第22話 雛姫の初恋

 夏休みが迫った7月の中旬、なぎさは自習室で夏期講習の科目選択について少々悩んでいた。もうタスクのためにライブ授業を選択する必要はない。格安なオンライン受講で十分だと思う。あとは自習室が使えれば御の字だ。まあ、夏期講習はそれでいいか、と軽く決めてしまった。


 タスクは手応えがあったといって、土曜日の夜遅くに帰ってきた。ホットプレートの会はお開きになっていたが、光一郎と軽く家のみを始めた。いい結果があるといいのだけど、となぎさは心から思った。


 あの日以来、すみれは溶けている。


 光一郎がすみれのことをちょっと気にしているといっていたのは本当のようで、会話も弾んでいた。推しで終わるのか、恋愛で発展するのかは分からないと本人はいっていたが、すみれの今の溶け方を見ると勉強に支障を来すレベルで舞い上がっていた。自習室内ですらこれである。平時は推して知るべしだ。


「とはいえ、デートはできないしな……」


「機会を作るようお願いしておくよ」


 すみれはふにゃふにゃし始めた。


 自習室に雛姫が入ってきて、2人と目が合った。


 雛姫は一緒に歩いてきた男の子と別れ、男の子は自習室内の別の席に着いた。


 なぎさとすみれは瞬時に異変を悟り、雛姫の左右から腕組みして彼女を自習室の外に連行する。


「誰、あのかわいい子は??」


 すみれは雛姫を問い詰めるが、なぎさがふと思い出す。


「あ、いや、見覚えあるぞ。日本史のライブ授業で前の方にいる男子だ。珍しいと思って観察してたことある」


「せ、正解です」


 雛姫はおどおどしながら応えた。すみれは詰問を続ける。


「名前は? 学校は? 吐け!」


「に、西高だよ。2人とも知らない?」


「見たことない。いや、単に視界に入っていないだけだ、たぶん」


「文系だろ。日本史だから。なぜなぎさが知らぬ」


「まあ調べる。けど、かわいい子だな。高2には見えない」


「雛姫がお姉さんに見えるもんな」


高村悠紀たかむら ゆきくん。彼も歴史が大好きで、この前の山峯先生の特別授業にも一緒に行って貰ったんだ」


「あ、声がかからなかったと思ったらそういう!」


 なぎさは6月の特別授業をスルーしていたことを悔やむ。気にしていたらきっと面白いものが見られただろうに。きっとそのときに仲良くなったのだろう。兄を紹介する前で良かった。


「悔しい。雛姫ほどの美少女を口説けるなんてだけで僥倖だろ。あたしが女でなければああああ!」


「く、口説かれてなんかないよ……」


「なぜ、私達の雛姫ちゃんを口説かない! ヘタレか!」


「雛姫、気がついていないだけだと思うぞ」


「……ちょっと勉強会に誘われただけだから」


「それはヤバい」


「なに~~男の家は許しませんよ!」


「ううん。自習室で」


「健全か」


「健全だ」


 自習室であれば、雛姫のご両親が心配することはないだろう。


「なぎさ、行くぞ!」


 すみれはやる気を出している。溶けているよりはいいと思うが――。


「どこに?」


「決まっている。高村とやらの見定めにだ。だいたい、雛姫ほどの美少女なんだから、もう外見だけで舞い上がっているに違いないだろ?」


「そっとしておこうよ。そうとは限らないし」


「ぐいぐい行かれて、雛姫が流されたら、今、止めておけば良かったって後悔をすることは間違いないよ」


「確かに」


「だけど、そんなんじゃないよ……」


 雛姫の顔色が変わり、真っ赤になってすみれの袖を掴み、引き留める。


「ええええええ!!! 雛姫の方が??」


「――死ぬ。私達の雛姫ちゃんが男に……」


 なぎさは胸に手を当てる。ショックが大きい。雛姫はどもりながらいう。


「ふ、2人とも、あ、当てがあるでしょ……自分たちだけ――ずるい」


 すみれとなぎさは前と後ろから雛姫をギュウする。


「暑い暑い~~2人とも暑くないの?」


「ぎゅうさせろ」


「愛の暑さだよ、雛姫ちゃん」


 ようやくギュウから解放されて、雛姫は肩で息をする。


「こっそり見に行くか、なぎさ」


「うん。さっきはちらっとしか見られなかったからね」


「バレないようにお願いね」


 雛姫の許可が出たので自習室に戻り、高村が席に着いた方に目を向けるとまだその席に彼の姿が見えた。美形揃いの講師ばかりがいるこの予備校だが、男子生徒にもこんなかわいい子がいるなんて、何が起きているのだろうかと思う。高村は女の子に見えることもあるくらいの女顔だ。色白で色素が薄く、髪も茶色がかっているが、ブリーチではなく、天然に違いない。


 そして隣にも同じような美少女が座っていて、高村と何やら話をしていた。いかにも仲がよさげで、丁々発止のやりとりをしている。


「うわ、重大案件発生」


「女いるじゃん」


 なぎさとすみれはとぼとぼと自習室を後にする。


「前途多難だな」


「少なくともなんかあるよね。あの感じは」


 雛姫はベンチで2人を待っていた。


「――どうだった?」


「仲よさそうな女の子がいるんじゃん」


「そうなの。でも、いいの」


「なんで?」


 なぎさは雛姫の顔をのぞき込む。


「男の子が気になるっていう体験が出来ただけでも、私にとっては大きな一歩だから。あの女の子が彼とどういう関係であっても、いいんだ」


「否定できないな」


 すみれは腕組みをして頷き、なぎさも同意する。


「見守ることにしますか」


 雛姫は弱々しく頷いた。口ではそう言ってはいるが、初めての恋なのに障害の大きさを思い、悩み、戸惑っているに違いない。何か出来ることはないかな、となぎさは考えたが、まだ何も思い浮かばなかった。




 自分がタスクくんからプロポーズされて精神安定化が図られたからだろう、雛姫の初恋のことが頭から離れなかった。今まで箱入り娘として生きてきた彼女にとって大きな出来事に違いない。恋の行く末がどうなるかは別にして、いい結果が出るといいのだけどとなぎさは思う。


 少し暗くなった夕方の路地を歩きながら考えていると、自転車が後ろから来たことに気づき、なぎさは端に避ける。あまり人通りがある通りではないからか、自転車には勢いがある。


 しかし次の瞬間、何かに腕を引っ張られ、なぎさはその場に転んだ。実は引っ張られたのではなく、手にしていた鞄をひったくられたのだが、すぐにはなぎさには分からない。


 数秒後、立ち上がるより前になぎさは叫んだ。咄嗟のことなのによく声が出たと思うくらい、大きな声が出た。


「ひったくりー! 返せえええ!」


 すると前を歩いていた女の子が振り返り、猛スピードで走ってきた自転車に乗る男を見据えると、瞬時にハイキックを放った。


 自転車は壁に激突し、男は道路に投げ出され、身体を震わせながら、なぎさの鞄を手にしたまま立ち上がろうとした。しかし女の子は冷静にミドルキックを放ち、脇腹をえぐるとひったくり男はその場にうずくまり、動けなくなった。


 女の子は冷静に言った。


「110番」


「う、うん」


 なぎさは震える手でスマホを取り出し、110番をした。


「更に怪我をしたくなかったら、動くなよ」


 女の子はひったくりを見据え、ひったくり男は観念したのか、その場に脇腹を押さえながらあぐらをかいた。


 駅前の交番からすぐに警官が到着し、ひったくり男を確保した。ひったくり男は肋骨が折れている可能性があるとのことで、パトカーで病院に運ばれていった。事情を聴取され、2人ともサインも求められ、後で調書を書くのに署まで来て貰うという話になった。


