3話 禊ぎ給え我が過去を、祓い給え我が業を4

 視界から光が抜けると、そこには陽光に照らされた石畳の一本道が続いていた。

 それ自体に変化はないが、視界に映る世界は明らかに違う。


 陽炎のように揺らめく世界に、歩くものが生まれていた。

 姿形は明確に認識できない。もやとしか形容のできない何かが、石畳の上を三々五々歩いている。


 無人であったはずの店前で、丁稚小僧宜しく小柄な靄が箒を掃いているかと思えば、店の硝子戸を拭いて商品を並べているものも散見できた。

 人間とはかけ離れた、否、そもそも生き物とすら思えないような存在が、余りにも人間臭い日常の所作を見せている。


 余りにも異常な光景。しかし、当然のようにこの風景に馴染んでいるため、晶はそれを異常と思えず違和感を持つ事も無かった。


 異形のものたちがすれ違う中、晶もまたその一員となってそぞろ歩く。

 彼らは晶を認識していないのか、晶と云う異物を気にしたような素振りを見せていない。

 晶もまた、彼らを気にせずそれらの間を縫って歩く。


 やがて、開店準備を終えたのだろうか異形のものたちが店を開けて客の呼び込みを始めた。

 しかし、威勢のいい仕草とは裏腹に、晶の耳に客引きの売り文句は聞こえてこない。

 大勢のものたちが行き交う世界は、それでも晶にとっては変わらず静寂の世界であったのが、どちらかと云えば異常に感じられた。


――晶さん、お久しぶりです。


 耳が痛くなるような静寂の中、不意に記憶から泡沫のようにその声が蘇ってきた。

 何処までも優しく柔らかな、慈愛に満ちたその声。

 誰の声か。探ることもなく直ぐに相手を思い出す事ができた。


 義王院ぎおういん静美しずみ。晶より半年早く産まれた義王院の次期当主、そして、晶の元婚約者である少女だった。

 晶を表に出す事を極力避けていた天山だが、それでも、婚約関係にある義王院と顔を合わせない訳にはいかない。

 義王院からの要請もあったため、天山は年二回ある義王院への参内に晶を連れて赴かねばならなかった。


 雨月にとって幸運だったのは、三宮四院は華族としての交流はほぼ持たず、各々が知ろしめす洲の政務に注力していたため、他の華族とあまり顔を合わせる事が無く参内を過ごせたことであった。

