2話 他者に問う、知らぬと問う1

 ――疾、疾、疾。


 左の踵をじり落とし、生まれた衝撃を右の爪先で柔く踏み締める。

 刹那に生まれた莫大な衝撃が体幹を伝って肩から両腕へ、大上段火行の構えから半月はんげつの軌跡が叩き落された。


 ――疾!

 揺ぎ無い斬閃が虚空を裂き、その度に樫材の床がぎしりとく。


 早朝の鍛錬も終わった第8守備隊の道場の中央で、晶は独り木刀を振るっていた。

 無心で同じ軌跡が重ねられ、その度に跳ねる身体を強引に抑える。


 は。動く理由活力を求めて喘ぐ口が、はらに渦巻く感情ごと呼吸いきを吐き出した。


 ――未だ足りない。


 感情に任せて木刀を上段に構え直し、振り下ろす。


「――晶」


 唐突に掛けられた声に道場の入り口へと視線を向けると、腕組みに立つ勘助が道場の鍵をこれ見よがしに揺らして見せた。


「――応」


「熱心なのは良いけどよ、俺たちはこれから仕事だぜ。隊長たちも本部に行っちまったし、屯所には誰も残っちゃいねぇ。

 道場を閉めたいんだが?」


「……そこに置いといてくれ、明日は俺が道場を開ける」


「あのな、できる訳ぇだろ。防人に施錠の手間を取らせたなんて知られたら、正規兵のおっさんたちにどやされちまう」


 脳筋揃いの守備隊では、兎に角、上下関係に拘る風潮がある。

 早朝の道場清掃は練兵の役割であるため、練兵班の班長には道場の鍵が与えられていた。


 道場に続く鍵は後、阿僧祇あそうぎ厳次げんじが持つ一つしかない。勘助が持つ鍵を晶が手にするという事は、誰よりも早く道場に足を運んで道場を開ける必要があることを意味している。


