3話 禊ぎ給え我が過去を、祓い給え我が業を3
初夏の陽光に照らされたそこは、やはりというか人間は
着いたのか、本当にここなのか、不安から周囲を見渡して最後に正面の拝殿を見上げた。
拝殿の上に掛けられた社名を読む。
「……
口に出して確かめる。確かにそう読めた。
着いた。漸く着いた。
その安堵から大きく息を吐く。
名前も同じことだし、ここが鐘楼の地とやらで間違いはないのだろう。
僅かに持ち直した気力で背筋を伸ばして、拝殿を見て右側にある社務所に足を向けた。
「……あの、失礼します」
脇で
その社務所の中では、茅之輪神社の女性とよく似た背格好の女性が同じく能面にも似た無表情のまま座っていた。
「
子供が一人。社務所に声をかけてきたのに、驚く素振りも見せずに深く頭を下げて一礼を返した。
どうやって晶の来訪を知ったというのだろうか? そんな疑問が脳裏をよぎるが、やはり、特定の疑問以外は形にならないらしく、口を衝いて出てこない。
「……『
疑問も嘆きも溶けて消えるだけで、結局、意味もなく口を開閉するだけで終わる。
代わりに残ったのは奇妙に凪いだ感情のみで、口から出たのもそんな単調な要請だけだった。
「
女性は粛々と頷き、受付台に六角柱の籤箱を置く。
「どうぞ、お引きください」
10歳ほどの子供の姿になった晶は、自身の置かれた状況に疑問を持てず、促されるままに両の手で籤箱を持ち上げた。
先の籤箱と同じく二回、三回と振る。
かさり。ひどく軽い音と共に、二つ折りの紙が台上に落ちた。
「内容を検めてください」
感情の見えない女性の声に促されて、晶は籤紙を開いて中を視る。
その中は、真白い表面。
しかし、暫く視るとじわりと墨が浮き出て一文を書き出した。
「――『
がくりと持ち直しかけた気力が萎えていく。
これからの道のりもただならぬ苦痛が襲うだろうことは、紗の掛かった晶の思考でも容易に想像がついた。
「――華蓮の鬼門を鎮護する
「……はい」
とぼとぼと踵を返した晶の背中に、女性の声が掛けられた。
「忠告を」
それは、先の女性と同じ口調で告げてきた。
「これより先、貴方様は4つの巡礼を経るでしょう。
――悩むは是。認めるは是。飲み込むは非。捨てるは非」
淡々と告げられた内容は、よくは理解できなかったものの何らかの心構えのようなものかと受け入れる。
先と同じく、女性の声には晶を案じる響きがあったからだ。
だからと云って、晶にその言葉をかみ砕いて理解しようとする余裕など欠片も残っていなかったが。
それでも、僅かに首肯を返して女性に謝意を返す。
そして、去っていく晶に眼差しをそっと伏せて呟く。
「……ご武運を。
貴方様が
――貴方様は貴方様であることを捨てねばならないでしょう」
♢
鐘楼神社の鳥居の外は、やはり、何処までも続く一直線の石畳であった。
画一的な、変わり映えのしないそれ。
そうだろうと思っていたから、驚きは何もなかった。
ただ、視える世界が陽炎のように二重写しに揺らめいて見えたのは変化と云えたが。
一歩、足を踏み出す。
――これで良かったのだろうか?
それは、今更感の強い疑問だった。
引き返したらよかったろうか。
冷静になって考えてみれば、なんだか
まぁ、そもそも精霊すら宿していない子供を化かして何の益があるんだかって疑問にもなる訳だが。
相も変わらず、まるで水中にいるような泥濘の重さが身体に纏わりついている。
振り切る事の出来ない重さに変化はないが、少しだけ晶の思考に自由が生まれていた事実に気付く。
しかし、何かに導かれるように足が止まる事は無かった。
誰もいない静寂の支配する店の前を、疲労や眠気や無駄に引き摺り回されているとしか思えない徒労感のままとぼとぼと進む。
自身は気付いていなかったが、晶の見た目はもう7歳ほどの幼さまでになっていた。
吉報としては、それ以上は年齢が下がらなくなった事だろうか。
――……邪魔なんだよ。
ふと、記憶の底からそんな言葉が蘇ってきた。
誰の言葉、だったろうか? 少し思い返してからややあって思い出した。
……あれは7歳の頃、
罪人よろしく最下座で平伏させられ続けていた晶に、6歳を数えて漸く衆議に上席が許された颯馬が放ったのだ。
――邪魔なんだよ。精霊に見捨てられた、能力も凡百以下の無能が。
――生きてるだけで父上のご迷惑になってるってのに、僕より一年早く産まれただけで主家様に
どう晶の人物像を歪めて伝えられていたのだろうか。
精霊無しは確かにそうだが、晶はそこまで能力が低い訳ではない。
学力に関してはかなり優秀な方だと、不破直利も認めていたくらいだ。
初対面の人間に此処まで悪意をぶつけられたのだ。
まだ矜持も僅かに残っていた当時の晶は、
がり。畳を引っ掻いて怒気に任せて顔を上げる。
――何っ!?……がっっ。
勢いよく顔を上げた瞬間、晶に近くにいた家臣の一人が晶を殴りつけた。
断じて7歳の子供に振るう膂力ではない。
鍛えられた武家の膂力は晶を容易く弾き飛ばし、その身体を衆議の間から続く中庭の縁石へと落とした。
――無能が。颯馬様に口答えするなど恐れ多い!