 その甲斐あってか、晶が雨月の嫡男であることは他の華族にほとんど知られることが無かったのだ。


 義王院に晶が精霊無しだと露見する事を恐れた天山は、何かにつけて晶の発言を制限した。

 精霊無しということで、晶と義王院の婚約関係が破談するだけならまだいい。

 穢レ擬きと忌み嫌う晶を作り・・、尚且つ義王院との婚約関係まで結ばせてしまった雨月に対して、周囲の誹謗中傷、何より義王院の信頼が失墜することを恐れたからだ。


 義王院への参内の間、晶は決められた言葉しか応える事は赦されていなかったし、義王院からであっても晶と接触しようものならあとで酷い折檻が待っていた。


 しかしそれでも晶は、義王院への参内を楽しみにしていた。

 なぜなら、年に二回の参内は、晶にとって地獄の日々を忘れるほどに心安らげる時間だったからだ。

 義王院はいずれ息子になるであろう晶の来訪を心から歓迎してくれたし、なにより、参内中の会議で雨月天山と物理的にも精神的にも距離が隔てられるからだ。


 天山が居ない間、晶は義王院の屋敷の一角で静美しずみと交流を深めていた。

 晶と静美しずみ。加えてお目付け役だろうか十歳とおを数えたばかりの少女とで、いつも遊んだり菓子を食べたりした。

 ただ、静美しずみは遊びの輪に加わる事を滅多にせず、どちらかと云えばくろ・・と呼ばれていたお目付け役の少女が晶に構いたがるのが印象的だった。


――のう、のう、晶や。つ国の菓子があるぞ。食べてたもれ。


――おぉ、剣を習い始めたのか、善き、善きぞ。


 近況を訊かれ、成長を寿がれ、滅多にない再会をよろこびあった。

 いつも、静美しずみは微笑みながらくろ・・の笑顔を見守り、晶との会話を楽しんでくれたのを覚えている。


 最後に逢ったのは何時だったろうか。

 そうだ。追放される数か月前か。近況で符術の回生符の書き方を修めた事を報告したのだった。

 静美しずみはもとより、くろ・・の慶びが非常に大きかったのが印象的だった。


――そうか、そうか! その年齢よわいで回生符を修めたか!

――すごいのう、晶! のう、静美しずみ。晶のめいを考えてやらんとなぁ。


――えぇ、そうですね。


――めいって何ですか?


――雅号の事ですよ。符術師が名乗る渾名のようなものです。


――玄ぞ。玄の一文字は絶対に入れよ!


――はい、そのように。

――晶さんは、何か好きな文字はありますか?組み合わせられるか、試してみましょう。


 少し考える。好きな文字、そんなものは考えたこともなかった。

 ただただ、日々を過ごすことに必死であった。

 好きな文字というのは判らなかったけど、だからこそ、晶を象徴する文字というのはこの一文字に他ならなかっただろう。


――”生”、です。


 玄生。義王院より戴いた、命の次くらいに大切な晶という存在の証明・・。生きると云う晶の覚悟が刻まれた、晶だけの雅号なまえ

 優しい二人だった。祖母を除けば、晶にとっての心の安らぎそのものと云っても過言ではなかったろう。


――二人は、晶が追放されたことを知って悲しんでくれたろうか? 精霊無しということを知ってしまったろうか?


――穢レ擬きと顔を顰めたろうか。


――義王院を欺いた罰よと、盛大に嗤ったろうか。


 それももう、4年前の出来事だ。僅かに交流を持っただけの子供のことなど、あの二人は忘却の彼方に置いてきてしまっているだろう。


――嗚呼それでも、願わくばあの二人にもう一度だけ逢っておきたかった。


――謝りたかった。


――精霊無しであることを。ずっと黙っていたことを。


 それだけが、あの二人に残してきた心残りだった。

 だから、この記憶おもいは溶けて流れていかないでくれ。

 忘れてはいけない大切な後悔なのだから。


 記憶をしっかりと握りしめて抱え込む。

 晶の視界が、優しい光で満たされた。


 ♢


 光から抜けた晶の視界に入ってきたのは、おおきなくすのきの威容であった。

 幹に注連縄がかけられた樟の神木。それが境内の中央に生えている。

 聳える大樹の脇で12歳ばかりの少女が幹に背を預けて立っていた。


「……お待ちしてました。この地にて人位の鎮護を仰せつかりましたものにて御座います」


 先の少女に似て、薄くとも感情が見えたが、言葉使いは砕けておらず堅い印象の残る少女だ。

 軽く頭を下げる程度の会釈を受け、晶もまた会釈を返す。


「……『氏子籤祇うじこせんぎ』を受けに来ました」


「承っております」


 疲労とままならない思考の狭間で、機械仕掛けのようにそれだけを繰り返す晶に対して、事務的な口調で少女は応えた。

 足元に置かれていた籤箱を抱え上げて、手を差し出した晶にそれを受け渡そうとする。


「……え?」

 ごとん。やや鈍い音をたてて石畳の上に落ちる籤箱に、晶は呆然とした。

 手を差し出した感触・・はある。その意思・・もちゃんとある。

――しかし、籤箱に触れた感触が無い。


 呆然と自身の手を見て、その理由に漸く気付いた。


……薄くなっている。

 外の世界を闊歩する異形のもやたちよりも、ともすれば夏の日差しがみせる陽炎よりも。


「な、何で……!」


 不思議と恐怖は無く、状況への戸惑いだけが晶を動揺させていた。

 思考に紗が掛かっているとはいえ、木偶人形になるほどではない。本来なら発狂してもおかしくない異常に、動揺だけで済んでいるのが奇跡と云えた。


 異常はそれだけでは終わらない。

 晶が狼狽うろたえる度に、静寂に沈む世界に波が起こる。

 石畳のそこかしこから細かい泡沫が立ち、大樹の木の葉が戦慄おののくように震える。


「あ、……あっ! っ!」


「落ち着いて」


 周囲の異常に怯える晶に、少女が近づいて手を取った。ひやりと冷たくどこか乾いた掌が、晶の両手を優しく包み込む。


「もう大丈夫」囁く少女に、晶の思考が凪いで治まる。「さ、もう一度、籤箱を取ってみましょう」


 晶の落ち着きと共に静寂を取り戻す世界の中、晶は少女と共に慎重に籤箱を拾い上げた。

 少女と一緒に持っていたせいか、今度は何事も無く持ち上がった籤箱を逆さにする。


――途端、待っていたかのように籤紙がかさりと落ちた。


「――どうぞ」

 晶よりも早く少女が屈んで籤紙を拾い上げた。

 差し出された二つ折りの紙片を受け取る。籤箱と違い、その紙片は当たり前のように消え入りそうなほどに透けた晶の掌に収まった。


「――『茅之輪ちのわの地にて、奉じる由』…!?」


 愕然とその文面を読み上げる。

 その名をもつ地は知っていた。今日初めて訪れた神社の名だ。

 つまり、元の神社に戻れと云うのか。

 動揺は無い。しかし、抑えきれない絶望が晶の心を圧し折る。

 此処まで耐えてきた理由は、『氏子籤祇うじこせんぎ』の結果が一番恐れていた白紙の結果では無かったからだ。


 氏子にすら認められないという現実ではなかったから、違う地に行けと云われていても耐えられた。

 それも、一度ではない。

 最初の茅之輪ちのわ神社から数えて、4つの地を踏んだ。

 それでもなお、ぎりぎりで耐えられたのは、文面に記された土地の名が全て違ったからだ。


――次の地こそは、氏子として受け入れられる。

 そんな幽かな望みにしがみついていたからだ。


 晶の絶望が、精神を越えて再び世界を揺らす。

 浮き立つ泡沫で石畳が踊り、樟の大樹が木の葉を散らした。


「こんな、これじゃ、ただのたらい回しじゃないか‼」


「落ち着いて」


「お、落ち着けるかよ! 俺が何をした‼ 精霊がいないってだけだろ!?

 なんで、馬鹿にされて、見下されて、蔑まれて、

 い、意味も無く、追放されて……」


「落ち着いて」


「俺一人くらい、片隅で生きていたっていいだろ?