 少し前までは練兵班の班長は晶だったのだ。勝手を知っている以上、晶の意見に沿う事は難しい訳ではないのだが、防人に開錠を頼んだとバレれば割を食うのは勘助だ。


「――ってか、学校はどうしたよ?」


「……今日はちょっとな」


 尋常中学校で授業はあるが、昨日の失敗を引き摺った身体が落ち着いてくれなかった。

 朝錬で木刀を振るえば熱情ねつも下がるかと期待したが、どうにも浮ついた感じがする。

 授業に入ったところで、頭に知識は入ってくれないだろう。


 口籠くごもる晶に察したのか、大きく息を吐いて勘助が晶の名前が書かれた木札に鍵を掛けた。


「あ~あ。仕事終わりに阿僧祇あそうぎ隊長と、練兵の割り振りで話し合わなきゃならんって思い出したわ。

 あぁ、晶も参加しろよな。俺は未だ、練兵を纏めきれて無ぇんだからよ。

 ……一つ、貸しだぞ」


「――すまん」


 無理矢理に用事を作って己の我儘に付き合ってくれた友人に、一言だけ感謝を返す。

 晶を苛む感情は理解していたのか、それ以上言葉を重ねる事もせずにひらりと手を振って勘助は姿を消した。


 後に重ねる言葉も不要。

 もう一振りと、晶は手にした木刀を改めて握り直した。




 勘助と言葉を交わしてから、何時間が経っただろうか。


 蓄積された疲労に身体が悲鳴を上げ、何よりも焼き付いた精神が休息を求めて思考をくらつかせた。


 攻め足から上段、終わりも見えず繰り返される基礎の構え。

 幾度となく重ねられたその行為に全身から汗が飛沫しぶき、道着を滲ませてなお足元を濡らした。


 視界に汗が滲み、その度にへたり込みたくなる衝動に耐える。

 顎を引いて呼吸いきを整え、構わずにさらに一歩。


 そして更に一度、道場の床が大きく軋んだ。


 神無かんな御坐みくらたる晶の身体は、莫大な加護が続く限りは一切の害意を寄せつけない。

 加護を貫通する攻撃など対抗策と粗は多いものの、大神柱の加護ともなれば大抵の危険は避けて通るのだ。


 だが、それでは晶に成長は望めない。

 成長とは失敗を学ぶ事だ。鍛錬とは苦痛を学ぶ事だ。

 無尽の加護は、それすらも無かったことにしかねない。


 ――故に、晶さんが望んだ経験苦痛に対して、加護は一切働きません。


 そして、加護とは都合よく切り替えられるものでは無い。

 この原則は、晶が自死を選んだ場合であっても適用されてしまうのだ。


 ――だからこそ古来より、神無かんな御坐みくらを害しようとするものは神無かんな御坐みくらが死を願うように仕向けます。


 悪意は他でもない、晶の意思こそ蝕もうとするだろう。そう奇鳳院くほういん紫苑の説く言葉が、晶の脳裏に蘇った。


 これも、その悪意の一つなのだろうか。


 ――否。これは、己自身の弱さが叫んでいるだけだ。

 晶が心に飼う狼が、それでは足りないと罰を叫ぶからだ。

 だからこそ狼の腹を満たすべく、もう一歩、晶は木刀を振り上げ――、


「ふむ。

 ――惜しいな」


 唐突に横合いを声で突かれ、振り上げた木刀の切っ先が動揺れた。


 水を差された格好に、険のある視線を入り口に向ける。

 何時の間にか男性の影が一つ、其処に差していた。


 一見するだけならば、30歳を過ぎた辺りの細身の優男。

 しかしながら上等な着物が包むその体躯からは、一切、隙と呼べるものが窺えなかった。


 道場に風が吹き、熱情に茹だった身体を癒して抜ける。

 秋の微風に一陣の涼を得て、漸く晶は休息いききたがっていた自身に気付いた。


 相手に気付かれないように呼吸いきを整えつつ、憮然としながら晶は口を開く。


「……何か?」


「ああ、済まない。

 厳次げんじの奴に顔を見せに来たんだが、事務室が無人だったのでね。

 屯所此処には、君しかいないのかい?」


 その言葉に、軽く肩を竦めた男性を失礼のない程度に改めて見直した。

 ……華蓮かれんに落ち着いて3年、晶にこの男性を見かけた記憶は無い。


 だが不審者というには、佇まいが常人とも思えなかった。


「……阿僧祇あそうぎ隊長なら、新倉にいくら副長を伴って本部に出向いていますが」


「他の防人は?」


 優男の更に後ろから、狩猟帽ハンチングハットを伊達に被った男と防人の隊服を着た少年が姿を覗かせた。

 当然ながら、此方も見覚えは無い。


「俺だけです」


「ははあ、入れ違いになったみたいですなぁ。

 ……どうされますか?」


「待つとしますよ。

 厳次げんじの性格を考えれば、どうせ直ぐに戻ってくる」


「同感です」


 晶を放って会話を始めた2人を眺めて暫く、相手の用も済んだかと判断した晶はもう一振りとばかりに木刀を振り上げ――、


「――あぁ君、待ってくれないか。

 それでは、無駄に遊んでいるだけだよ」


「は?」


 再度、挫かれた出端。余りの云われ様に、返す声にも険が混じった。

 しかし、晶の険に怖じる事なく、優男が抑揚も変えず繰り言に告げる。


「無駄だと云ったのさ。君は今、腕力に任せて剣を振っていただけだ、それでは身にならない。

 教導は誰だい?」


「……阿僧祇あそうぎ隊長ですが」


「奴なら気付いているはずだが……。

 まぁ、いい。少し手合せをしようか」


「――師匠せんせい! それは、」


「何、無聊を慰めるついでさ。

 そう、険を立てるものじゃないだろう」


 その言葉に血相を変えた防人の少年を手で制し、優男が道場へと足を踏み入れた。

 ぎしり。途端に床が鳴き、晶は緊張から表情を引き締める。


 床の鳴り具合から、大まかな男の体重が伺えたからだ。

 細身としか思えないその体躯だが、重量は恐らく阿僧祇あそうぎ厳次げんじと遜色はない。


 つまり、相当に錬磨されている。


「……申し訳ありませんが、俺は阿僧祇あそうぎ隊長より私的な仕合を禁じられていまして」


「問題ないよ。厳次げんじの奴には、私から頭を下げておく。

 ――何。君の問題を理解していたのなら、そうそう、無下むげにもしないさ」


 警戒心そのままに口を開くが、優男は晶の抗議を軽く流して指導用の竹刀を手に取った。

 二振り、三振り。鋭く空を切って、気負いもなく晶の対面へと立つ。


「礼節の前に名乗っておこうか。私は孤城こじょうという。

 君の名前は?」


「……晶といいます」


「お前、師匠に向かって!!」「迅」


 憤る迅の激高を声で制し、孤城こじょうと名乗った男は竹刀を納刀おさめた。


「立礼で構わないね?

 ――礼で開始、好きに打ち込み給え」


「…………はい」


 これ以上の有無を言わせないその仕草に気圧され、不承不承に木刀を納刀めた晶は、孤城こじょうと礼を交わした。




 立礼をすれば開始と宣言されたのだ。晶は木刀を中段に構えるが、対する孤城こじょうの佇まいが納刀から動いた様子は無い。


 一見するだけならば隙だらけのその姿に、それでも隙と呼べる気配は一切見えてこなかった。


「――っは」


 吐く息も重く、続かない。晶が呼吸いきした途端に切り捨てられる予感だけが、容易に脳裏を占める。

 構えただけで削られていく神経に、知らず額に汗が浮かんだ。


「どうしたね?

 動かないと、始まらないが」


「――っ!」


 孤城こじょうの力量は、間違いなく晶よりも上である。

 それでも挑発気味に投げられたその台詞に、張り詰めたものが切れて晶は大きく踏み込んだ。


 攻め足、上段。先刻から重ねていた、基礎の基礎。

 それは、晶が選び得る最速の斬閃。


 鋭さの宿ったその一撃は間違いなく、構えてすらいない孤城こじょうの先手を取った。

 ――はずだった。


――――!」


 晶が踏み込むよりも先んじて、孤城こじょうの爪先がその2歩前を鋭く踏み込む。


 何時の間にか振り上げられていた竹刀がお手本の様な上段からの軌跡を描き、しなる切っ先が晶の二の腕をしたたかに打った。


 秋の日差しが作り出す薄暗い道場に、竹の打つ快音が響き渡る。

 先手を取ったはずなのに先手を取られた、痛みというよりも理解の追い付かないその状況。晶は木刀を振り切る事すら忘れて、衝撃に身体を強張らせた。


 ……我に返り、改めて孤城こじょうに視線を戻す。


 開始線の向こうに戻った孤城こじょうは、晶と向かい合ったその時のままの姿で変わりはない。

 打たれたことも幻かと錯覚するが、痺れる二の腕だけが現実であることを教えてくれた。


「構え給え。

 ……それとも、もう降参かい?」


 ――上等。

 再び放たれる挑発に、怒りよりも何よりも己の裡に飼う狼が牙を剥く。


 抗う感情を視線に宿し、晶は木刀を握り締めて立ち上がった。


 ♢


 鎧蜈蚣ヨロイムカデの一件を報告し終えた阿僧祇あそうぎ厳次げんじ新倉にいくら信は、昼下がりも遅い頃に第8守備隊の屯所に帰還することが叶った。


 とはいえ、化生の報告程度に本来そこまでの手間が掛かるはずもなく、南葉根から下りてくるはずの無い化生の報告に虚偽の疑いが掛けられたからであるが。


「くそ。

 意味の無い嘘をついて何になるんだっていうのに、無駄な時間を取らせやがって」


「――仕方がありませんよ。

 只でさえ第8守備隊は、厄介揃いにしか見られていません。

 信じて貰えただけでも、儲けものと思わないと」


「骨の一部を持って行ったんだ。あそこまでの手間を掛けて、見間違いの一言で済まされたら堪ったもんじゃないぞ。

 ……何だ?」


 宥める新倉にいくらと不満を漏らし合いながら屯所の敷地内に足を踏み入れた厳次げんじは、足の向く先に停められた蒸気自動車に首を傾げた。


「来客でしょうか」


第8守備隊こんな場末にか?」


 改めて新倉にいくらの言を繰り返すまでも無く第8守備隊が厄介者扱いされていることは、厳次げんじとても理解している。

 用件があるものは先ず本部で終わらせるし、3区の郊外まで足を運ぼうと思うものはいないだろう。


 厳次げんじが第8守備隊に落ち着いてからこの方、貴重な蒸気自動車を持ち出してまで此処ここに来たものは、奇鳳院くほういん嗣穂つぐほ以外には記憶にもない。


 事務室の前には誰の影も無い。ぐるりと敷地内を見渡し、人の気配を道場に感じて足を向けた。


「――ありゃあ。又、珍しい」「お知り合いですか?」


「上級高等学校以来の友人だ。もう会う事も無いだろうと思っていたが……」


 道場の入り口にたむろする背中が二つ。その一方に数年来あっていなかった友人の影を見止めて、厳次げんじは片手を上げようとする。