 なぎさは助けてくれた女の子のサインを見て、顔と見比べて、あんぐり口を開けた。


「高村ゆうきさん?」


「あれ、私のこと、知ってる?」


「高村悠紀さんは知ってる。もしかして自習室で隣にいなかった?」


「弟の知り合いなんだ? 偶然だね」


「友達の知り合いって言うか」


 そうか、姉弟だったんだ。そういえば雰囲気はそっくりだ。


「悠紀の友達の話なんか聞いたことが――もしかしてうわさの春日さんのお友達?」


「知ってるんだ?」


「愛する双子の弟のことですから」


「あ、それも聞きたいけど、それより助けてくれてありがとう。格闘技の心得があるの? あってもすぐに対応できるなんてすごいね」


「――不幸にも巻き込まれ体質なので。こういうことはたまにある」


「あ、そうなんだ。あの、その、お礼がてらに今度、一緒にお茶しましょう。私、青海なぎさです」


「ええ? ぐいぐい来るね」


「そうかな」


 聞きたいことがあるだけなのだが、このチャンスを逃す理由はない。


 ゆうきの連絡先をゲットし、お茶する約束を取り付け、暗くなってきたのでゆうきとは別れた。


 面白くなりそうだな、と犯罪の被害に遭ったのにもかかわらず、なぎさはウキウキ気分で家路をたどったのだった。




 翌日、なぎさはアルフヘイムの自習室でゆうきと再会した。


「昨日はありがとうございました」


「いえいえ。お茶をごちそうになりに来ましたよ」


「お茶といっても自販機のチルドカップでいい?」


「むしろその方が遠慮しなくていいからいいと思う」


 ゆうきとは気が合うんじゃないかな、となぎさは思う。同じひらがな3文字だし。それをいうならすみれもそうだ。珍しいなと思う。


 自販機でチルドカップのラテを買い、ゆうきに渡す。


「で、お話って何かな」


「雛姫ちゃんが――春日さんのことなんだけど、弟さんとお知り合いなのは聞いてますよね」


「ウチの弟、舞い上がってるからそれはもう」


「想像通りだ」


 そして自販機コーナーを出て、廊下のベンチに座る。


「ちらとしか見てないけどあの美少女度は反則だわ」


「わかる。同じ女として嫉妬するよね」


「天は二物を与えずと言うのは嘘だ」


「でもゆうきさんもかわいいよ」


「なぎささんもかわいい」


 2人して笑う。


 なんかよくこのやりとりやっている気がするなぎさだった。


「どんな子か知らないからさ、見定めたいんだけど、情報を提供してくれない?」


「バーター取引なら」


「どんなことでも。小学校高学年までお風呂に一緒に入っていたから黒子の位置までばっちりと。いつ毛が生え始めたかもOKだよ」


「うわー。恥ずかしくなかった?」


「その分、相手が恥ずかしがってくれるから。さすがに中学にあがってからはやめた」


「エロいわ」


「思い返すとエロいねってごめん。こんな話をして」


「いえいえご褒美ですよ。ゆうきさんと悠紀くんのかわいらしいエピソードです。雛姫ちゃんには言えませんが」


「って、春日さんもウチの弟はまんざらでもないってことでしょうか。それは」


「う~ん、たぶん」


「うちの弟、これが初めての浮いた話なんだ」


「雛姫ちゃんもそう言っていた」


「ならば余計に情報を知りたいところです」


「何を2人で話してるの?」


 そこに当の本人、雛姫がやってきて、なぎさに声をかけた。


「あ――すみれちゃんじゃなかったんだ。てっきり、私、すみれちゃんが髪を切ったのかと……」


 雛姫はゆうきを見て、かなり戸惑っている様子だった。


「高村ゆうきです。初めまして。弟が世話になってます」


 ゆうきは立ち上がって雛姫に手を差し出し、雛姫は依然として戸惑い続け、なぎさを見た。なぎさは雛姫の手を取り、ゆうきの手に重ねた。


「昨日の夜ね、ひったくりに遭ったんだけど、彼女が犯人を捕まえてくれたんだ」


「すごい。そんなことがあるなんて」


「で、お礼をしていたんだ。チルドカップのラテで申し訳ないけど」


「いやいや、十分だよ。空手の道が役に立って何より」


「空手だったんだ」


「高村さんも西高生、ですか?」


「うん。4クラスあるからね、青海さんと面識はなかったけどそうだよ」


「そうなんだ……」


「今度、うちの弟の勉強をみてあげてよ。よろしくね」


 そう言うとゆうきは自習室に戻っていった。


「そうか、お姉さんだったんだ」


「さっぱりしたいい人だね」


「高村くんとはだいぶ違う感じ。彼は大人しくて穏やかな人だから」


「活発なところはお姉さんにお腹の中で持って行かれたんだな。双子だっていうから」


「なるほど……」


 雛姫は興味深げに頷いた。


「今度、何か企画しますよ」


「ホント?」


「お姉さんの連絡先もゲットしたしね。何にしましょうか」


 なぎさは考える。これ以上、タスクのことや光一郎先生のことを誰かに教えるのはリスクが高い。何か仲間内だけでできることを考えよう。


 期待する雛姫を前に、なぎさは考え込んだのだった。

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