……ご当主様、申し訳ありませぬ。主上よりお預かりしたモノに手を上げてしまいました。罰は如何様にも。
――……構わん。
獣の
――有り難くあります!!
――ふん、意識はあるか。とっとと座間にて平伏に戻れ。
颯馬の言い分はすべて正しい。貴様が生きているだけで気分が悪くなるわ。
祖母の体調が思わしくなくなり始めた頃から、晶の扱いは加速度的に悪くなり始めていた。
むしろ、義王院に精霊無しが気付かれる前に晶を自死か事故死に導いていた節すらある。
――思い返せば、あれはもう家族では無かったのだろう。
新たな涙が
胸が痛くなるような絶望の果てに、どうしようもない過去が待ってるなんて悲劇と云うより喜劇に近かった。
颯馬の記憶が、涙となって晶の記憶からぼやけて消えていく。
記憶に
♢
光が視界から抜けた後、晶はまた別の神社の境内に立ち尽くしていた。
山脈が近いのだろうか。木立が多く太陽はまだ高いのに薄暗いそこは、何処か陰気な雰囲気を持っていた。
「――お待ち申し上げていました。■■様」
大きく
7歳ほどになった晶との背の差は当然に大きく、晶は見上げて三度目になる台詞を口にした。
「……『
「承っております」
焼き直しのように差し出される籤箱を抱えるように掴んで、2、3回振る。
晶は無表情になっていた。
もう、どうとなれという感が強かった。出てくる籤紙の内容は予想できたからだ。
かさり。地面に落ちた籤紙を拾い上げて、浮かび上がる文字を読む。
「――『
「華蓮の
もう訊く気にもなれなかったが、構わず女性はそう告げた。
「貴方様は
――過去に媚びるは
何らかの指針だろうか。再度、思考に紗が掛かり始めた晶は、呆とその言葉を受け入れた。
ただ、思考も放棄しかけている晶が踵を返した時、女性の声が囁くように耳に届いた。
「ご武運を。
貴方様が挑むは至天の
「……え?」
思わずその言葉の真意を問おうと振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、静寂に支配された境内のみが晶の視界を迎え、問い返す相手がいないことを告げた。
無意味に口を開閉させるが、その疑問も形を成す事は無く諦めて晶は鳥居に向き直った。
♢
次に晶を迎えるのは何の記憶であろうか。
晶は頭が悪い訳でも察しが悪い訳でもない。ぼんやりとだが、この石畳を進む度に過去が浮かび上がり、剥がれるように抉られるように消えていく事に気付いていた。
陽炎に揺らめく石畳を、ただ無心に歩を刻む。
己が背負っていた心の澱が剥がれ落ちたが故だろうか、晶の歩みを縛っていた重さが、最初の頃と比べれば随分と軽くなっていた。
――貴様を生かしているのは、我らが義王院への忠誠と祖母の情けと心得よ。
嗚呼、やはり。
最も忌まわしい存在が、記憶の底から侮蔑の声を投げてきた。
晶にとって天山は絶対の上位者であった。
あの男の気分次第で、晶が殺される可能性は充分に有り得たからだ。
しかし、天山にとっても晶とは忌まわしいだけの存在だったろう。天山にとって、義王院とは忠誠を尽くしうるに足る主家であったが、それ故に義王院の伴侶に選ばれた晶が精霊の宿らぬ半端モノであったのが腹立たしかったようだ。
殺すのも見捨てるのも義王院の不興を買う恐れがあったため、殊更に手を出される事は無かったが、何度か晶を婚約者から外して颯馬に立場を
それでも、晶がぎりぎりのところで命を繋ぎ止めていたのは、皮肉にも天山の矜持が高かったお陰であった。何故なら、晶が精霊無しであることが公に知られると、雨月の家名に拭えぬ汚点が残る可能性があったからだ。
――それは、天山の矜持にとって避けるべき致命の穢れであった。
そういう意味では、天山にとって祖母の庇護は晶の護りとしては薄皮程度以下の役目しかなかったろう。
しかし、祖母の庇護を突破するという事は、晶の謀殺を周囲に喧伝する羽目になる。
天山は己の矜持ゆえに、自縄自縛の泥沼に嵌まっていた。
ぎりぎりの綱渡りが10歳まで続けられたのは奇跡でしかなかった。
綱渡りが破綻したのも、祖母が寝たきりになった頃であった。
祖母の死と共に、晶は難癖をつけられる回数が増えていく。誰が入れ知恵をしたのかは知れなかったが、義王院との婚約の条件に晶の名前が入れられていなかったのが、追放の切っ掛けになった。
つまり、相当に強引な理屈であったが、義王院と婚約しているのは雨月の嫡男であるという条件さえ満たせればいいと天山が気付いたのだ。
この時点で天山は、義王院が絡む催事以外は総て颯馬を連れて回っていた。
颯馬が嫡男として認められる下地はすべて整っていたのだ。
――貴様が生を赦されている理由の一つは、遠くない内に消える。その後に、貴様を放逐する。
それは、追放のひと月前に面と向かって天山が晶に云い放った言葉であった。
――此処まで生かしてやった恩義を少しでも感じているというなら自裁せよと云ってやりたいが、その年齢では難しかろう。我らが手を下してやってもいいが、貴様の血から無能が
これらは総て、発言も赦さずに平伏したままの晶に向けて、家臣たちの衆目の前で云い放たれたものだ。
何の抗弁も赦さず晶の自我を切り捨てて、天山を含む家臣たちは嗤って晶を蔑んでいた。
――
――
それは、晶に対する処刑宣告であった。
この時は、不破直利の仲裁に加え、病床から少し持ち直した祖母の言葉があったため宣告の撤回がなされたが、当然それだけで如何にかなるならここまで問題が
事実、祖母の死後、この宣告が再び持ち上がり遂には採択されたのだから。
天山に対して、憎いという感情はもはや湧く事も無かった。ただ、汚泥のような
――天山の記憶が、その感情と共に涙に溶けて消えていく。
――己が無になっていくのを、感じる。
己の掌を何の気なしに見る。
無になっていく感覚と共に、掌が、腕が、身体総てが薄く透けて見える様が見えた。
恐怖は無い。通常であるならば半狂乱になるのだろうが、ここまで来ると晶の感情はその殆どが記憶と共に溶けて消えていたのだ。
――それが、正しい事なのか間違いなのか、もう晶には判断がつかなかった。
ただ、晶の姿が透けた時、晶の視界は次の地へと光で満たされた。
♢
「
今度の神社は、拝殿には何も掛けられていなかった。
代わりに、三つ脚で立つ奇妙な鳥居にその名は掛けられていた。
――周りを見渡す。誰もいない。
どうすればいいのか。途方に暮れて拝殿の前まで足を運ぶ。
そして、漸く気付く。拝殿正面に置かれた賽銭箱の脇に隠れるようにして、年の頃12歳ばかりの少女が座っている。
「あの……」
「知ってる」
ただ、先刻に
「正者がこの地を
――ううん。『
それは、歓迎の言葉なのだろうか。晶には、その感情の質がどうにも理解できない。
ただ、拒否されているように感じられないのが救いだった。
晶の瞳に映る世界は、未だに初夏の陽光照らす明るい世界だ。
だが、何処となく世界全体が昏く感じられるのはなぜだろう?
汗ばむほどの暑気とは別に、何処か
「――仕方が無いよ。この
此処は本来なら、正者は足を踏み入れる事すら赦されない神域。■■の■■たる貴方だからこそ赦される世界なのだから」
勢いをつけて、少女は拝殿から境内へと降り立つ。
その所作も、降りる速度も何処か水中にいるような揺らめき緩慢な速度。
「――『
疑問が出ないほどに思考の縛られた晶だが、それでも聞き逃せない言葉が其処に有った。
「……違う」
「違う?」
霞む思考を振り払い、必死に言葉を紡ぐ。
「俺は、……『
「同じ」「…え?」
「『
「同…じ?」「ええ」
晶の必死さとは裏腹に、軽く返された言葉に同じならいいかと、ふっと力が抜けた。
「なら、…いいか。
――『
「承っております」
そして、何度目かになる籤箱が目の前に差し出された。
晶の透けた手は頼りなく見えてもしっかりと籤箱を掴み、一回、大きく振る。
かさり。あっけなく二つ折りにされた紙片が、境内の石畳に落ちた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
短く礼を述べて籤紙を開く。
籤紙に記された内容は、やはり短く一文。
「――『
いろいろな感情を通り越して細波が起たなくなった意識の表層に、はぁ、と嘆息が一つ口から零れた。
「華蓮に於いて
――あぁ、そう。
それが、少女の言葉に対する晶の正直な感想であった。
晶の人生は、その殆どが昏い感情に占められていた。
その
晶の記憶の底に残っているのは、
それは、晶が手放したくなかった、生きる気力そのものだった。
「ねぇ」
少女が囁く。
「
「……」それは、何の慰めであろうか。自然、口の端が歪んだ。
「
視線を上げる。その先には、薄くとも慈愛に微笑む少女の笑顔があった。
「
……それは、正者の権利だから」
「だけど、
だから、忘れないで。思い出して。
――貴方は
少女は囁くように告げる。今までの女性がそうであったように。
「貴方様は岐路に立たれるでしょう。
――
ゆらりと、少女の姿が陽炎に溶けるかのように透けていく。
それでもなお、微笑みながら少女は告げた。
「ご武運を。
貴方様が至るは
試練の果てに貴方様が求めれば、必ずや――」
――世界は貴方様に応えるでしょう。
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