Layer9 実験器具
八雲はテーブルの上にあった実験器具を手元に寄せてコーヒーを淹れる準備をはじめた。
隣に座っている姫石の顔を見ると、俺と同じように意味がわからないという顔をしていた。
立花の方はまるで喫茶店のマスターがコーヒーを淹れてくれるのを待っているような顔をしている。
え?
もしかして俺達が知らないだけで、もう巷ではこれが常識なの?
そんなわけないよな?
立花、頼むからそんなの当たり前でしょみたいな顔をするのやめてくれ。
不安になるから。
なんてしょうもないことを俺が(たぶん姫石も同じようなことを考えていたと思う)考えている間に八雲はテキパキと準備を進めていた。
まず金属製の三脚に金網を置いて、水を入れた大きめのビーカーをその上に置いた。
ガスバーナーを用意して、ガスの元栓、コックの順に栓を開けてマッチに火をつけた。
ガス調節ねじを回しながらガスバーナーにマッチの火を近づけると、ふわっと赤い色の背の高い炎ができた。
空気調節ねじを回して赤色の炎を青色の炎に変えてからビーカーのある三脚の下へと置き、ビーカーに沸騰石を入れた。
水が沸騰するまでの間に八雲は化学準備室からインスタントコーヒーと牛乳パックとスクロースと書かれた白色のプラスチックの容器を持ってきた。
化学準備室にスクロースがあるのはわかるが、コーヒーと牛乳があるのはおかしいだろう。
どんだけ化学室を私物化してるんだよ。
「
八雲が聞いてきたので
「俺は何も入れずにブラックで頼む」
と答えた。
ただ、その聞き方だとたぶん姫石がスクロースって何と聞いてくると思うぞ。
「あの~スクロースって何? それって人が口にして大丈夫なの? 見るからに実験とかでしか使わなそうな見た目してるんだけど……」
姫石がおずおずと質問した。
予想は的中したみたいだ。
「スクロースというのはいわゆるショ糖と呼ばれているものだ。砂糖と成分はほぼ一緒だから口にしても人体には何の問題もない。たしかに実験の時に使うこともあるが、普通に砂糖みたいなものだと考えてくれていい」
「なんだ良かった~てっきり危ないものでも入れられるのかもと思ったよ。容器の見た目も余計に怪しかったし。けど砂糖の主成分の名前がスクロースって言うなんて初めて知ったよ。化学室なんかに砂糖みたいな人が口にできるものがあったんだね。あたし、そういうのは食塩ぐらいしかないと思ってたよ」
姫石がほっとしたように言った。
「いくらここが科学室だからといって人が口にできないような危険なものを人様に出したりするはずないだろう」
「一度だけ私にその危険なものを出しかけましたけどね」
立花がさらっと、とんでもないことを言った。
「
「変な言い方はやめてくれ、立花後輩。まるで私が意図的に出したみたいに聞こえるじゃないか。あれはあくまで誤って出してしまっただけであって他意はないんだ」
「だからってスクロースと水酸化ナトリウムを間違えたりしますか?」
それはたしかに危険だな。
「あの時はいろいろと忙しくて寝不足もあったせいか、スクロースの隣に置いてあった水酸化ナトリウム溶液を間違えて持ってきてしまっただけだ。もちろんすぐに気が付いた。
……たしかにあれは一歩間違えれば大惨事になっていたかもしれない私のミスだ。本当に申し訳ないと思ってる。すまなかった」
もしも立花が水酸化ナトリウムを飲んでいたら良くてやけど、最悪の場合は死んでいても何もおかしなことじゃない。
「そんなにかしこまって謝らないでください。冗談ですよ。先輩はちゃんとその時に何度も何度もたくさん謝ってくれたじゃないですか。もう気にしてませんから。大丈夫ですから」
「立花後輩が気にしていなくても、命に関わることだ。下手したらどれだけ謝っても取返しのつかないようなことになっていたかもしれないんだ。何度も謝って当然のことだ」
「その通りかもしれませんけど、先輩は寝不足で疲れていたんですから、それくらいのミスはあってもしょうがないし、たいししたことないと思います。現に先輩は自分のミスにすぐ気づいたじゃないですか」
「それはそうだが……」
「もう、先輩は少し真面目すぎるんです! ほら、お水もう沸いたみたいですよ」
立花の言った通り、先ほど入れたビーカーの水が沸騰していた。
八雲は立花の言葉を聞いて少しは納得したようだ。
責任感が強すぎるというのも厄介なものなのかもしれない。
「もう沸いたか。で、姫石華はどうする?」
ガスバーナーの炎を消し、沸騰石を取り出しながら八雲は聞いた。
「じゃあ、あたしはミルクだけ入れてもらおうかな」
「了解した」
八雲は牛乳パックにこまごめピペットを差し込んで、中の牛乳を吸い出し二本の試験管に注ぎ込んだ。
そして、沸騰したビーカーの水をさっきよりも小さめの三つのビーカーに注いだ。
「玉宮香六。すまないがビーカーの数が足りないため、こちらでも構わないか?」
そう言って八雲は三角フラスコを出してきた。
普通にコップを出すという選択肢はないのだろうか。
なんで全部、実験器具でまかなおうとしてるんだよ。
「あぁ……まぁ大丈夫だ」
俺の了承を得て八雲は三角フラスコにお湯を注いだ。