 あんたらの邪魔になんかなってないだろ!?」


 いままで堪えてきた絶望が、堰を切って口から溢れだす。

 世界が揺れる圧に耐えかねて、晶を中心とした石畳にヒビが入った。


「ただ、普通に暮らしたいだけだ。ありふれた望みしか持ってないだけだ。あんたらに何かした訳じゃない。ただ、氏子として生きていきたいだけだ!!」


「落ち着いて」冷たく乾いた掌が、晶の頬に添えられた。

「心を鎮めて、己を見失わないで。

――貴方キミを護るために、本当に数多の精霊こどもたちが禁を犯して貴方の精神を護っているの。

 彼らの犠牲・・を、無駄にしないで。

 気付いて。もう貴方は独りじゃないよ」


「あ……」


 少女の諭してくる囁きに、晶は息を詰まらせて少しだけ我に返った。

 我を取り戻した思考の狭間が一気に広がって、精神が凪ぎの状態へと戻っていく。


「――もう大丈夫。

 此処は、現世うつしよ常世とこよの狭間、坐所・・に最も近い場所。

 この世界の在りようは、貴方の感情おもいで決定されるの」


「……俺は」


「受け入れて。そうすれば、貴方様は至れるでしょう。

 この先は迷うことなき一つ道。迷わず真っ直ぐ歩むのです」


 真摯に、ただ只管ひたすらに真摯に、少女は晶に語り掛けた。

 先に相対した女性たちと同様に、少女は慈愛を以て晶を導く言葉を告げる。


「ご武運を。

 貴方様は至るでしょう。その結末しかありません。

――そのはては御方々がこいねがう、奇跡の結実たればこそ」


 愛おし気に晶の頬を撫でてから、少女は立ち上がって大樹の向こうへ消える。

 少女が大樹の向こうに消えた瞬間、境内には誰の気配も感じられなくなった。


――きっともう、そこには誰もいなくなったのだろう。


 確証は無い。それでも晶はそう確信した。

 疲労と絶望で身体も精神もボロボロだ。

 『氏子籤祇うじこせんぎ』の結果も散々だ。何しろ与えられた託宣は『元の地に戻れ』だ。

――それでも先は存在するのだ。

 ならばこそ、歩みを止める理由は無い。


 踵を返す。

 足取りはよたよたと頼りないが、それでも確実に前進を果たした。

 その先に終わりは必ずあるのだと、自分自身に言い聞かせながら。

 晶は再度、前を向いた。


 ♢


 鳥居を潜ると、その先の世界も随分と様変わりをしている事に気付く。

 どこか遠くより祭りの囃子に似た笛の音が聴こえてきた。


――笛の音・・・、そして、人の声・・・

 何時の間にか、靄のようなものたちが実体を持っている。


 祭りで着るような洒落た小袖に飾り細工。

 行き交う誰もが、和洋を問わずそれなりの服を着て歩いている。

 そして、行き交う誰もが顔を狐の面で覆っていた。


 石畳の上を、一歩一歩と踏みしめる。

 晶が進むたびに、感情を見せない無機質な面から無遠慮な視線が投げかけられた。

 先程までは意識すらされていなかったと云うのに、今度は立場が逆転したかのように、晶が気を遣れず、通行人が晶に気を割いている。


――晶や、しゃんとおし。俯いていても何も変わりゃしないよ。


 俯きながら歩く晶の記憶の底から、最後に残った記憶が蘇る。

 堪えきれない懐かしさのあまり、涙が乾きかけた頬を再度濡らした。

 よく憶えている。


……忘れるものか。

 雨月房江。晶の事を最期まで気に掛けてくれた、祖母の事は。


 厳しい祖母だった。優しい祖母だった。

 雨月の屋敷で唯一晶を護ってくれた、晶の居場所であった。


 雨月に於ける当主天山と比肩し得る地位、護家の筆頭足る刀自の座に、死の直前まで座り続けた女傑である。

 晶の育児を完全に放棄した母親に代わって、殆ど孤立無援の状況で晶を育てた手腕は、称賛の一言に尽きるだろう。


 どういう状況になっても晶が絶望せずに生きていけるよう、教育を施してくれた。

 晶の教導に就いた不破直利を、縁組から含めて強引に手配したのも祖母であった。

 穢獣けもの扱いしかされなかった晶が人間としての自我と尊厳を守り抜けたのは、祖母の存在を無くしては語れない。


――お祖母ばあ様、僕は穢レなのですか?


 何時か、二人きりで屋敷の奥庭を散策しているときに、思い切ってそう問うたことがある。


――いいえ。違いますよ。何故そう思ったの?


――……みんなが、そう云うから…。


――誰かがそう云ったから、お前は穢レになるの?


