三章 巡礼双逢篇
序 涼風が一陣、華蓮に来る
夢を見た。
忘れかけて忘れられない、何時かの幻想。
――のう、晶や。
黒染めの単衣から伸びる手弱女の指が、昼下がりに微睡む晶の頬をそっとなぞる。
幼心に
――憶えておおき。
薄らと開く視界の奥。純黒の輝きを宿した少女は、嬉し気に晶の魂魄へと己の記憶を刻み付ける。
しゅるり。衣擦れの音と共に涼を宿した少女の
何処か儚げで、何処か脆く。
……そして、何処までも強情に。
――、――――、……………………。
……久しぶりに夢を見た。甘い甘い、ただ
♢
――キィィ、、ギィギ、ギ、、
重苦しく鋼鉄が軋み哭き、
汽笛と共に吐き出される煤混じりの蒸気が、急ぎ足に行き交う靴を薄暗く舐める。
待ち侘びた乗客たちの喧騒の間を縫って駅員が走り回り、車両の扉が順次、開かれていった。
狭い空間に鬱屈していたのだろう。扉の側で待ち兼ねていた乗客が足早に駅舎へと降りて、入れ替わりに急ぐ足元が地に
そんな雑多の日常に、駅舎に降り立つ二人の影が新たに差した。
「――漸く
「そうだな。
予定通りなら、もう少し早くに足を下ろせていたのだが」
守備隊の隊服の上から羽織を纏った怜悧な顔立ちをした年齢14、5歳ほどの少年が、長旅の退屈を晴らすかのように大きく伸びをする。
少年の前に立つ男性が少年に短く応えて、周囲を軽く見渡した。
二人の前を過ぎる人々の表情に、不安一色で染まったものは見当たらない。
地勢的に最も離れていると云うのもあるのだろうが、
駅舎の片隅を陣取るその二人の影に、後ろから歩いてきた男性が迷惑そうに視線を上げ、
――目の前で揺れる家紋を見止めて、我関せずの表情に変えて壁際へと足を向けた。
それが華族の家紋と気付いただけか、
――それとも西部
重ね花形車に
「猿共如きに師匠の手を煩わせるなど、随分と恥ずかしい。
……あの程度ならば、
「そう云ってやるな、
……南部には、まだ瘴気の影響が少ないと見えるな」
「はい、羨ましい限りです。
――先方からは出迎えが来ると、電報で聴いていましたが」
改札を通り抜けた二人は周囲に視線を巡らせるが、それらしき人物は見当たらない。
それよりも、と迅は、初めて降り立つ
最新鋭と思しき小型蒸気機関を搭載した
その向こうに見える停留所では、洗練された外観の
張り巡らされた電線と五階層以上はある
南部
海外から押し寄せる文明開化の恩恵を一等に早く与るこの街は、良くも悪くも明確な説得力を以って迅の視界を魅了した。
「――やぁやぁ。お待たせいたしました!
「ああ、
貴君が
……周囲に目を奪われていると何時の間にか、二人の横に灰色の洋装に
丸眼鏡を鼻に掛けたその男は、にこやかでありながら欠片も感情を窺わせない。
能面のような笑顔に警戒したのか、
「
「
……あぁ、申し訳ありません。名刺は持っていませんので、挨拶だけでご勘弁願います」
迅の放った鋭い
胡乱な返しに迅が熱り立つが、裏腹に
「――問題ない。
どの道、我々も名刺など持ち合わせていないのでね」
「ご配慮くださりありがとうございます。
ささ、此方にどうぞ。車を用意しております」
――猫も杓子も、会えば名刺と交換し合い、獣と物にもくれてやる。
そんな笑い話が生まれるほどに、浸透している海外文化の一つである。
当然のこと、
名刺を持っていないという事は、立ち位置が明確に出来ないという事。
つまり、少なくとも警部補などではなく、警邏隊というのも怪しい立場という事だ。
……公安か、その類。
その性質上、華族には嫌厭される組織であるため、秘匿性の高い構造で組織されているとも聞いているが。
武藤が自身の身分を言外に仄めかしたのは、
――それにしても、随分と警戒されているな。
案内された先に停められていた蒸気自動車に乗り込みながら、その事実だけを
♢
「お久しぶりね、
「……は。西部も
紫苑さまもご健勝の様子、何よりで
書斎机を挟んだ向こう側から
「そうね。北の天気が荒れ模様になっている以外は、こちらも
――
「ええ。……此方です」
机越しに手渡された書状を広げて、ざっと紫苑は目を走らせた。
内容はひどく簡素に。時候の挨拶に始まり、
……
想定からはかなり的を外している穏やかな内容に、紫苑は困惑を抑えることが出来なかった。
そもそもからして、
本来は打つべき定石を一手目から外されては、相手の思惑を読むことが出来ない。
……釘刺し程度の使者なら、それこそ誰でも良かろうに。
裏で手を曳いているのは
「――
「滸さまより、2週間を目途に戻るよう仰せつかっています。
……手元を無沙汰に遊ばせる意図はありません、守備隊でこの身を使ってくれて結構です」
「まぁ。
慢性的に人手不足に陥りがちな守備隊である。僅かとはいえ、
……更に本音を云えば、
「私はそれで構いません。……迅の奴は数日で戻そうと思っていますが」
「迅とは、
「表で待たせている私の弟子です。
未だ学生の身でもありまして、
「……良いでしょう。先刻に顔を合わせた者に話を通していただければ、
権限の異なる守備隊では何かと勝手が悪いでしょう? ある程度は自由裁量を許可しますので、存分に動いていただいて結構ですわ」
「感謝いたします」
大切な時期だ、紫苑としても余計な刺激は欲しくない。
片方だけとはいえ、使者が
それに、守備隊で防人たちの鍛錬をするなり周囲で
本邸で晶と鉢合わせする事態さえ避けることが叶えば、想定を超えた行動は取られないはずだ。
然程、悩むことなく、紫苑は首肯を返した。
断られるとも思っていなかったが、快く許可が下りたことに
「要件は以上かしら。
……
「頭を撫でたら、10になったのにと怒られましたな。
どうにも初めての子供故に、付き合い加減が判りません」
「仕方が無いですよ。その年齢の女の子は、兎に角、背伸びを覚えたがるものです。
花の命は短けれど。とはよく云いますが、蕾が綻ぶ刹那こそ一瞬です。
――大切にしてあげてください」
何処か嬉しそうな響きを含んだ
「――会談は終わりましたか?」
「あぁ、待たせたな」
こちらも武藤との会話で時間を潰していたのか、待ち惚けに疲れた様子は無い。
空を仰ぐと日天も未だ高く、投宿へと腰を落ち着けるにはやや早く感じられた。
「今日のご予定は以上でしたな。
……宜しければ、宿にご案内いたしますが」
「……いや、その前に守備隊本部へ。
「それは心強い。昨今は防人と名ばかりで、政治好みの雑多が増えていると聴きました。性根を叩き直していただけるなら、こちらとしても願ったりですな。
――まぁ、一番の雑多が総隊長どのなのですがね」
「ほう。此方でも政治絡みが多いですか」
「議会制度が成立した辺りから、雲行きは怪しかったですな。
金儲けばかりが得意な輩の多くなること、嘆かわしいです」
こちらは内密にお願いします。笑いながら告げられた他者への皮肉に、
そうしてから、会おうと思っていた友人の顔を脳裏に浮かべた。
「そういえば、友人が
明日にでもそちらに顔を見せておきたいのですが」
「住まいはご存じで?」
「一応は。……ですが奴の事だ、どうせ余り帰っていないだろうさ。
守備隊の隊長に任じられたと聞いているから、そちらを屋根代わりにしているんじゃないか」
「ははぁ、奇特な御仁のようだ。
……お名前を伺っても?」
思い出し笑いに肩を揺らす
――守備隊の隊長ならば相貌と隊舎の位置は把握している。守備隊本部での話し合いが済めば、今日中には寄れる余裕もあるかもしれない。
そう算段をつけている内に告げられたその名前は、意外であっても納得できる相手のものであった。
「――
三年に一度、三宮四院が見下ろす中で行われる防人たちの祭典。初の出場から三度に渡って優勝を守り続けている男は、懐かしそうにその名前を口にした。
♢
「…………………………ん」
揺れる瞼が、細波に浚う晶の意思を現実へと呼び戻した。
机の端に転がっていた筆が落ちて、擦り切れた
……呪符を書き終わった安堵からか、何時の間にか
涙の残り香に
「ふ、、あぁぁぁ~……」
一仕事を終えた達成感を
香ばしいもち米が焼ける匂い。長屋の表で煎餅を商っているオ
「おや、晶坊。……寝ていたね」
「何で分かった?」
「何年の付き合いさね。
起き抜けの足音くらい、聞き分けられるよ」
笑いながら返る応えに、敵わないなぁとぼやきながら晶は頭を掻いた。
その時、
穏やかな疾風の音に誘われたのか、黄金の狭間から
「秋だねぇ」
「……あぁ。秋、だよなぁ」
感慨深そうなオ
生を急く
それは、晶が長屋に流れ着いた季節が、再び巡ってきた報せだった。
晶が住まう部屋の壁で、与えられたばかりの真新しい防人の羽織が、ふわりと微風に踊る。
統紀3999年、
波濤の音を立てて足早に秋が迫る中、晶は
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