1話 残響は遠く、燎原に思いを馳せて3
「――――答える必要には及びません」
引き戸が開けられると同時に、涼やかな声が医務室を
比喩でも表現でもなく、玲瓏としたただの一声が、厳次と晶はおろか医務室の空気さえも塗り替える。
誰だ、と誰何するつもりだった厳次だが、その向こうにいた人物を認めた途端、凍り付いたかのように動きを止めた。
――そこに立っていたのは、一人の少女であった。
年の頃は12の盛り、芳紀匂い立つかのような
腰まで届かんばかりの
一分の隙も無い完成されたしなやかな曲線を描いた肢体を包むのは、最高級の絹糸で仕立てられた
綸子の着物の胸元には、小さく縫われた家紋が揺れていた。
天から地へと
四院の一角にして珠門洲における最上位、
――
その後背に二人の少女を引き連れて、何の臆面も無く
「
「こ……れは、
ご尊顔を
……して、姫さまが直接のお出向きとは、一体何の用向きがあってのことでしょうか?
申し訳ございませんが今は立て込んでいる最中でして…………」
「ええ、存じています。
……何しろ
「それは…………?」
どういう意味か訊き返そうとした厳次を余所目に、
晶が目にした中でも
不安げな晶の様子に一切、嫌悪した雰囲気も無く、逆に警戒を解かせるかのような綻ぶ微笑みを浮かべて口を開いた。
「
昨夜における百鬼夜行の討滅、おめでとうございます。
――つきましては、此度の一件と
「――なっ!? お、お待ちくださいっ!!
晶は今、華蓮に籍を持たぬ身で精霊器を無断入手した
上位の存在である
当然だ。
洲外から流れてきた外様の平民というのが、晶の公的な立場である。
立ち位置としては、人別省に籍を持たない
対する
正反対とも云うべき立場の二人が面と向かって直に会話するなど、万に一つもあってはならない状況であるはずだ。
厳次の行動も大概に無礼であるが、それでも眉一つ
「……第8守備隊隊長の阿僧祇厳次、ですね? 百鬼夜行における
守備隊一つで行える指揮としては、おそらく考えうる限りでも最上のものでしょう。
貴方への
「そ、それは有り難く。
で、ですが、今は」
「理解しています。晶さまの疑惑の件ですね?
――それらの件に関して、
「はぁっ!?」
繰り返すが、現状、晶は犯罪者として扱われている。
この根拠となっているものは、晶が精霊器を無断で扱った事に由来し、それは多数の目撃者までいる明確な事実だということだ。
精霊器は、武門華族に限らず華族にとっての武力の象徴であり、華族という存在意義の証明でもある。
華族であるならば、最低限、家系に一つは精霊器が伝わっており、精霊器を継承することが家系の長であることの象徴として扱われていた。
一昔前ならば、不用意に精霊器に触れたものは、正当防衛として切り捨て御免が認められるほどには華族の中では重いのだ。
精霊器に触れる、のみならず精霊力を注ぎ込んで行使する。
明らかに重大な晶の過失、それを一顧だにせず不問に付すという
――そして、それは
「お、お待ちください、
「そ、その者は遺失精霊器を不法に入手したばかりか、行使に及んで
聞けば、洲外から流れてきた下民崩れだとか。そのような者に
特赦。つまり、そこで起きた明確な犯罪行為の一切合切を見逃すということだ。
いかなる犯罪もなかったことにする特赦は、領を統治する者にとっての最大の特権だ。
罪を問わないという
無論、問題のある無しに関わらず、発令した場合にはある程度の求心力の低下も覚悟せねばならない。
そこまでして、晶を庇い立てる理由は、
だが、
「問題はありません。
そもそも、特赦ではありませんから」
「はぁっ!?」
犯罪では無いと返された言葉に、
遺失精霊器の違法入手と行使。どう考えても、洲外の下民なら死罪が相応の犯罪である。
明確な犯罪のため、
「まず、遺失精霊器ではありません」
「では、何だと仰るのですか?」
永い年月の中で家督の相続争いや暗闘の末に失われた精霊器の事を、遺失精霊器と呼ぶ。
知識まで失われたそれらは、好き勝手に出力やら等級やらを盛って伝える事ができるため、神器と見紛うような性能のものが多かった。
遺失精霊器の実状はどうあれ、晶が行使した精霊器は、明らかに等級としても並外れている。
「あれは、
「なぁっ!」
「また、其方は洲外の下民と云ってましたが、晶さまは朱沙神社にて氏子が認められています。
少なからず、神々にはこの地に相応しい同胞と認められている証左でしょう」
土地神との契約である『
予想もしない事実を突きつけられて、
「し、しかしながら、あの場で周囲の被害も考えず『彼岸鵺』を行使した件もあります。
どう考えても、このものは怪しすぎます。どうか、御再考の程を」
「くどい」
これもまた、当然の話だった。
不必要な捨て駒扱いを守備隊に強いた上で、穴埋めを目論んでいた百鬼夜行討滅の手柄が無くなっているのだ。
何としても、討滅の大勲功手である晶を密殺して手柄の持って行き先を有耶無耶にしなければ、字義通り、
だが、
「――く、されど
あれらは我ら華族が厳重に管理すべきもの、如何に
晶では切り口がないと判断して、
普通なら、これで少しは相手の牙城を揺らせるはずであった。
だが、
「
「其方、何時から
それは
そこにようやく思い至り、
「い、いえ。
「ほう。
其方は意識もせずに、私に許可を
一度、掘ってしまった致命的な墓穴は、抗弁する度に大きくなるだけの結果にとどまる。
挽回の糸口を探して、必死に取り繕おうと思考を空回すが、口を開閉するだけの虚しい結果しか得られなかった。
完全に孤立無援になった
保身に走ろうとしていたのに、何時の間にか喉元に刃を突きたてられているかのような理不尽な遣り取り。
「…………も、申し訳ございません。
他洲の間諜が見つかったかもしれないとの報を聴き及びまして、
「――では、ここでの会話は、其方の
「無論の事にございます!