 首が千切れそうになるほど、左右に振る。

 誰かにそう云われたから、そうならないといけない。それは、晶にとって認めたくない現実であった。

 誰かがそう云うから、晶は穢レバケモノとして生きなければいけない。そんな現実は受け入れてはいけない。


 しかしそれでも、晶の生は否定の連続であった。

 掛けられる言葉が、向けられる視線が、晶の全てを否定する。


 生きているだけで罪人扱いされたし、それを否定する事すら赦されなかった。

 晶には、相手の都合のいい解釈を肯定する道しか残されていなかったのだ。


 歩く晶の薄く透けた身体に、ゆっくりと確実にもやが纏わりついていく。

 靄を纏い、俯いてただ一歩一歩を確実に踏みしめる事だけに専念するその姿は、まるで先刻さっき見た石畳を闊歩する存在そのものだった。

 それでも歩き続ける晶の記憶から、再び祖母の言葉が蘇ってきた。


――一度しか云わないよ。お前は、穢レなんぞではない。いいや。そもそも、穢レになんぞ堕ちようがない・・・・・・・のだよ・・・


 あの時の祖母は、随分と自身の言葉に自信を持っていたようだった。

 その理由が明らかになったのは、祖母が死ぬ間際であった。


――晶や、済まないね。


――お祖母ばあ様……。


――お前にも、周りのものたちにも、どうしても云えなかった事がある。

――この事実が伝われば、私はもとより、お前も異端扱いされかねなかったからだ。

――だから晶。お前は、これから私が話す事を、決して周囲に漏らしてはならないよ。


 女傑と謳われた祖母は、すっかり痩せ細った身体を無理に起こして晶に顔を向けた。


――私はね、晶。若い時分に穢獣けものが生まれるところを見た事があるんだよ。


 その告白は、晶が穢レでないと祖母が確信に至った理由そのものであり、晶にとって、看過し得ない衝撃の内容だった。


――何時だったか、血気盛んだった私は、山狩りの際に不用意に森の奥に踏み込んでしまったことがあるんだよ。

――あぁ、未だに鮮明に思い出せる。踏み込み過ぎた私は、崖で足を踏み外して谷間に落ちたんだ。


 落下の衝撃で暫くの間、気絶していたことは確かだ。

 だから、あの光景を見る事ができたのだろう。

 岩と、崖から突き出た木の陰に隠れていた私の眼下で、同じく崖から落ちたのであろう鹿が死にかけでふらついていたのが見えた。

 おそらく、山の主かそれに準ずる上位精霊を宿した鹿だ。

 蒼い精霊光が、死に体の鹿の生命を辛うじて繋いでいるのがよく見えた。


――死にたくなかったんだろう。


 当然だ。私だってそう思う。

 やがて限界がきて、その鹿が死ぬであろうその時だ。

――啼いたんだよ。


 嗚呼。耳奥にこびりつく啼き声だった。

 世の不条理と無情さを呪い、憎悪する啼き声だった。


―――……。

―――キョキョキョキョキョ!!!


 あの時、鹿は狂ってしまったんだろうねぇ。蒼かった精霊光が赤黒い輝きに刹那で変貌して、鹿は穢獣へと堕ちたんだ。

 今から思い返せば、あの光景には様々な真実が隠されていたように思う。

 特に、最初に穢獣が産まれ堕ちる過程を知るものは、これまで存在しなかった。


――……最初の、ですか?


――そうさ。穢獣は、元となる穢獣から瘴気を感染うつされることで発生する。となれば、最初の穢レ・・・・・ってのが存在してなきゃおかしい。

――最初の穢レ・・・・・がいずこかに隠れ住んでいる。ってのが現在の定説だったんだが、私の見た光景はそれを否定するものだった。


 おそらく、と、喘鳴で咽喉のどを鳴らしながら、祖母は朦朧と言葉を繋げる。


――おそらく、穢レ、少なくとも穢獣は、宿った精霊が狂うことで堕ちるんだろう。

――なら、同じ穢レに属する妖魔は? 怪異は? 

