Tier59 無実

「マイグレーション……」


「そういうことだ。マイグレーションが可能なんだから、いちいち事情聴取なんか取る必要無いんだよ。全部、視えるからな。言葉は簡単に嘘を付けるが、記憶は簡単には嘘を付けない」


 マノ君は自分の頭を人差し指でトントンと叩いた。


「おい! あんたら、さっきから何話してんだよ! それに、大丈夫って何だよ! あんたらも、どうせオレが犯人だと思ってんだろ! ふざけんなよ! もう、帰れよ!」


 先程、自分の訴えをマノ君に無下にされた広崎さんからは怒りというよりも諦めや哀しみが帯びていた。


「悪いな。まぁ、そんな風にしないでくれ。すぐにマイグレーションするから」


「何だよその……マイグレーションっての? 俺に何する気だよ!?」


 そうだった。

 つい、いつものようにマイグレーションという言葉を使ってしまっていたが、広崎さんのような一般人に聞かれても大丈夫だったのだろうか?


「その辺含めて、お前は全部忘れるから安心しな」


「忘れる?」


「お前のこの数分の記憶を消すってことだよ」


「……あんた、何言ってんだ?」


 広崎さんは唖然とする。


「それって、マノ君の特性ってやつ?」


 僕が着任してきた時の事件の後、中村拓斗さんの記憶を丸一日ほど消したのと同じようなことをマノ君はやる気なのだろう。


「そうだ。特性って言っても、俺自身まだまだ使いこなせていないがな。それでも、これぐらいの短時間であればある程度細かな調整は可能だ」


 相手の記憶も視れて、消すことも出来るなんてマノ君は万能過ぎると思う。


「あんたら、どうかしてんだろ」


 呆れて物も言えなくなるような僕達を見て、広崎さんは変に入っていた力が抜けたようだった。


「どうかしてるついでに、一つお願いしていいですかね?」


 マノ君は広崎さんに向かって左人差し指をピンと立てる。


「広崎さんのおでこをここにくっつけて欲しいんです。そっちの方が体力の消耗が少ないんでな」


 マノ君がくっつけて欲しいと言っている場所は、面会室にある透明のアクリル板にレンコンのような無数の穴が開いていて、声が通るようにするための所のことだ。

 これの正式名称は見当もつかない。

 本当に何と言うのだろう。


「なんで、そんなことしなきゃいけないんだよ!」


 理由の分からないマノ君の要望に広崎さんは強く反発する。


「なら、こう言えば分かりやすいか? 今から、お前が無実かどうか証明してやるって言ってんだ」


「……え?」


 おでこをくっつければ自分が無罪なのか証明されるという荒唐無稽な話、広崎さんにとってはどこをとっても信じる要素が見当たらないはずだ。

 それでも、広崎さんはマノ君に言われたように黙っておでこをゆっくりと透明のアクリル板に無数の穴が開いている所に近づける。

 なぜなら、今までで広崎さんに対して無罪である可能性を考えて接したのは僕達だけだったからだと思う。

 どんなに荒唐無稽な話でも、自分の無実の罪を証明するには蜘蛛の糸でも手繰り寄せたいはずだ。

 そして幸いにも、その蜘蛛の糸は数多の罪人達が上って来ようとしても決して切れないほど頑丈なものだった。


「よし。少し、そこでじっとしてろよ」


 広崎さんがピッタリとおでこをくっつけたのを見届けて、マノ君は左腕の肘から手をアクリル板に押し付けて体のバランスを取り、広崎さんのおでこに向かって自分のおでこを重ね合わせるようにくっつけた。


 ほんの数秒の間、面会室は静寂に包まれた。


「ふぅ、もういいぞ」


 一つ軽いため息を漏らしたマノ君はサッと自分のおでこを離した。

 広崎さんはおでこをくっつけたまま、呆然としている。

 僕はマノ君の口元を注視する。

 次に発するマノ君の言葉を待っているからだ。


 マノ君が僕に顔を向ける。


「こいつは日頃の行いはともかく、今回の件に関しては無実だ。この事件にはマイグレーターが関与している」


「本当に!? 良かった〜! じゃあ、広崎さんはこれからどうなるの?」


「おそらく、手塚課長が榊原大臣を通して法務省に掛け合うはずだ。それで、適当に理由を付けて広崎を無罪にするっていう筋書きが妥当だろうな」


「そっか、ちゃんと無罪になるんだね! 良かったですね、広崎さん! もう、心配いりませんよ! ……広崎さん?」


 僕がどんなに呼びかけても広崎さんはおでこをくっつけたまま微動だにしない。


「ねぇ、マノ君! 広崎さん、反応が無いんだけど大丈夫かな!?」


「そう、焦るな。大丈夫だ。記憶を消したせいで、脳がバグを起こさないように記憶を整理してるだけだ。多少、放心状態が続くがすぐに治る」


 そう言って、マノ君は広崎さんに近付いた。


「広崎さん! 大丈夫ですか!? 起きてますか!? 広崎さん! 起きて下さい!」


 マノ君は大きな声で呼び掛けながら、アクリル板をコンコンと手の甲で鳴らす。

 そのアクリル板ってあんまり衝撃を与えたら駄目な気がする。

 特別措置が無ければ、すぐにでも職員の人が飛んで入って来るはず。


「……う〜ん……あ、あれ?」


 広崎さんはマノ君の執拗な呼び掛けにようやく放心状態から解かれた。


「大丈夫ですか、広崎さん? 急にぼーっとしちゃって。体調が悪いなら、また日を改めますか?」


 広崎さんを放心状態にした張本人が根も葉もないことを言う。


「あ、いや、大丈夫。え〜と、どこまで話したっけ? あ〜……とにかく俺は無実なんだよ!」


 数分の記憶が消された広崎さんにおでこをくっつけてマノ君にマイグレーションされた記憶はない。


「分かりました。では、こちらで改めて再捜査しますので少々時間を下さい」


 マノ君の言葉に広崎さんは目を見開いた。


「本当かよ! 本当に再捜査してくれるんだな! 俺を無実にしてくれんだな!」


「はい」


「よがっだぁ〜俺、本当にこのまま駄目になるがど思っだぁ〜」


 マノ君の返事を聞いて広崎さんはたまらず泣き崩れた。

 捕まってから今まで、よっぽど心細くて不安な日々だったんだだろう。

 泣き崩れても無理もないはずだ。


「絶対に無罪にしてみせますから、もう少し辛抱して下さいね!」


「あぁ、ありがとう」


 広崎さんは心底ほっとしたようだ。


「それでは、我々は失礼します」


 そう言ってマノ君は面会室から出て行く。

 慌てて僕も、広崎さんに頭を下げてからマノ君を追いかけるようにして面会室を後にする。


「なるべく早く、ここから出してくれよな!」


 面会室を出る直前、広崎さんの希望に満ちた声が僕の背中に投げかけられた。

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