第2話 ブバスティス
エジプトの国境を越えたムクター一家の馬車は、砂漠地帯を何日もかけて、東へ東へと進んだ。そしてメンフィスでナイル川を航行するブバスティス行きの船に乗った。
「父さん、ナイルの辺には緑がいっぱいだね」
父親と母親の間にはさまれ、レイラは明るく顔を輝かせながらデッキの手すりを握りしめる。
川縁で洗濯をしている女たちや漁をする男たち、水浴びする子供たちの姿。その先に見渡す限り緑の大地が広がっていた。
「豊かな水と土地、これがエジプトだよ」
ムクターの声に自信がみなぎる。
「まるで別世界に来たようだわ」
マブルーカも興奮ぎみだ。
「母さん、ほんとに黄金の都だね」
「あたしはそんなに欲張りじゃないわ」
「母さん、黄金の話ばっかりしてたじゃない」
「リビアの生活が貧しかったから、つい」
マブルーカは情けないといったふうに肩をすくめた。
「マブルーカ、レイラ、これからは食べ物に困らない、豊かな生活をさせてやるからな」
レイラとマブルーカの会話を、黙って聞いていたムクターが遠くの巨大な石像を指差しながら二人にむかって言った。
「わぁ! 巨大な猫の石像だわ」
港の入り口に猫の象が立っていた。
「あれが猫の神様のバステト?」
「そうさ、バステト神様だよ」
船がブバスティスの港にさしかかると、二体の巨大なバステトの像が家族を出迎えた。
「母さん、すごく大きな猫の像だね」
レイラは巨大な猫を仰ぎみた。
「大きな金色の瞳に見つめられると、心の底まで見透かされるような気がするわ」
マブルーカは、言葉にできない神秘的な何かを感じた。
「母さんが感じている通りかも知れないよ」
ムクターは妻の手を優しく握る。
マブルーカもじっと握り返す。
「あたしもそんな気がする」
レイラはそういってバステト神の金色の瞳をもう一度見つめた。
ムクター一家を乗せた船が、ゆっくりと巨大な石像の真横を通過すると、船は静かにブバスティスの港に到着した。
「さすが猫の町ね!」
出迎えた沢山の猫たちに、マブルーカが目を見張る。
「ネジム、よかったね。お友達がたくさんいるよ」
レイラはネジムの頭を撫でると、右手でポンと胸に抱きかかえ船をおりた。
ムクター一家が船着き場に足を踏み入れると、大小様々な猫たちからあっという間に取り囲まれた。
人慣れしているのか餌をくれと足に頬をすりつけたり足に絡みついたり。
エジプト人は猫好きで猫を愛していたという。猫好きの国民性に加え、この時代のエジプトは、特に猫好きのリビア系の王が統治していたので、エジプトは王朝始まって以来の猫黄金時代となっていたのだ。
猫達はエジプトのいたるところで飼われ、増やされ、保護され、国の法律で守られた。しかし国外へ持ち出すことを固く禁じられたため、家猫が世界に広まるのを遅らせた原因とも言われている。
こうしてエジプトで可愛がられ、保護され、増やされた猫は百万匹いたと伝えられている。
古代ギリシアの歴史作家ヘロドトスは著書歴史の中で「もし誰かが猫をエジプトから国外に不法に持ち出そうものなら、その人間は死刑か厳罰に処せられた。万が一、人間が猫を殺したり怪我させたりしようものなら、その人間は直ちに死刑にされるか、さもなくば町中の人々から袋叩きにあった」と記している。
エジプト人の猫に対する愛情はとても深く、もし可愛がっていた猫が死ねば、飼い主は眉毛を剃り落として喪に服し、亡くなった猫は各地のバステト神殿の霊廟に運ばれミイラにされて聖墓に葬られた。
エジプトでこれほどまでに猫が大切にされたのは、ただ単に猫好き猫が可愛いというだけではない。猫がネズミから穀物を守り、ネズミを介して広がる疫病を防いでくれ、蛇から人を守り退治するという現実的な理由もあったのだ。
ブバスティスの町はナイルの恵みをうけた肥沃な大地が広がり、多くの人が農業に従事していた。もちろん町のいたるところには沢山の猫がいて、町の人々からとても大切にされている。
「まず町の中心部にあるバステト神殿に行って猫の神様に御挨拶しよう!」
ムクターは大袈裟に腕を上げ、町の中心部を指さした。
町のどこからでもながめることが出来る壮大で贅を尽くした神殿が目に飛び込んできた。
「あなた、きっと運が開けるわ」
マブルーカは満面の笑みを浮かべながら胸の辺りで手を組む。
「もう苦労させないよ」
ムクターはそういってマブルーカの肩を抱き寄せた。
「父さんも、母さんも、ラブラブね!」
ムクターとマブルーカは赤面してお互いを見合う。
「プルルー」
ネジムの頬が嬉しさに緩んだ。
「ほらネジムも喜んでるわ」
レイラは大きな黒い瞳を輝かせネジムをギュウと抱きしめた。
お昼を少し過ぎた頃、ムクター一家はブバスティスの市場に到着した。
「市場、物凄い熱気だね」
レイラは人ごみでごった返す市場の活気に圧倒された。
八百屋、肉屋、陶器売り、怪しげな薬草を売る屋台など、ありとあらゆる物が売られている。
「小さな町だけど、いま、エジプトで一番活気溢れる町なんだ」
ムクターも、様々な人種が行き交うこの町の熱気に煽られ、全身にパワーがみなぎるのを感じた。
「父さん、はやくバステト神殿に行こうよ!」
レイラは小さな籠にネジムを入れた。
「市場のメイン・ストリートを北へ向かえば、神殿の近道だと聞いたよ」
「じゃ、急ぎましょう! はやく猫の神様に会いたいわ」
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