――ここからは決して口にしてはならないよ。

――……推測だが、妖魔は発狂した精霊が現世に顕現した姿なのかもしれない。


 それが口にしてはならない想像であることは、幼い晶でもはっきりと理解できた。

 この世界は、精霊の無私献身によって成り立っている。人間に限らず正者の身に宿り、霊力をすべにて、穢レと対抗する力を与える。

 木・火・土・金・水の五行運行を支えて、世界を満たす存在。


 穢レが元は・・精霊だったなんて事実を、周囲に広げる訳にはいかない。

……それは、生けるもの総てをも否定しかねない異端の発想だからだ。


 精霊は何処にでもいる。それこそ、生きているならば自身の生命に必ず寄り添う存在だ。

 血縁よりも深い絆で自身と結びあう精霊は、決して宿主に影響を及ぼす事は無い。

 何故ならば、それが神と人間が国造りの御代に交わした契約だからだ。

 精霊の側からこの契約を破ることは決してない、破る事ができないと云うのが現在における神代契約の定説である。


 この定説が覆されるのであるならば、それこそ、人間と精霊の関係に修復不可能な罅が入る可能性がある。


――何故ですか、お祖母様。何故、そのことを皆に話してくれなかったのですか?


――云えなかったんだよ。この推測は、自分を否定し異端を肯定するものだ。

――雨月を率いる一族として、決して口にする訳にはいかなかったんだよ。


――だが、この推測が正しいのであるならば、これまで謎とされてきた穢レに関する謎に一定の説明がつく。


――……そして、この推測こそが、お前が穢レに堕ちない理由でもある。


 晶の身体がもやで覆い尽くされる。ただでさえ透けていた晶の身体は、遂には靄の内側に消えてなくなる。

 異形の存在と成り果ててしまっても、晶の歩みが止まる事は無かった。

 疲労と睡魔は自我を根元から刈り取っている。

 晶の意識は既に、宙に溶けていた。

 今の晶の歩みを支えているのは、希望ではない。義務でもなかった。

 ただ、次が最後だと縋る気持ち一つだけだった。


 石畳の続く路に響いていた喧噪は、何処にか消えていた。

 行き交う存在の姿も、同様に見当たらない。

 晶の瞳に映る石畳は、何時の間にか茜の色で染め上げられていた。


 夕陽が、世界の全てを照り返している。

 当然だ。今まで会った女性たちの言葉が事実であるならば、晶は華蓮の都の外周を大きく回っているほどの距離を歩いている事になる。

 寧ろ、漸く夕陽の照り返す時間帯になったと云うのが信じられないほどだ。


 重い息を吐く。息を吐く度に、大きな泡沫あわが吐き出されて宙空を踊る。

 もはや見慣れた光景に、感覚は麻痺して何かを思う事は無かった。


 ただ、懐かしい祖母との会話に、晶は耽溺しおぼれていたかった。

 祖母と言葉を交わした最期の記憶、晶は穢レにはならないと云う祖母の言葉。


――晶や。精霊光を見た事はあるね?


――……はい。


――では、瘴気を見た事は?


――ありません。


――だが、何時かは目にすることもあるだろう。憶えておおき、瘴気はね……

――赤黒い・・・輝きを放っているんだよ。


 晶の戸惑いを余所に、祖母は必死で言葉を紡いだ。


――発狂した精霊の光が赤黒い輝きを放って、私の目の前で穢獣に堕ちた。

――私の推測が正しいのであるならば、お前にとってこれ以上ない吉報となるだろう。


 何しろ、晶は精霊がいないのだ。

 そうであるならば、穢レに堕ちることは絶対に無い。


 穢レに堕ちない。

 それは、”穢レ擬き”と嗤われ続けてきた晶にとって、救いそのものだった。

 この現世の片隅でも、生きていていいのだと確信できたのだ。


――生きるんだよ、晶。そうすれば、お前が精霊無しである理由は、きっといつか判る筈だよ……。


 祖母の最期の言葉にどれだけ救われたか。晶の瞳から、最後の涙が一滴落ちて、石畳に弾けて溶ける。

 晶の視界が、優しい茜の輝きに満たされた。

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