……後ほど調査を行い、誤報を出したものは厳罰を下すといたしましょう」
犯人は別口か? と云う
大急ぎで脳裏に
「そう。
では、誤解も解けたという事で、晶さまの逮捕状は
「…………勿論でございます。
直ぐにでも戻って、逮捕状を取り下げさせていただきます」
「良しなに」
昔からお役所仕事と云うのは、理由を作り、許可を貰い、結果を出す、
奇妙な話ではあるが、結果そのものは重要ではないのだ。
時間が無かったとはいえ、
守備隊総隊長の立場を盾に、越権ギリギリの逮捕劇に及んでいたのだ。
理由が生まれた段階ならまだしも、強権を振るって許可を出させて、その直後に間違いでした無かったことにします、は簡単には通らない。
端的に云うならば、
晶を捕縛できるのならば万事解決と云えるのだが、それは
その上で、逮捕状の取り下げを
――偶然ではない。間違いなく現状と結果を理解したうえで、
この分では、身代わりを仕立ててしらばっくれる余裕が残っているか微妙なところだろう。
自業自得ながら厄介な仕事を命じられた屈辱に、
強引に辞去の礼を
「――
「少し立て込みますので遅れるかもしれませんが、功
特に、
「は、承知いたしました」
ここまで内情を暴かれているのだ、間違いなく良い意味では云われていない。
それでも努めて表情に出すことは無く、僅かに会釈を返したのみで
入れ替わりに、その場に
「…………え?
「は? どうしてこんな処に」
――咲と諒太であった。
四院と八家は公的な立場においても直答が許されるほどには家格が近く、昔からの知り合いである。
だが、それとは別に、三人は別の意味でも関係があった。
「あら、二人とも学院以来ね。
もしかして、衛士の研修?」
年齢が同じ三人は、今年同時に央洲の天領学院に進学していたのだ。
特に、咲とは家格と年齢が近しい事に加えて、学院では同じ女学部であり、かなり気安く会話をする間柄であった。
「はい。
……あの、
「えぇ。晶さまの今後について、話をしに来たのです。
――お二人は、晶さまと面識がおありでしたか?」
晶、
間違いなく、
「か、顔見知り程度の知り合いですが。
第8守備隊に来た時に、幾度か会話をする機会がありまして。
山狩りの際にも助けてもらったので、彼の『
「なるほど、
咲の台詞に、
未だ年季明けに早いはずの晶が、時季外れの『
だが、この事実は望外の僥倖でもあった。
『
ちらり。その隣に立つ諒太に視線を走らせる。
咲の口に晶の話題が上ると、あからさまに諒太の表情が嫉妬に歪むのが見て取れた。
――それだけで、両者の間柄はおおよその把握は出来た。
「――判りました。
では、咲さん。晶さまを連れていかなければなりません。
今後の説明に和音を残しますので、代わりの供回りをお付き合いお願いできますか?」
「それは…………、出来ません。
申し訳ありません。実は、晶くんが
いま、川底を浚って捜索している最中なんです」
というか、全力で拒否したいところだ。
咲は八家の末席に名を連ねているので、奇鳳院の供回りを代行する家格はある。
だが、資格を満たしている、と問題なく行える、は全くの別問題である。
「……あぁ、ごめんなさい。連絡してなかったのね。
晶さまの行使した精霊器なら、
「え!?」
「これで問題ないわね? じゃあ、供回りをお願いします」
驚く咲を余所目に、両手の指を軽く絡ませて、雰囲気で説き伏せるように
♢
TIPS:遺失精霊器について
歴史の中で失われてしまった精霊器のこと。
理由が色々あるが、家督の相続争いで失われたものが多い、と
実際は、穢レや領地間の争いで破損したものが9割を占めている。
失われた精霊器を探し出して、その力で悪の領主を倒し、没落した一族を再興する。
その一連の流れが、芝居で人気の定番シナリオ。
無いものは好きに言い伝えを付け加えれることができるので、一振りで雲を斬ったとか、並み居る敵を薙ぎ倒して、八家の喉元に迫ったとか、常識で考えたら無いだろと、総ツッコミを入れられそうなエピソードが存在するものもある。
因みに、エピソードや精霊器の銘も後から追加されたものが多いため、実物とは銘すら違う、なんて原型すら残っていないものも半数近くあるのが、裏話的な残念現実。
本日、拙作「泡沫に神は微睡む」の3巻が発売されました。
ここまで巻を重ねる事が出来た事、多くの方の声援あっての事と思っております。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
安田のら
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