。
「―――卑、否。無駄に足掻くな。
我が面の権能は三つ。模造、模擬、模倣である。
……故に、」
「ぐぅおっ」
その手には何時の間にか、ヒト成らざる相貌を模した面が握られていた。
「
「……………………!!??」
抗弁すら返すことも無く。
闇の向こうから化生の面を押し付けられて、
「――さて。こうなると神柱に目を付けられてしまったな。
予定よりも数日早いが、百鬼夜行の予行演習と洒落込もうか」
面を被った何者かは、
主を失った書斎の中で、独白だけが寂しくその最後を彩った。
♢
同刻、夕刻から降り始めた小雨の中。
持ち主の虚栄を満たすかのような広い庭園に、数人の警邏が侵入する。
その後ろでは
「――状況はどうなっていますか?」
「これは
その応えに首肯だけを返し、
「公安の武藤です。
態々、このような現場まで足を運ばれずとも、確保はお任せいただければ」
「小者一匹捕らえるにしては、嫌な予感がするのよ。
私を寄越すと云うなら、当主も同意見でしょう」
「分かりました。護衛は、」
「不要です。其方たちは、するべき事に集中なさい」
「……せめて、天幕からは出ないでください」
素っ気ない返答に、表情は覗かせないまま武藤は肩を竦めた。
門閥流派の頂点に立つ
確かに、武藤の気遣いは無用の長物であろう。
とは云え、
不気味に静まり返る屋敷へと向かう警邏隊の隊員が、庭から屋敷の外廊下へと足を踏み込み……、
「「うわぁぁっ!?」」
魂消る悲鳴と共に、その身体が宙に舞った。
「
「あれが?」
数日前に会った相手の姿をそこに認め、呆然とした声が
筋肉の上から筋が張った異常な肉体に、蟲を模したものか随分と精巧に造られた木彫りの
明らかに正気を失っているだろうその所作に、
「薄黒いとは知っていたけれど、随分と酔狂なものを肚の裡に飼っていたようね。納得だわ」
「どう見ても、そういった範疇では収まりそうもありませんが」
「――これは、これは。
戸
その姿に、
地面に素足を降ろすその姿は、記憶にないほど特徴が無い。
しかし、首から上だけは記憶に残る
ともすれば体格を見失いそうになる違和感から、その場に居合わせた全員が
「何者か!」
「おや、
……もう、お忘れですか」
先に立った異形と比べるならば、後に降りたものの方が
だが、その事実を理解して尚、
「ええ、確かに
ですが、それはお前では無い。お前と比べるならば、隣に立つ
「―――卑、卑ィ。
これはしたり。やはり、三宮四院の目は欺けんか」
俯いて
代わりに居たのは、精巧な人面を嵌めた
「総員、警戒態勢! 防人以上は抜刀許可」
「人に見えるが、相手は
剣林が連なり、切っ先が揃って
後方に控えていた陰陽師たちが一斉に九字を切り、格子に立ち上がる結界が隔離結界を補強した。
懐から苦無を引き抜いて、武藤が声を張り上げる。
「何者であろうと、この場の封鎖は万全に敷いてある。
逃げられんぞ、大人しく浄滅必定を受け入れろ!」
「大人しく
衛士に成れなかった己を
……陰陽師」
相手の返事を受けて、武藤の表情が歪んだ。
確かに武藤の精霊は、宿主に神使の位を授けた。
衛士としては長じる事のできない武藤が求めた方向性は、戦闘にも立てる陰陽師という立場。
だが、その事実を知る相手は限られている。
特に、公安という組織に身を置いたため、個人の情報は厳しく管理されているのだ。
目の前の相手は、事も無げにその事実を看破して除けた。
――つまり、
「気を付けろ。此奴め、記憶を覗くぞ!」
武藤の警戒に、全員の緊張が高まった。
だが、生まれてしまったその隙に、
「――此れなるは、龍脈侵攻の折りに持ち込んだ
我が権能の妙技、とくとご覧じよ」
「ぐ、ふ、ぎ、
その宣言と同時に、百足の面から瘴気が噴き上がった。
「真逆――!?」
「素晴らしい。
上質の素体を選んでおいた甲斐があった!」
―――疑、
瞠目する
渦巻く瘴気の狭間から黒く艶めく胴体が躍り出て、迷わず
――脇から躍り出た武藤の九字結界が、その一撃を防いで除ける。
拮抗は一瞬で崩れ、砕け散る結界。それでも最後の意地とばかりに、黒く蠢くその胴体を上方へと跳ね上げた。
衝撃で瘴気が散り去る。そこに現れたのは一匹の巨大な
「お下がりください、
「気遣いは不要です。
……人間を
唯一の救いは、鍵となるのがあの面らしいという事だけか。
どれだけ面があるのかは判然としないが、物質に因る以上、枚数に限界があることは間違いが無い。
周囲も眺めるだけに過ごしていた訳ではない。
刃を閃かせて各々が交戦に入るが、振り撒かれる瘴気と振り翳される黄色の多肢に撥ね飛ばされた。
「
「奴の言が真実ならば、元が上位精霊だからでしょうね。
油断は禁物ですが、面が原因である以上、恐らくは演じるもの以上の能力は基本的に発揮できないはずです」
「……
疑う理由も無い。首肯を返す武藤は、懐から界符を引き抜く。
苦無の切っ先に界符を刺して、迷うことなく
暴れる化生の背中に飛び移り、振り上げた苦無を界符ごと突き立てた。
「火界符!」
叫ぶ界符の種類に、陰陽師たちが即座に印を組む。
立ち昇る木気が幾重にも
――轟ォオッ。
木気を喰らい、火界符が撃符以上の火力を生む。
水克火の関係上、水気の
陰陽師に指示を出し、木界符を全て費やし木気の檻で
これで、
「卑。連携は見事。
――しかし、忘れてはおらんか?
焦躁を欠片も滲ませない口調に、その場に居合わせた全員が硬直する。
その瞬間、炎を捲いた
「……火行の
「然り。判断を誤ったの、
―――
その身体を更に巨きく膨れ上げた蟲の胴体が、炎ごと結界を砕いて雨の中を立ち上がる。
遥か高所から見下ろす
――自分を
自身がやらかした顛末を忘却の彼方に放り投げ、僅かな記憶が搔き立てる憎悪に従って赤黒い蜈蚣の頭部が牙を剥いた。
―――
憎悪と本能だけが残った
表情の窺えない
「――願い給う」
金色に染まる長髪と戦意に燃える蒼い瞳が、墜ちてくる暴力に真っ向から迎え撃った。
轟音と共に炎が立ち昇る。
裕福な華族が居住する高級住宅地の一画で、瘴気に凝る悪意と朱金に輝く神気が、互いを喰らい尽くさんとばかりに削り合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます