閑話 小雨に綻びて、黎明に哭く2
「今、何と…………?」
告げられた言葉に、
目の前の人物が告げた言葉を理解する事を、理性が本能的に拒否をする。
己が発した言葉すら、自身のものとも理解できない。
眼前の相手に対して尽くすべき礼すら喪う。恥ずべき醜態を晒している事に思考を至らせることも出来ずに、その問い掛けだけをもう一度、口に繰り返す。
「今、何と仰いましたか…………!?」
揃えた膝を乱す。これまで見た事も無い
昨夜までの崩れ模様の天候も何処へか、からりと晴れ上がった蒼天が
胸の内に不安など一欠片も無い。
意気は高く足取りも確かに、
ゴ、コン。樫材と鉄の蝶番が軋む重い音と共に、正門が両開きに開かれる。
開く門の動きが止まるのを見計らい、その隙間をすり抜けるようにして2人は本邸へと足を進めた。
――何だ?
口に出す事は控えたものの、
半年に一度の登殿とは云え、此方も向こうも知らぬ間柄という訳では無い。
であるのに、まるで敵地に彷徨い込んだかのような、肌のひりつく感触。
場の雰囲気に流されたのか、初めて訪れる
「颯馬よ、浮足立つな」
「……は。申し訳ありません、父上」
初めての登殿が
取り返しがつく内にと短く忠告すると、跳ねるように返事が返った。
緊張はしているようだが、下手を打つほどでは無いようだと安堵に首肯だけを返してみせた。
これまでの行動を思い返す。何も
いつも通りの
――そういえば先触れの返答が
だが、
――そういえば最近、
気休めにもならないが、昨夜に
なるほど、これの事か。
洲議にも情報が下りていない以上、
事が始まったのが
何も動いていないのだから要因は
――原因が何か判らないが、
周囲のものを捕まえて、あからさまに訊いて回る事もできない。
先導に立つ女給の背中が何かを語る訳でもなく、
「
「ええ。半年ぶりね、
何があった訳でもない、ただ待つだけの幾許の後、天山と颯馬は静美の待つ中広間へと通された。
常には柔和な微笑みを崩したことの無い静美の表情から、感情らしい温度が抜けているのが見て取れて、余程の問題を抱えたらしいと天山の警戒が引き上げられた。
穏やかではない雰囲気の中、2人は膝行で広間の中ほどに進み出て平伏のまま挨拶を交わした。
「どうやら厄介事に悩まれているご様子ですが、内容をお尋ねしても宜しいでしょうか?」
「……
ですが報告の前に。雨月颯馬、この場は雨月
この場に座る赦しを其方に与えた覚えはありません、
「そ……」「はは、これは申し訳ありません。紹介が遅れるとはこの天山、手抜かりは汗顔の至りに
状況を一顧だにせず退出の命を一下に断じる静美に反駁を覚えたのか、発言を赦されていない颯馬が声を上げかける。
その様子を肌で感じた天山が、颯馬の言に被せるように慌てて言葉を紡いだ。
「何か?」
「この颯馬は先月、人別省にて正式に雨月の継嗣と認められた由、この場にてご報告させていただきます。
今後は雨月の次期当主、及び義王院の伴侶として末代ともよろしくお願いいたす所存にて
ぎしり。天山の言が終わる間もない内に
中広間に座す3人のみならず洲都で息をする
「何だ――」
「
――ですが天山、雨月の嫡男たるは晶
問い掛けの形だけを繕った隷属の言霊が、否応なく天山たちを縛り付けた。
半神半人の末裔たる三宮四院には、
これまでの短い生で、静美はこの権限を行使したことは無かった。
だが、今回の騒動に及んで尚、雨月家
「は。
遺品は幾つかを除き、
「――天山。
「申し訳ございません。
加えて、当主教育すら
「天山、虚言で舌を躍らせるな」
その感情のまま、隷属の言霊が再び中広間を支配した。
「重ねて問う。
――晶さまは、
鋭さを増す静美の舌鋒に、義王院の本気が窺えた。
最早これまで。平伏を崩さぬ天山の
――可能であるならば、雨月の汚点は義王院に知られる事なく流していただければ、結果としては最上であったのだが。
内心で呟きながら、天山は3年前の追放と、恐らくは州境の山稜辺りでくたばったのだろうという、己の予測を述べ連ねた。
「――申し訳
でき得る事なれば、義王院の御方々には知られる事なく処理しておきたかったのです。
……晶と云う名であった
――雨月歴代始まって以来の汚点。あれを排除せぬことには、今後、義王院に顔向けできぬほどであったのです」
「……無能、と?」
やはり、中核となる部分を訊かれた。
汚点を
一拍の逡巡の後、天山は思い切って言葉を紡いだ。
「は。
「……
「左様にて。
我々の醜聞に、御尊顔を背けないでいただきたいのですが、
――
これまでの逡巡が嘘のように、天山は晶の欠陥を滔々と静美に説いた。
文武の両面に
氏子にすらなれなかった人間以下の生き物擬き。
長年の
ああ。
中広間に、渡る暫しの沈黙。
てっきり称賛されるか、逆に静美からの激昂が下されるかとも身構えていたが、肩透かしに時間だけが過ぎるだけであった。
「――――――――それが?」
「……は」
ぽつりと、静美の唇が震える。
転び出た呟きは、心底からの疑問に満ちていた。
実際にはそれほど経っていないのだろうが、天山にとって永劫にすら思える涯の一言は自身が望んだものでも予想したものでも無く、戸惑いしか残らなかった。
「精霊を宿していない。それが何か問題ですか?」
「御当主さま、それは……」
「
それには、晶さまの魂石が雨月家に戻される事が条件のはずです。
――晶さまの魂石は、
ここまで静美が晶に心を許しているという事実こそが、天山にとっての誤算であった。
やはりもっと早くに晶の本性を義王院に打ち明けて、晶の排除に義王院の協力を取り付けるべきであったかと、
これ以上、義王院の不興を買う訳にはいかない。
そこらに放り捨てようとも考えていたが、これは持ってきて正解であったか。
袖の内を
壁際に控えていた
「あのような出来損ないにここまでの御温情、あれも草葉の陰で感謝している事でしょう。
……雨月としても、ようやく義王院に面目が立つというもの。
ここに控えております颯馬は雨月歴代をみても傑物とも云える稀代の器、恥ずかしながら、義王院御当主さまのご期待を裏切る事は決して無きものと自負しております。
どうか、義王院の伴侶とし…………」
「
感情の色が抜け落ちた平坦な声音が、
「此度の登殿、大義でありました。
――退出を許可します」
「は?
今、何と…………?」
あまりに唐突な退出の許可に、天山の膝が乱れる。
「今、何と仰いましたか…………!?」
盛夏に猛る日差しが中広間を対照的な昏い影で満たす中、表情から感情が全て抜け落ちた静美の唇が、もう一度だけ言葉を紡ぐ。
「下がってよい。そう申し渡しました」「お、お待ちくださいっ!!」
言葉の終わりも待てず、語尾に被せるように天山は叫んだ。
晶の追放を行ったことに対してある程度の不興を買うであろうことは、天山とても覚悟はしていた。
だが、雨月家始まって以来とも云えるほどの雑な扱いを受けることに、耐えられないほどの激憤が天山の矜持を揺るがした。
「義王院御当主さまが雨月の行いを不愉快に見られる事は、この天山、覚悟しておりました!
ですが、これも総て義王院の面目を汚さぬため!
ご不興はさて置き、
「……
ならば応えましょう。大方、其方が下した判断の根拠は、婚約の条文が
「それはっっ」「話は以上です」
弁明に明け暮れようとする天山の口上を切り捨てて、静美は雨月を一顧だにせず背を向ける。
……が、
「……ああ、そうね」
そのまま中広間を後にする前に、壁際に控えた側役に視線を遣った。
「
「下命、承りました」
「なっ!!」
そのあまりの扱いに、天山の顔色が絶望にも似た表情に染まった。
基本的な華族の報告は、家格がより上位のものに
雨月家は
同じ八家とは云え、
それは理解しているはずなのに、公の場で
どう誤魔化そうとも、口さがない宮廷雀共はうわさを聴きつける。
明日の昼下がりには、雨月の凋落が洲都に居る華族の食卓に上る事は、確定したも同然。
余りにも屈辱的な扱いに、雨月天山は血が垂れんばかりに両の拳を握り締めた。
これ以上、取り合う事は無いと中広間に背中を向けるも、外廊下に踏み出したところで、静美は最後に一度だけ足を止めた。
「雨月。
――
「は、そ……」「もうよい。充分です」
決して期待していた訳では無い。だが、呆けた表情しか浮かべなかった天山に、静美の感情が遂には零下にまで凍てつく。
完全に興味の失せた
「…………姫さま。
御心中、お察しいたします」
「慰めはいいわ。
御山が哭いたから、
自身の部屋に戻り、迷うことなく着替えを始める。
晶の死が確定となった今、
そうである以上、せめて被害を
「雨月天山、このまま帰らせて良かったのですか?」
「郎党を磨り潰すために、
周辺に下郎共が散らばると、禍根しか残さないわ。
――それよりも、晶さまの追放に関わったものの調査は終わった?」