 しかし道場の奥から響く音に、半端に上げた手を止めて道場の奥を覗き込んだ。


 更に珍しい友人が其処に立つ姿を見止め、厳次げんじは思わず目を見張った




 道場ではしなる竹刀の切っ先が、幾度目かになるだろう快音を晶の上で立てる。

 2つ続けて太腿と手の甲。音は高くとも加減は充分にされているのか、取り落とした木刀を拾った晶は開始線へとまた戻った。


「構え給え。

 それに見栄を張らずとも、私に隙を見たら精霊技せいれいぎも混ぜなさい」


「く、…………! !」


 汗だくの晶と対照的に、汗の一つも気配と覗かせない孤城こじょうの姿。

 飄々ひょうひょうと告げる孤城こじょうに負けん気が刺激されたか、晶はぎりと歯を喰い縛った。


 しかし気持ちは臆しているのか、如何にも足は前に進まない様子である。




 あの様子では、随分と痛めつけられたようだ。

 苦笑を隠せないまま、旧来の友人である武藤元高の肩に手を置いた。


「……随分な無茶を投げてくれる。晶は未だ、防人になって1ヶ月も経っていないんだぞ」


「久しぶりだな、厳次げんじ

 ――済まんな。お前への客人が興に乗ったみたいでな、ちと道場の軒先を借りた」


「構わんよ、意図は判った・・・・・・。とは云え、結構な時間は食ったようだな。

 ――孤城こじょうどの、教練はその辺りで。晶も休ませてやって欲しい」


 厳次げんじには気配で気付いていたのか、孤城こじょうは視線を上げることなく肯いだけを返した。


「そうか、頃合いだね。

 ――晶くん、最後に精霊技せいれいぎも見てみたい。

 燕牙えんがで構わない、行使い給え」


「……、 、っっ!!」


 明白あからさまな格下扱いに、流石に晶の頬が紅潮する。

 何よりも取るに足らずと言外に評されたことが、疲れ切った晶の身体に激情をべた。


 握り締めた木刀に、注ぎ込めるだけの精霊力を全力で。行使うのは飛燕の如き紅蓮の刃。

 脇構えに構え直した木刀の切っ先が、朱金の精霊力を捲いて唸った。


 奇鳳院流くほういんりゅう精霊技せいれいぎ、初伝――。


「――燕牙えんが!!」


 炎の斬撃が奔り、孤城こじょうとの距離を瞬時に渡る。


 至近で放たれた故か威力の減衰は然程に無く、燕牙えんが孤城こじょうの身体に到達。

 その直前ですら、孤城こじょうは防御の姿勢を見せることは無かった。


 芯鉄に純度の低い霊鋼を仕込んだ木刀は、丁級の精霊器でもある。

 其処から放たれる精霊技せいれいぎは見せかけだけの低威力だが、無防備に直撃すればただでは済まないはずだ。


 手加減を忘れたことに、晶は吹き飛ばされる孤城こじょうを幻視した。


 ――その場に立つ者の中で、晶だけが。


 飛翔する炎の斬撃が孤城こじょうに到達する直前、揺らぐようにその形状を崩す。

 孤城こじょうへと迫るほどにその崩壊はより顕著に、最後の意地か消える刹那に残した衝撃が孤城こじょうの着物を一際に揺らしただけであった。


 初めて見る現象。術理は疎か、所作すらも見極めることが赦されないのは、晶にとって初めての経験であった。


陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎ戦風そよかぜという」


「な――――!!」


「ふむ。戦風そよかぜを越えて衝撃を届けるとは、厳次げんじが目を掛けるだけはあるな。

 ――精進し給え」


 振り抜いた姿勢のまま残心すら忘れて瞠目した晶の脇を、孤城こじょうが摺り抜ける。

 慰めに掛けられたその評価すら、思考の表面を滑り落ちて残ることは無かった。


 後に掛けられる声すらなく、道場に残された晶一人が立ち尽くすまま。


 ――結局、手合せとは名ばかりに翻弄されただけ。晶は孤城こじょうに、太刀跡は疎か汗の一筋すら浮かばせることは叶わなかった。

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