1話 華蓮にて、生を食む2

 晶の通う小角おづぬ第参中等学校がけたのは、昼を越えて暫くの後の事だった。


「失礼します。桑部教師せんせい、今月の授業料です」


 終礼の後、晶は今月の授業料を払うために教員室に赴いていた。

 中等学校に支払う授業料は洲都の子であれば無料タダであるが、洲都の外から来た子である晶は、子供の収入とは思えない金額を毎月支払っていた。

 教員室で手渡された月賦袋を確認して、晶の担当教諭である桑部くわべ直子なおこは複雑そうな表情を晶に向けた。


 一応、学ぶ意思のある子供は全て受け入れる建前があるため窓口は用意されているものの、正直、其処までして中等学校に入学する子供は初めてだったからだ。


 しかも、晶は現在13歳だ。

 本来なら第二学年に進級している年齢のはずだが、故郷で通っていた尋常小学校の成績の照会は追放処分のため願い出られなかったから、卒業に必要な単位を取得するために1年分の留年をして通う羽目になっていた。


 とまれ、仕事は仕事。桑部くわべ直子なおこも、相手が義務毎月の支払いを果たした以上、仕事に手を抜く心算はさらさらに無かった。


「……はい。確かに受け取りました。

 けど、晶君。少し訊いていいかな」


「今夜は守備隊で不寝番ですので、時間が掛からなければ問題ありません」


「あぁ、仮眠ね。大丈夫、直ぐに済むわ。

……晶君が、ウチの中等学校に転入してきてもう半年ね。正直、晶君は直ぐに支払いに行き詰って止めると思っていたんだけど、ちゃんとここまで払いきったわね」


「……祖母の遺言でしたので。多少無理してでも、中等学校までは卒業するようにって」


 直子は、教師以外の部分で純粋に驚いた。晶が初めて祖母に言及したのもそうだが、その時の晶の表情がひどく優しく痛々しい微笑を浮かべたからだ。

 洲都の外から流れてきた少年は、生き残るために早熟する傾向にあるが、直子が知る限り、晶はその中でも別格だった。

 教室内に在っても常に張り詰めた雰囲気を孕んでいた晶にも、年相応の微笑みを浮かべる部分が残っているのだと実感したのだ。


「そう。いいお祖母ばあさまだったのね。

……年齢から考えたら1年遅れだけど、卒業程度には学費以外は問題ないわ。

 晶君は成績も充分に良いけれど、今後の進路は如何するの?」


 これが本題だった。晶は中等学校の卒業までの意向は示していたが、進学か就職か、自身の意思をはっきりと示していなかったのだ。


 何時、勉強しているのか晶の成績は非常に良いし、このまま高等学校への進学は問題ない。

 守備隊に所属している事は知っていたが、安月給の守備隊で食べていくことは難しい以上、市民権の獲得と云う目的を果たしたら、隊を離れるのは当然と云えた。


 不安があるとすれば収入面だが、高等学校になると奨学金の対象になり得る。

 それは、収入の不安定な晶にすれば、魅力的な提案になる筈だった。


「……もし晶君が希望するなら、特別進級スキップも含めて私の方でも推薦状は書けるけど」


 直子からすればそれは晶に対してというより、自身の実績固めのための布石だった。

 だが、利己主義エゴイズムからくる言葉であっても、晶の利益は充分にある筈だった。

 それでも困ったように首を振って、晶は曖昧に結論を濁した。


「すみません。…直ぐに答える事はできません。

 返答はいつまでが限界ですか?」


「……そうね。特別進級の応募が神無月10月の終わりからあるの、いろんな準備も考えたら、其処が待つ限界かな」


 後、3ヵ月後だ。ゆっくりと考えるとしようか。

 急いで結論を出しても得のしない案件だ。

 利点と問題点を洗い出して、その後に進学の是非を考えても遅くは無いだろう。


「判りました。熟考の後、返答させていただきます」


「そう。期待しているわね」


 晶の逡巡には気付いていたのだろうが、それを言及するような野暮な真似を直子はしなかった。

 話は以上。と頷いて見せると、晶は一礼を残して教員室から出ていった。


 ♢


 まだ新しい木造校舎の正面を出ると、中天に上りきった陽光が容赦なく晶をいた。

 夏季休暇前の賑やかさが一転、誰もいない校舎は不気味なほど静けさが広がっている。


 目を眇めて空を見上げると、雲一つない晴天が広がっていた。

 夕立の一つも降らんかな、等と割と暢気に期待するが、ぬかるんだ山を歩く労苦を考えれば降らないほうがいいか、と虫のいい方向転換を心の中でして見せた。


 踵を返して、校舎の横手に足を向ける。

 その先、小角第参中等学校の敷地内には、学校名の由来となった小角神社がひっそりと隣接されていた。

 うっそうと茂る藪に囲まれた小さな社は、周囲から隠れて行動するのにうってつけの場所だ。

 念には念をの精神で、さらに社の裏手に回った。


 社の下に隠していた襤褸ぼろを引きずり出して、全身を覆うように二重に頭から被る。

 それから声色を誤魔化すため、綿わたを小さく千切って口に含む。

 最後に老人から買い付けた白髪で作った髭で口元を隠せば、橋の下にでもいそうな短身矮躯の老人が其処に出来上がった。

 この猛暑の中、頭から襤褸を被れば熱中症になりかねないが、竹筒に満たした水と気合で克服する覚悟を決める。

――これから先、向かう場所で晶の年齢が公になる訳にはいかないのだ。


 晶は、大人を基本的に信用していない。

 それは当然、幼少期の精神を削る生活のせいではあるが、それ以外にも、隙あらば足元を見てこようとする大人が居る事を、これから向かう先で思い知っていたからだ。


 藪の中を通り、人目を避けてから大通りに出る。

 その先にある大きな煉瓦造りの建物が晶の目的地だった。


 その建物の主は呪符組合と云った。元は陰陽寮を発祥とする組織である。

 本来は、在野の陰陽師を統括する組織であったが、現在では陰陽師でなくとも呪符を作成できるため、呪符の流通を管理する存在として名を変えた歴史ある組織であった。


 しかし内情はと云うと、過去の栄光は取り敢えず、長い歴史は停滞と腐敗を生んでいるが、呪符の需要は変わらず存在しているため、建て直されることなく存続している組織というのが実状であった。


 洋風に強く影響された赤煉瓦の建物は数年ほど前に新築されたばかりで、建物ガワ組織なかみも漸く足並みを揃えだした雰囲気を漂わせていた。

 大洋を3つ越えた先にあるという外つ国の諭国ロンダリアからやってきた、文明開化の波に乗せられた瀟洒主義モダニズムの建物は、そうと云われなければとてもそんな歴史を持つという組織には見えない。

 内部なかに足を踏み入れても、その印象は薄れるどころか強くなる一方だった。

 仮漆ニスが丁寧に塗られた光沢のあるカウンターと、洋装を着こなす洒落人たちが話し込んでいる広間ロビィの光景は、一般に思い浮かべる陰陽師の姿とかけ離れていた。


 それらの者たちを視界に入れ無いよう、晶は俯き加減に老爺の芝居を続けながらカウンターの前に立つ。

 老爺の真似事を続けてもう3年だ。正直、慣れたものだし、相手も疑いもせずに応対をしてきた。


「お久しぶりです、玄生様・・・。本日も何時ものご用向きでしょうか?」


 何時も担当する受付嬢が、ぺこりと可愛らしく頭を下げる。

 声には出さず、首肯だけを返して自身の意思を示す。

 下手に声を出して、自身の本当の年齢を知られる訳にはいかないからだ。

 懐に用意しておいた10枚組の回生符をカウンターの上に置く。

 この回生符が、晶の主な収入源だった。

 晶は守備隊に卸す回気符とは別に、呪符組合に回生符を卸すことで自身の収入としていた。

 

 身体を侵食する瘴気を祓い傷を癒す回生符は、作成技術の高さから作成者が少なく流通する数もかなり少ない。その反面、穢レと相対する守備隊や防人さきもりたちの需要は常に高く、常に供給不足に悩まされていた。

 当然、その供給バランスの傾きに見合った額は要求される。玄生と名を偽る晶の呪符も、組合の中に於いて高額で取引をされていた。


「――お待たせしました、此方が代金となります。金額の検めをされますか?」


 カウンターに5円と云う高額の札束が置かれる。回生符10枚はそれだけの大金を晶に与えていた。

 極力、素肌も曝さないように細心の注意を払いながら、呪符の代金を袂に引き入れて、親指で弾きながら目も向けずに数を数える。

 確かに5枚の円札がある。高額紙幣の支払いは数を数えるのは楽だが、円札の支払いは日常の使用には少々の難事となるので頭が痛かった。もう少し年齢が高いのであれば、銀行に口座が作れたものをと少し歯噛みをする。

 とまれ、此処で考えるべきことではない。金子を入手したのだし、長居は無用と踵を返す。


「あ、お待ち下さい、玄生様。銘押しの件ですが…」


 つとに言い募る受付嬢に、嫌な気分を覚える。

――これがあるから、あまり寄りたくはないのだ。

 何を企図しているのか、ここ最近、この受付嬢はしきりと晶の呪符を値上げする傾向に持っていくそぶりを見せていた。

 まあ、この受付嬢が、というより、この組合がなのだろうが、面倒なことこの上ない。隠し事の多い晶はこういった交渉事をあからさまに避けていた。


「当組合の職員が先走ったようで、玄生様にご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございませんでした」


 嫌味にならない程度に下げられた頭に、先だってまでの銘押しを勧める強引な態度は窺えず、晶は内心で首を傾げた。組合が純粋な謝意を表明するなど、珍しいの一言では済まされないほどの珍事である。

 当然、何らかの企図が隠されているのだろうが、その企図する先が見えない晶は相手の思惑に乗らないためにさらに一歩退いて相対することを決めた。


 気にしていない。その意思を込めてかぶりを振る。果たして、相手は正しくこちらの意思を読み取ったようで、ほっと安堵の息をついた。


 つまり、ここからの言葉・・・・・・・が本題という事だ・・・・・・・・。晶は気を引き締めた。相手がこれまでの方針を譲ったのは、それ以上の難癖をつけてくるための前振りに過ぎない。


「――玄生様にお聞きしたいのですが、何故、銘押しを造られないのでしょうか?

 当組合は、玄生様が銘を持たれる事を強く希望しております。確かに当組合に銘押しの方が居られると組合としての箔がつくため、やや・・強引に話を進めた経緯がありますが、決して玄生様に不利の働く話ではございません」


 晶が銘押しを嫌った理由は非常に単純で明快だ。

 銘押しになると、呪符組合に加入したことになる。


 確かに組合に加入することは明確に利点がある。呪符は高額だが、霊力を籠めた閼伽水あかみずや霊糸は勿論、呪符の材料となる和紙や墨に至るまで、厳選が必要となる素材も高額で取引される。

 そう云った、謂わば必要経費を差し引くと、晶の手元に残る金額は低額ではないものの学費や日々の生活費を賄うとトントン程度しか残らなくなる。


 しかし、組合に加入すれば、素材にかかる材料費を一部負担してくれるようになるのだ。

 同じ境遇の子らと比べれば、比較的、金銭に余裕を持っている晶だが、それは比較的であって充分な余裕を持っている訳ではない。必要経費が安く抑えられるというメリットは晶にとって代えがたい魅力に見えた。


 だが、組合に加入するということは、同時に義務も負うことになる。

 それは、組合からの要請が断りにくくなるという事であり、更には晶の本当の年齢や正体が知られる危険を容認する事に他ならない。

――それは、厄介事を呼び込む切っ掛けになり得るのだ。故に、それは避けなければならない。


 否、それは言い訳だ。自身を納得させるための口当たりの良さを糊塗ことした、表面だけの言葉の羅列に過ぎない。


 心の奥底にある本音はただの一言。

 大人に踏み躙られた子供が飼う、心の中の一匹の幼い獣。

 あの日から、牙を剥き出してがなり立てるそれが叫ぶのだ。


――俺の人生で、これ以上、大人共を利させてなるものか。


 拒絶の意思を籠めて、頭を振る。

 晶の意思が固いのは判っていたが、此処まで明確に拒否を示されるとは思っていなかったようで、受付嬢の顔が困惑に染まる。

 それでも僅かな期待を寄せて幾度か形を変えて提案がされるが、結局のところ、晶の拒絶を翻意させる事はできなかった。


 ♢


 襤褸ぼろを着た短身矮躯の老人が組合の外に姿を消してから暫くして、玄生を担当する受付嬢の松笠まつがさ裕子ゆうこは、椅子に沈み込んで大きく息を吐いた。

 予想はしていたから気落ちは無かったものの、結局、玄生を説得できなかった事を後で3区組合長上司に突き上げられると考えると、幾分か気が重くなったのだ。


 交渉のコの字も知らん相手上司が、こっち現場の苦労も知らずに外野で喚き立てるのだから、不快感もいや増すというものだ。


……と云うか、その上司が元々の原因なのだから、始末に負えない。


 自分の失態ケツは自分で拭け! 淑女に有るまじき言動で怒鳴りたくなる衝動を圧し殺して、カウンターに突っ伏した。


――しかし、いまいち理解できないのは、玄生が何故、銘押しを承諾しないのか、だ。

 今日の提案は、細かい内容は違えど結論として、銘押しの提案と組合の加入を目的としている事は同じだ。組合の意向が大きく影響しているのは当然だが、玄生の利益が大きいのもまた事実なのだ。


 裕子は、今回の交渉は捨てる覚悟で、玄生の譲れない一線を測るつもりだった。

 大人・・であれば、何かしらの利益と不利益を天秤にかけて判断を下す。様々な選択肢を提示して玄生の反応を見たが、選択肢を挙げるたびにどんどんと拒否の姿勢が固くなっていくのを肌で感じたのだ。

 このまま行っても千日手手詰まりなのは明白で、相手の嫌厭感けんえんかんを煽るだけになる前に話を切り上げたのがつい先ほどだ。


「――松笠君。玄生殿は帰られたかね?」


「組合長…。はい、先ほど帰られました」


 諸悪の根源上司が背中から声を掛けてきたので、思い切り嫌そうな表情を作ってから、振り向きざまに余所行きの笑顔を向けて見せた。

 職員の中からでもちょび髭と陰口を叩かれるその男は、媚びた笑顔で裕子の背後に寄ってきた。

 帰った頃を見計らって此方に接触してきたところを見ると、先だって、玄生の機嫌を大きく損ねた事実程度は自覚していたのだろう。


「それで? 玄生殿は何と?」


「お伝えした此方の提案は、すべて拒否されました。

……やはり、一筋縄ではいきませんね」


「ち、あの爺ィ。此方が大幅に譲歩したのにすべて蹴ってくれるとはな。何処まで自分を値上げすれば気が済むんだ」


 交渉の不発に上司の表情が歪む。

 此方が付かず離れずの関係を維持し続けようと結論立てて動いていたにも拘らず、相手の了承も得ずに銘押しの登録と印鑑を作成したのはこの男だ。

 仲介料とは別に小金を懐に入れピンハネようと、しみったれた犯罪を画策した奴の台詞とは思えない暴言を吐いた。


 因みに、守備隊関連に玄生の情報が流れたのは、この男が何も考えずに動いて情報屋ネズミにすっぱ抜かれたからで、玄生に落ち度は一切ない。


 序でに、情報屋ネズミは組合の本部うえにも情報を回し売って、此方が必死に隠していた、効力の高い回生符を作成し得る玄生と云う手駒の存在を知られたのだ。

 本部から成果を要求されて突き上げを喰らっているのは、間違いなく裕子の責任でもないだろう。

 しかも、多少無茶でも玄生を組合に加入させなければならなくなったという、手痛い失敗を犯したにも拘らず、この男が華族のやんごとない血縁というだけでたいして責任を問われていないというのが、更に腹立たしかった。


「…組合長。先日もお伝えしましたが、今回の交渉は捨てる予定のものでした。

 玄生様が加入されない理由を探るための一手に過ぎません」


「ふん。それで、何か判ったのか?」


「いえ、様々な選択肢を提案してみましたが、玄生様のお気に召すものが無かったようです。

 提案を練り直して、再交渉ですね」


「どうせ金子カネだろう? 積み増ししてやれ」


「それは無いでしょう。あんなに効果の高い呪符を作成出来る技量があるのに、あの程度の収入で文句云ってなかったんです。玄生様の譲れない一線は別にあるとみるべきです」


「ち、いいか、早急に結果を出せ。でないと本部方の査察がやってくる。そうなったら、俺の評価が落ちてしまう。お前もただでは済まないんだぞ」


 聞き逃せないその言葉に、思わず相手の目を見返した。

 裕子の知る限り、組合長の小遣い稼ぎは現在のところ、玄生の一件限りだ。査察が来てもそこまでの問題にはならない筈だった。


「組合長。真逆まさかと思いますが、他にも何かやってないですよね?」


 あるなら早よ云えと言外に要求すると、組合長の挙動があからさまに怪しさを増した。

――マジか。こいつ、何かやってやがる。


「お、憶測で物を云うな! 失礼だろう!!」


「……前例を掘り下げるのは、失礼ではありません。組合長、迷惑を被るのは知らなかった職員もなんですよ!」


「無い。無いったら無い!」

 形勢が悪くなり、手を振って話を強引にぶった切られた。

 話は以上だと云わんばかりに、強引にその場を去る男を睨みながら、裕子は自身の身を守る手段の模索を決意した。


 ♢


 襤褸を脱いで帰途に就く。

 途中にある銀行の大時計を見ると、西洋時計で午後の3時を指しているのが見えた。

 今から寝ても、寝られて1刻半が良い処か。


 路面電車トラムがチンチンと鐘を鳴らして停車場から発車する、その後ろを混み合いながら進む人と自転車の群れ。その中に紛れ込みながら、晶は自身の住まいへの帰路を急いだ。

 組合の有る華やかな大通りから住宅街を抜け、家より畑が目立つ辺りに到着する。

 其処にひっそりと建つ長屋の一角が、此処に流れ着いて3年、誰にも邪魔をされる事ない晶の安住の地であった。


 長屋の入り口で、長屋主の老婆が七輪を煽っているのが見えた。

 七輪の上で、焼き始めた煎餅がチリチリと香ばしい音と香りを放っている。

 盲いた老婆は、毎日この時間、煎餅を焼いて副収入にしているのだ。


「オババ、ただいま」


「おや、晶坊。今日は一段と遅いね。不寝番じゃあなかったかい?」


「うん。1刻後に起こしてくれると有り難いかな」


「ひっひ。流石に辛いかい。

 いいよ、煎餅を買ってくれるならね」


「うん。3枚頂戴」


「10りんだね」

 差し出される掌の上に、10厘玉を乗せる。

 受け取ったそれを親指で弾いて10厘玉を確かめる、お互いに慣れた日常のやり取りだった。

 にやりと嗤って、乗っていた煎餅に砂糖醤油をたっぷり含んだ刷毛を振る。

 炭の上に落ちた醤油と粗目糖ザラメが、一層派手な音を立てて周りに食欲をそそる匂いを広げた。


「焼き立ての良いところをやろうねぇ」

 惚けたその言葉に、晶の頬が綻んだ。


 晶がこの地で生きていくのに必要な様々な常識ちえは、この老婆から齎されたものだった。

 この老婆も、他洲から流れてきたものだと晶に云ったのだ。故に、右も左も知らない子供を見ていられなかったのだと。そして、この長屋に連れてきて、生きていくための手段を教えられた。

 無私で与えられたその知識は、晶にとっての生きていく前提そのものだ。

 だからこそ、晶にとって目の前に居る老婆は、祖母以外で数少ない心から信用できる相手だった。


 新聞紙に包まれて渡された3枚の煎餅。その一つにかぶり付く。

 醪醤油もろみじょうゆ粗目糖ザラメの甘さが、炭の香りと共に馥郁ふくいくと口腔に広がった。

 夢中になって、バリバリ音を立てて齧り尽くす。

 1枚食べ終わってから、残りをどうするか迷った。

――置いておくか、焼き立ての旨い内に食うか。


「…うん? 汗臭いのぉ。晶坊や、寝る前にせめて身体を拭いておおき」


 老婆の忠告に、晶は煎餅を後回しにして寝る事を決めた。

 起こす時間を念押しして、晶は自分の部屋へと戻る。

 井戸水を含ませた手拭いで丹念に身体を拭いてから、床に就いた。


 慣れた日常。眠気は直ぐに訪れた。

――夢を見る事は無い。晶の見るそれ・・は、圧し潰されるような悪夢と決まっているから。


 それでも現実は過ぎていく。何処までもゆっくりと忙しなく。

 何処までも穏やかに流れるこの時間、それが華蓮にて生を食む晶が守ると誓った日常だった。


 ♢


TIPS:呪符組合について。

 陰陽寮に端を発する組合。建前上、中央の陰陽省とは別口の独立した組織となっている。

 本来、陰陽師の領分である呪符を、中位精霊を宿しているものでも作成できるようにして、民間で普及させることを目的としている。


 ただ、原価を含めた元々の単価も高く、中位精霊を宿すものは、基本、華族であるためか本来の目的は思うように達成できていないのが現状である。


 実際の現状はといえば、陰陽省の天下り先という情けない目的のために使われていることが多い。

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