流石に昨日の今日で時間が足りないが、情報が得られなかった訳では無い。
「……
別けても関係の深く有力な華族は2家。状況を知っているかどうかはさておきますが、
正直に云って印象に残っていない華族の名前、思い出すのに数拍を要した。
「確か
「その嘆願を持ってくる時機ですが、晶さまの登殿と妙に符合します。
推測ですが、恐らくは……」
「
――
「はい。
調べたところ、
厄介な。苛立ちも露わに、
問題が
だが他洲に籍を置く華族を処断するのであるのならば、
「思い出したわ。
「はい。昨今の
……
「問題ありません。
旧家と云えど
「承りました」
手間がかかるだけで不可能ではない。静美は躊躇うことなく
「――――お母さまは?」
「御先代は、所領を退いてこちらに向かっていると連絡がありました。
今日中にもお屋敷に着かれます」
「そう、なら大丈夫ね。
――鎮めの儀の準備を。
「……畏まりました」
静美の言葉に楓は緊張を隠せなかった。
大神柱の激怒。その象徴たる荒神堕ちは、
そのどちらにおいても、土地に残る爪痕をみれば尋常でない被害が出た事は窺える。
加えて
「
そうすれば、最悪は防げるはずよ」
「――はい」
逡巡を見せるも、ややあってから
怒り狂う神威が吹き
清めた白衣に緋の袴。できる限りの
「――――晶は?」
「……
塗り潰さんばかりの闇に在って尚、漆黒の輝きを放つ童女の姿をした大神柱は、ぽつりと桜色の唇を震わせた。
中広間での天山の放言は聴いていたはずだ。
それでも問い返したのは、最後の最後まで信じたくはなかったからだろう。
静美とても、
「晶は、
「天山の繰り言、その裏を取っています。
追放が3年前であるなら、徒歩で至れる限界の周辺に居られたはずです。
無一文で
「そのような事を訊いているのではない!」
さざ波が幾重にも波紋を生み、神柱の激情が
「晶は何処ぞ!! きっと泣いておる!! 今すぐにも迎えに行ってたもれ!!」
「それは……」
晶は幼い頃から顔を合わせている少年である。
産まれた時から婚約関係が結ばれていた少年の偶に逢う控えめな微笑みは、
世間一般の云う恋愛とは違ったものであったろうが、これからの人生を共に歩むならば最善に近い相手であったのは間違い無いだろう。
「そも!
「…………」
そこが、
晶に与えられている加護は、『氏子籤祇』で
確かに
仮に神気を残らず喪った場合、居場所を含めて即座に
今回の一件は、神気と加護を同時に喪失か
だが、既に起きてしまった以上、どうして起きたかは重要ではなくなってしまっている。
その結果、如何なったかが重要なのだ。
意を決した
「……どうぞ、
「――これは、何ぞ?」
「晶さんの魂石です」
ひぅ。
僅かに震える掌に乗せられたその表面を、
魂石と晶の繋がりが断たれて
それが誰の魂石であったものか、
それでも尚、慎重に、念入りに魂石に残留する気配を探り、
――その都度に、
誰も何も、感情すらも凍てついた時間が流れる。
ただ、大海から押し寄せる津波の前触れが如く、刹那の平穏が
「――――晶は、
ぽつり、
「
その呟きが蟻の穴となり、
「――――
「!!!??
うあぁぁあぁぁぁん!
水気に瘴気が滲み始めているのだ。
荒神堕ちの前兆。決死に叫ぶ静美の努力も虚しく、身に着けた瘴気除けの護符が幾つか燃えて尽きる。
護符の燃え滓が波間に攫われて溶けて消える間も与えずに、
「赦さん! 赦さんぞ雨月!!
ようも、ようも
応能を気取った積もりかぁっ!!
嗚呼、そうとも。
愚物らの
死して尚、黄泉路を這いずり回る筒虫の末路がお似合いじゃあ!!」
「
「!!!!」
一時なりともの落ち着きを願う
繋がりの輝きを宿す魂石は、
掌に遺された晶の魂石であったものを大事に胸元に包み込み、魂石が
激情が間断なく吹き
ややあって、
「……雨月は赦さぬ」
「勿論で
「晶を辱めたものに、それ以上の絶望をくれてやる」
「はい、御気の済むままに」
「静美。
――
「側に控えております故、ごゆるりと。晶さんを休ませて差し上げましょう」
「う…………うぁぁあああああんん~~~~!!」
悲痛な悼みのまま、
感情の
その日を境に
荒神堕ち。それがその前兆となる現象である事は、未だ、そこに住む者たちも知り得るものでは無かった。
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