インスタントコーヒーのふたを開けて、薬さじを使って四人分を薬包紙の上に出した。
それをお湯の入った三つのビーカーと一つの三角フラスコに入れて、ガラス管(棒)でかき混ぜた。
そして試験管に入ったミルクを二つのビーカーに注いだ。
残りの二つは俺と八雲のものらしい。
どうやら八雲も俺と同じブラックのようだ。
ミルクの入ったビーカーの一つにさらに薬さじでスクロースを取り出して入れた。
そしてコーヒーの色が淡い茶色になるまで、またガラス管(棒)でかき混ぜた。
「既製品だからある程度の味の保証はできると思う」
そう前置きして八雲は俺達にコーヒーを渡してくれた。
「いや、わざわざありがとな」
「ありがとう、八雲君」
「先輩、いつもありがとうございます」
立花には普段からコーヒーを淹れているようだ。
何も聞かずにミルクとスクロースを入れていたのだからそれも当然のことか。
にしても、立花のコーヒーにはかなりのスクロースを入れていた。
あれではコーヒーの苦みは消され、ただの甘い飲み物でしかない。
苦いのが苦手ならわざわざコーヒーを飲む必要はないだろうに。
「実験とかでしか使ったことがないものをこうして食器みたいに使うなんて初めてだからなんだか変な感じがするね」
いや、変な感じじゃなくて変なんだよ。
「どうしてコーヒーを飲むのに実験器具しか使わないんだ? インスタントコーヒーや牛乳が常備してあるってことは普段から飲んでいるんだろ? だったら適当にコップぐらい用意しておけばよくないか? それとも実験器具しか使わない理由でもあるのか?」
「いや、特に理由はない」
ないのかよ。
「なら、どうしてコップとか用意しないんだ? これだけ化学室を私物化してるんだ。今さらコップぐらいどうってことないだろう」
「単純に用意するのが面倒くさいだけだ」
そんなに面倒くさいことか!?
「そんなに面倒くさいことか!?」
思わず声に出てしまった。
「というか、立花もこのままでいいのか? 普通にコップで飲みたいとか思わないのか?」
「別に私は先輩がこのままでもいいなら全然大丈夫です……はい」
なんかこの子、八雲に対してだけ緩くない?
「あたしも別にコップとかじゃなくてもいいかな。化学室で実験器具を使ってコーヒー飲むとか特別感あって良くない? なんか秘密組織みたいで面白いじゃん!」
コーヒーを実験器具を使って飲むことのどこが秘密組織みたいなのか全く理解できないが、俺だけが実験器具でコーヒーを飲むことに違和感を感じているようだ。
俺がおかしいのか?
実験器具に入っているコーヒーの見た目があまり美味しくなそうに見えるのは俺だけなのか?
なんだか本当に俺だけがおかしいような気がしてきた。
マジョリティ怖っ!
そんなことを考えながらコーヒーを飲んでみると
っ!?
ただのインスタントコーヒーなのに普通より旨く感じる。
なんでだ?
「八雲君の淹れてくれたコーヒーなんだか普段飲んだことのあるインスタントコーヒーとは思えないくらいすごくおいしいよ!」
姫石も俺と同じように感じたようだ
「そうか。俺はあくまで商品に書いてある正しい手順を踏んだだけだ。しっかりと正しいやり方でやれば私が淹れなくても同じ味になる。単純にこのインスタントコーヒーがおいしいだけなのだろう」
「そういうものなのかな? でも、おいしいことに変わりはないよ!」
「インスタントコーヒーは先輩が作れる唯一の料理ですから」
インスタントコーヒーは料理なのだろうか?
料理を作れない俺が言えたことではないが……
「あ! じゃあ玉宮と一緒だね。玉宮も料理できないんだよね。料理ができないまんまじゃ将来生きていけないよって、いつも言ってるんだけどね」
わざわざ言わなくていいぞ、姫石。
「料理なんかできなくても、なんとかなるだろう……たぶん」
「なるわけないでしょう!」
間髪入れずにツッコまれたが、俺にだって反論の余地がある。
コンビニ弁当とかあるだろ、と言いたいところだが体に悪いとか言われておしまいな気がしてきた。
残念ながら反論の余地はなかったようだ。
「そうですよ、先輩! 少しは料理できるようになってください!」
「料理など作れる必要はない。必要な栄養を摂取できればそれでいい」
いいぞ八雲、もっと言ってやれ!
なんだ、反論の余地はまだあったじゃないか!
「なら先輩はもうコーヒーを飲まないでくださいね。だって別にコーヒーに必要な栄養素なんてありませんものね」
「いや、それは思考をクリアにする時の薬みたいなものだから……」
「それなら病院でそういう薬を処方してもらってください」
「そんな薬あるわけ……」
「嫌なら少しは料理ができるようになってください」
「……わかった」
日本の科学の未来を担う男が一つ年下の女の子に言い負かされるとは……
立花……恐ろしい子!
「そんなことより、一つクイズでもしないか? 」
唐突に話題を逸らすように八雲は言った。
さすがにその話題のすり替え方は無理があるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます