3話 禊ぎ給え我が過去を、祓い給え我が業を5
――気付けば、鳥居を背に、最初に訪れた
茜色の夕陽は、
そのためか、もう夜の闇に閉ざされたかのような昏さが境内を支配していた。
「――お待ち申し上げておりました」
何時の間にか、最初に見た女性が晶の前で深々と頭を下げていた。
「
――
靄の異形となってしまった晶は、ふらつきながらも求めるように手を差し出す。
声は出ない。ただ、声にならない
それでも、晶の求めているものは判っていたのだろう。
晶の見た目にも、声になっていない声にも動じる事は無く、女性は二つ折りの紙片を差し出してきた。
何度も引いた籤紙だ。
籤箱から引くと云う過程をすっ飛ばした女性に、晶は戸惑いの視線を投げかける。
――
「貴方様は”
これ以上、儀式を続ける意味がありません。
貴方様の至る先は、この託宣にて記されております」
――
それでも受け取ろうとしない晶の掌に、女性はやや強引に紙片を乗せた。
かさついた紙片の表面をなぞってから、抓むように広げる。
中に記されているのは、やはり、一文だけだった。
――『
それは、更なる別の地へと行けという指示に他ならなかった。
またか。がくりと肩が落ちるが、泣こうが喚こうが構うことなく、6度も続けば流石に慣れる。
と云うか、最早如何にとでもなれと云う投げやりな感情しか、晶には残っていなかった。
「
再度、頭を下げる女性に背を向けて、鳥居から出ようとする。
「――お待ちくださいませ」
その背に、女性の制止する声が投げかけられた。
振り返る晶に、女性は拝殿のさらに奥の空間に手を差し伸べてみせる。
その先には、これまで通ってきたものよりも小さな鳥居が建っていた。
あんなところに、
ぼんやりとした思考で、晶は首を傾げた。
今日初めて来たばかりだから記憶は曖昧であったが、それでも、一日も経っていない記憶を深刻なほどに間違えるくらい
「朱沙の地へと続く霊道にて御座います。
此方をお使いくださいませ」
ぼんやりと鳥居の奥から
――
鳥居から聴こえる祭りの音に酔ったかのように、靄の身体をふらつかせながら晶は鳥居の向こう側へと歩き出した。
「御祝着に御座います。
万象の果てに、貴方様は
どうか、どうか、受け入れてくださいませ」
晶の背を追いかけるように、女性の声が投げかけられる。
――どうか、どうか、想いを遂げられますよう。
――――――――――――――――
電気式と灯油式の
その道行を、晶は
よたり、よたり。酔漢の千鳥足に似た足取りではあったが、意識が完全に飛んでしまわないよう石畳を必死に睨みつけながら前に進む。
――歩みを止めるは悪し。
最初に受けた忠告に従って、疲労と絶望に折れた心を無視して歩く。
それでもまだ救いであったのは、道中で聴こえてきた
代わりと云っては何だが、街を行き交う狐面の者たちが物珍し気に、無遠慮な視線を晶へと向けてくるようになった。
檻に入れられた珍獣の気分を押し隠しながら、突き刺さる視線に気づかぬふりを続ける。
――あと少しで終わる、あと少し、あと少し。
熱病に浮かされたように妄執的に呟きながら、朦朧とした意識のまま先へと進む。
――しかし、一向にその終わりは見えてこない。
どれだけ歩いたろうか。どれだけ時間が過ぎたろうか。
最早、それらの感覚すらも曖昧だ。
足は棒になったを通り越して感覚は無い、脳は睡魔と疲労で茹っている。
――この道行が終わって欲しい。その欲求だけで身体が辛うじて進んでいる状態だった。
――
そんな危うい均衡にも、やがて終わりは訪れる。
感覚が麻痺して、なお進む足がまず崩れ落ちた。
石畳に四つん這いになった身体を起こそうと、枯れ果てた気力を振り絞る。が、一向に心と身体が起き上がる気配が無い。
当然だ。精神は、とっくの昔に絶望に折れているのだから。
――
必死に歩こうと叱咤してくる魂の叫びが、精神の内側で焦げ付きながら空回りをする。
その無様な努力が自身のことながらあまりに滑稽で、思わず情けない自嘲の嗤いが零れた。
――歩みを止めるは悪し。
――だから何だっていうんだ。此処まで必死に歩いた。気力も体力も底をついた。少しくらい休んだっていいじゃないか。
言い訳がましい建て前を述べ連ねながら石畳に座り込む晶の身体に、
日中の熱を未だに保っている石畳の、灼けるような熱さが晶の身体を煮え立たせるが、今の晶にとってはそれすらも心地がいい。
――飲み込むは非。
――俺は、過去を飲み込んだんじゃない。
最早、声にもならない声で反論を嘆く。
――過去に
――別にいいだろ?
――もし赦されるのであるなら、ずっと祖母と山を散策した記憶に耽っていたいくらいだ。
嗚呼、
一度、沈んでしまえば二度と浮き上がってこれなくなる、甘すぎるほどに甘美な毒だ。
――
――こんな苦しい道行を望めと? 何の成果もないまま、ぐるぐると無駄足ばかり踏まされる滑稽な俺の姿を?
ここまでやって来れたのは、氏子になれる希望があったからだ。
結局、氏子になれないままに盥回しに引きずり回され、挙句の果ては路の真ん中で力尽きようとしている。
――迷わず真っ直ぐ歩むのです。
進んできた。後ろを振り向かず、脇目を振らず。ただ、前だけを見て進んだ。
なのに、未だ歩む路の途上だと云うのか? 努力が足りないと云うのか?
――嗚呼、……疲れた。もう、眠りたい。これが毒であっても構わない、甘美な
最早、晶の姿は欠片も窺えず、ただ、靄の
「晶や」
聞き覚えの無い、しかし、何処か懐かしい女性の声が晶に届いた。
「もう、終わりかい?」
――だって……。
「こんなところで巡礼を終えるのかい?」
――疲れたんです。
「疲れたのかい? なら、仕方ないのかね」
――もう、歩きたくないんです。
――皆、俺のことを
「皆が云ったから、お前は穢レ擬きになるのかい?」
――……違う。
ぴきり。薄い殻が割れる音がした。
「違わないさ。お前は、自分で認めたんだよ」
――…………違う。
ぴきき、ぱき、ぱきり。何時か
「あぁ。なら、仕方ないのかもね。お前を見る目が、お前を話す口が、お前を穢レと云ったんだからねぇ」
――…………………違う。
だけど、心を割るものなんてもうありはしない。
「お前は
――……………………違う。
そう、
晶という一個の存在が、
「目を
「――――――――――違うっっ‼」
ぱきん。口元を覆う
その内側から、元の晶の口元が
「違う、違う、違う、違う、違うっっ‼」
全身を覆う
「俺を見るな! 俺を嘲笑うな! 俺を否定するな! 俺を憐れむな!」
心にこびりついた澱みが、声となって世界を震わせる。
その度に、晶を覆う靄が割れ飛び続け、心の澱みが消えていった。
何時しか、身体に残る靄は無くなり、残るのは目元と頭半分を覆うそれだけになる。
――それは、晶の心の奥底に残った、本当に最後の本音。
晶が押し殺してきた、最後の一息。
「――――――――――――もっと
ぱり、、ん、、、。最後の靄が晶から剥がれ落ちる。
元の13歳の晶の姿がそこにはあった。
「……見ていましたよ」
「……え?」
何処までも優しく澄んだ声に、晶の視線が上を向いた。
晶の正面に居たのは、藍染めの華やかな小袖に身を包んだ女性。
肩まで流れる髪は人のそれとは思えない鮮やかな群青色、周囲のものと同じ狐面から晶を覗く瞳は髪と同じ色に
当然、晶にも見覚えは無かった。
こんな女性と会っていたなら、忘れる訳など無いからだ。
――だけど、何だろう。この、旧知の身内に逢ったような懐かしさは。この
晶の戸惑いを余所に、女性が口を開いた。
「見ていましたよ、晶。お前が母親の胎に居た時から、ずっとお前を見ていました。
――嗚呼、今でも思い出せる。お前という奇跡が息衝いたと知った時、
どれだけ、お前の成長を
どれだけ、
――知らない。そんな話、僕は全然知らない。
――僕は、気付いた頃には
「いいえ、いいえ、
嗚呼、漸く耳に届く声で云ってあげられる」
――よく、頑張りましたね。
「あ…………」
女性が告げた言葉に、息が詰まる。
何気ないその一言。その言葉をどれだけ待ち望んだか、どれだけ
「それに、故郷でもお前の成長を慶んでくれたものはいたでしょう」
そうだ。何で忘れていたんだろう。
静美がいた。
誰も、いなかった訳じゃない。
「そっか。僕は、
「えぇ。お前は
――何処かから、幽かに遠雷のような音が聴こえた。
その音に、女性は僅かに
「――もう大丈夫ですね。
顔を上げなさい。お前はもう、彼の地に
「え? …………あ」
云われて周囲を見渡す。
何時の間にか、晶のいる場所は石畳の続く路ではなく、壮麗な神社の拝殿正面であることに気付いた。
拝殿に大きく掲げられた『朱沙』の二文字に、晶は安堵を覚える。
――やっと、辿り着いた。
もう既に、空には星が見えている。
完全に、周囲は闇に沈んでいるはずなのに、
この輝きは、まるで………………。
――祭壇。
脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
「時間だね。
――晶や、よくその
女性は、腰を
「……嗚呼。
「お祖母様を……!」
知っているのか。驚く晶に、微笑みだけを返して女性は立ち上がった。
「ええ。知っていますとも。彼女とは、
幽かに聴こえるだけだった遠雷が、止まないままに大きく聴こえ始める。
少しずつ、地響きまでも伴いながら晶の身体を揺さぶり始めた。
「何が……!?」
「この地を知ろしめすお方が、お前の事に気付いたのですよ。
此処は、あのお方のお膝元。
「最期って、どう云うことだよ!?」
神社に満ちる
「仕方が無いのですよ。お前を護るためとはいえ、私は禁を犯し過ぎました。
神代契約は、
嗚呼。ですが、嬉しいものですね。
女性の身体が、輝きにゆっくりと溶け始める。
その姿に、天啓のように晶の脳裏にその名が浮かんだ。
祖母に宿っていた上位精霊の名前。
「――
驚き、女性の動きが止まる。そして、狐面から覗く瞳が嬉し気に潤む。
その指が狐面の縁に掛かって、狐面が取り払われた。
「嗚呼。なんと誇らしいことか。
見ていますか、房江? 私たちの育て上げた
――晶や、後ろを向いてはいけませんよ。
お前は、もう何処にでも行けるのだから」
「――!――――――っ!!」
最早、言葉にはならなかった。
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